ISISの存在が突きつけるアラブ諸国の深刻な矛盾

『マネーポスト』新春号に掲載された「ISISの存在が突きつけるアラブ諸国の深刻な矛盾(連載:セカイの仕組み第13回)を、編集部の許可を得てアップします。執筆時期は2014年11月です。

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内戦や紛争で統治が崩壊してしまったシリアとイラクでイスラーム系過激派組織が勢力を拡張している。

日本のメディアは「イスラム国」と報じているが、この名称には問題がある。欧米はもとよりサウディアラビア(スンニ派)やイラン(シーア派)、さらには世界のムスリム(イスラーム信者)のほとんどがこの団体を「イスラーム」とも「国家」とも認めていないからだ。そこでここでは、欧米のメディアにならって「ISIS(アイシス)」と記すことにする。これは彼らの旧称である「イラクとシリアのイスラーム国Islamic State of Iraq and Syria」の略称だ。

CNNなど欧米のメディアでは、ISISは必ず、真っ黒な衣装に身を包み、黒の目出し帽をかぶり、銃を構えて行進する不気味な集団として登場する。それはまるでハリウッドのホラー映画のゾンビのようだ。

実際、彼らの行動はおぞましいのひと言に尽きる。アメリカ人ジャーナリストや人道支援団体に所属するイギリス人を斬首した映像をインターネット上に公開したばかりか、奴隷制復活を宣言し、支配地の少数派異教徒の女性を戦利品として扱っていると報じられた。これがどこまで事実かは議論があるようだが、いずれにせよ現在、世界でもっとも恐れられ、嫌われている集団であることは間違いない。

ところがそんなISISに憧れ、シリアやイラクを目指す欧米の若いムスリムが後を絶たない。日本でも、就職活動に失敗した北大生がムスリムに改宗のうえシリアに渡航しようとしたことが社会に衝撃を与えた。彼の場合は宗教的な動機は薄いようだが、ISISが一部のムスリムに大きな影響力を持つようになったことは間違いない。このおぞましい団体のどこがそんなに魅力的なのだろうか。

カルトの理論がすべて間違っているわけではない

イスラームの知識をほとんど持たない日本人がISISを理解するのに有効なのは、オウム真理教との類比で考えることだ。なぜならISISはイスラームのカルトであり、あらゆるカルトには共通する特徴があるからだ。

オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたあと、メディアは教祖の支離滅裂な言動や、教団を国家に見立て奇妙なホーリーネームを持つ高弟が大臣となる異様な組織を詳細に報じた。しかしこのように、オウム真理教を「論評の価値もない無価値な集団」と見下すと、やがて深刻な矛盾を避けられなくなる。だったらなぜ、一流大学を出た若者が社会的な地位を捨ててまで続々と入信したのか。

ほとんどのメディアは「洗脳」のひと言でこの問題を片づけることにしたが、宗教の専門家のなかには「仏教についてはオウム信者のいっていることが正しい」との指摘もあった。カルトだからといって、その理論がすべて間違っているとはかぎらないのだ。

麻原彰晃とその弟子たちは、こういった。

「日本の仏教はすべてニセモノだ」

なにを根拠に彼らはこのように主張したのだろうか。

ヨハネスブルグは”未来社会” 週刊プレイボーイ連載(179)

昨年末に南アフリカのヨハネスブルグを訪れました。ここは「世界一危険な都市」として知られていますが、実際には一般の旅行者がトラブルに巻き込まれることはほとんどありません。これは治安がよくなったからではなく、(黒人以外の)旅行者が行動できる範囲がきわめて限定されているためです。

ヨハネスブルグで宿泊できるホテルは、実質的にはサントンとローズバンクという郊外の高級住宅地にしかありません。空港で客待ちしているタクシーも危険とされているので、あらかじめ送迎を手配しておきます。東京に例えるなら、羽田空港に着いたら迎えの車で田園調布か自由が丘に行き、都心にはいっさい近づけないという異常な状況です。

高級住宅地には六本木ヒルズのような大型商業施設があり、民間警備会社のセキュリティガードが頻繁に巡回していてきわめて安全です。その周辺も昼間はふつうに歩けますが、夜になると人通りはもちろん車もほとんど走らなくなります。

都心(ダウンタウン)に行くときは市内観光ツアーに参加します。観光といっても街を歩くのは駐車場から大通りを10メートルほどで、ショッピングセンター内のエレベータで展望フロアに上がり、ヨハネスブルグの地理を説明してもらって終わりです。あとは車の中から街の様子を眺めるだけで、これでは野生動物を観察するサファリと同じです。

ヨハネスブルグは南アフリカのビジネスの中心地で大学もあり、現地のガイドブックで「ぜったいに立ち入ってはならない」と書かれているいくつかの地区を除けば、通りを行き交うひとのほとんどは一般市民です。ただし白人はもちろんアジア系の姿もまったく見ないので、ガイドをつけずに歩けばものすごく目立つことは間違いなく、安全かどうか試してみる気にはまったくなれません。

南アフリカはアパルトヘイトという人種差別政策を長く続けてきましたが、現在はすべての人種は平等です。高級住宅地に住む黒人富裕層も多く、そこだけを見れば人種差別は過去の歴史です。ただしこの国の問題は、成功した黒人に対して貧しい黒人が圧倒的に多いことにあります。

タウンシップはアパルトヘイト時代の有色人種居住区で、いまでも廃材とトタンでできた家に暮らすひとたちがたくさんいます。それに加えて国家破産した隣国のジンバブエなどから大量の不法移民が流れ込み、都心の近くにスラム街をつくったり、ホームレスとしてその日暮らしをしています。その結果ヨハネスブルグは、「1%金持ちと99%の極貧層」という究極の格差社会になってしまったのです。

このような社会で暮らすのはどんな感じなのでしょうか。案に相違して、ひとびとはみんな活き活きとしています。怒ったり悲しんだりしていても仕方ないからでしょう。

南アフリカは「小さな政府」のネオリベ国家でもあります。あまりにも貧富の差が拡大してしまったので、いまさら社会福祉を充実させようがないからです。

このようにして、高圧電流の流れる高い塀、監視カメラ、「侵入者は銃撃する」という警告板が街に溢れた“未来社会”が生まれたのです。

『週刊プレイボーイ』2015年1月19日発売号
禁・無断転載

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タウンシップの貧困地域に並ぶトタンの家(Soweto@Johannesburg)
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高級住宅街の高い壁と高圧電線(Rosebank@Hohannesburg)

 

「オッカムの剃刀」と不愉快な世界 週刊プレイボーイ連載(178)

「オッカムの剃刀」は14世紀の哲学者・神学者オッカムが用いた哲学の論法で、「より複雑な説明と、より簡潔な説明があった場合、後者を採用すべきだ」というものです。「単純な説明が常に真実である」ということではなく、経験的に、「単純な論理の方が正しいことが多い」といっているのです。

具体的な例を挙げてみましょう。

東日本大震災の前後で日本人の幸福度を測ると、震災後に「自分は幸福だ」と感じるひとが増えていることがわかりました。ある学者はこの結果を、「大きな災害によって日本じゅうが“絆”を意識したからだ」と解釈しました。共同体への帰属意識は幸福感を高めますから、それなりに説得力のある主張です。

しかしこのデータは、ずっとシンプルな仮説でも説明できます。

「幸福」と「不幸」に絶対的な基準があるわけではなく、感情はあくまでも相対的なものです。各国の最貧困層を比較すると、インドのスラムに暮らすひとたちはニューヨークのホームレスよりはるかに幸福感が高いことが知られています。これにはさまざまな要因があるでしょうが、いちばんの理由は「インドにはものすごくたくさんの貧しいひとたちがいる」からです。

みんなが貧しければ、自分が貧乏でもたいして気にはなりません。それに対してニューヨークの摩天楼をさまよい歩くホームレスは、きらびやかな世界や成功したひとたちを日常的に目にすることで、どんどん「不幸」になっていきます。

そう考えれば、大震災後に幸福な日本人が増えた理由もわかります。テレビには毎日、津波によって家族を亡くし、家や仕事などすべての資産を失った膨大な数の被災者が映し出されました。難を免れたひとたちは、世の中には自分よりはるかに不幸なひとがたくさんいるという単純な事実に気づきました。「日々の生活は厳しいけど、あのひとたちに比べればマシだ」という感情が多くの日本人の幸福感を高めたのです。

それではなぜ、より複雑な“絆”説が唱えられるのでしょうか。それは、オッカムの剃刀にかなった単純な説明が心理的に不愉快だからです。「募金や被災地のボランティア活動で幸福感が高まった」という話の方が心理的な負荷がずっと小さく、読者や聴衆から文句をいわれる恐れもありません。このためおうおうにして、科学的な検証を無視して心地よい説明に飛びついてしまうのです。

もちろんこれは、“絆”説が間違っているということではありません。「より単純な仮説が提示できる以上、それを反証する義務を負うのは複雑な説明をする側だ」というだけのことです。

現代社会では、暗黙のうちに「政治的に正しい」説明が強要されています。これは「関係者の誰をも傷つけることのない、万人にとって心地いい説明」のことです。

オッカムの剃刀は、「政治的な正しさ」の背後にしばしばより単純で不快な論理が隠されていることを示します。しかしほとんどのひとは、「この世界が醜く残酷だ」という現実を受け入れることができません。そのため世論を気にする政治家や官僚は間違った前提で政策をつくり、より悲惨な状況を招いてしまいます――現代社会の混迷とは、つまりはこういうことなのです。

『週刊プレイボーイ』2015年1月5日発売号
禁・無断転載