どれだけ修行しても金銭欲から逃れられない「はだかの高僧」 週刊プレイボーイ連載(195)

弘法大師空海が修行の場として開いた日本仏教の聖地・高野山は今年開創1200年を迎え、5月21日まで記念の大法会が行なわれています。火災で焼失していた中門が172年ぶりに復活したほか、金堂の本尊がはじめて公開されるなどイベントが盛りだくさんで、多くの善男善女が参拝に訪れました。日本の仏教文化の精華に注目が集まるのは、まことにもって喜ばしいことです。

高野山真言宗の総本山である金剛峯寺の説明によると、空海の説いた密教とは、仏の真実の言葉=真言の秘密を知るための瞑想など特別な修法のことです。このきびしい修行によって仏の知恵を悟れば、心の悩みや苦しみをなくし、「完全な人格」をつくることができるのだそうです。これも、まことにもってありがたい教えです。

真言宗の高僧ともなれば、私ども下々の民とは異なり、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい/恨み)、愚痴などの煩悩とは無縁の気高い精神性を会得しているにちがいありません。

ところがこの高野山真言宗で、2013年2月、内局トップの宗務総長の不信任案が可決され、宗会が解散されるという“お家騒動”が起きました。報道によれば、宗務総長らはお布施や賽銭など非課税の浄財を含む30億円を日本株のほか、トルコリラや南アフリカランド、ブラジルレアルなどの新興国通貨に投資し、東日本大震災直後の2011年3月末に15億3000万円の含み損を抱えたといいます。取材に対し、宗務総長は「めちゃくちゃ利益があったいい時代に組んだ予算を縮小できなかった」、財務部長は「坊主には無理と思ったが、証券会社に言われるままに購入した」とこたえています。

しかしこれは、ずいぶんとおかしな話です。空海が教えた密教の修行を積み、仏陀の「完全な人格」にかぎりなく近づいているはずの高僧たちが、証券会社の営業マンふぜいにころりと騙されるのでしょうか。だとしたら、「なんのための修行なのか」と思うのは私だけではないでしょう。

さらに不思議なのは、宗務総長が利益=金儲けのために投資したと明言していることです。仏陀は人の苦の根本原因として三毒をあげ、その筆頭を貪欲としています。仏教の目指す解脱とはこの煩悩を克服し、悟りの世界へと至ることです。ところが高野山の高僧は、あろうことか信者の浄財でひと儲けしようと企み、大損していたのです。

アンデルセンの童話「裸の王様」では、愚か者には見えない特別な布地で服を仕立てるという詐欺師に騙された王様が、裸のままパレードを行ないます。家臣や観衆たちは、自分が馬鹿だと思われないよう、見えない衣装を誉めそやしますが、そのとき一人の子どもが「王様は裸だよ!」と叫ぶのです。

高野山の不祥事は、この「裸の王様」によく似ています。密教の修法とは、愚か者には見えない布地のことなのではないでしょうか。

高僧たちが煩悩にまみれているのなら、開創1200年の華々しい行事も鼻白んでしまいます。金銭欲にとりつかれた彼らが、今回のイベントで投資の損を取り返そうと考えたとしても不思議はないからです――もちろんこれは、こころ卑しき衆生の邪推でしょうが。

参考:2013年4月22日付「朝日新聞」朝刊「高野山真言宗 30億円投資 浄財でリスク商品も 信者に実態伝えず 『粉飾の疑い』混乱」

『週刊プレイボーイ』2015年5月18日発売号
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新卒一括採用という「年齢差別」はもうやめよう 週刊プレイボーイ連載(194)

就活中のアルバイト学生から、「スマホを机の上に出しておいていいですか?」と訊かれました。なんのことかと思ったら、人気企業の説明会は参加人数が決まっていて、募集から30分以内に申し込まないと落選してしまうのだそうです。これではまるで、アイドルのコンサートのチケット争奪戦みたいです。

「大学生は学業を優先すべし」との政府の要請により、今年から就活時期が大きく繰り下げられ、採用情報や説明会情報の解禁が学部3年の3月からになりました(採用選考開始は4年生の8月から)。その結果、数少ない説明会に学生が殺到することになり、希望者全員を受け入れることができなくなって「先着順」になったようです。こんなことでは、学生は学業どころではなくなってしまいますから、かえって逆効果でしょう。

厚生労働省のホームページには、「雇用対策法が改正され、平成19年10月から、事業主は労働者の募集及び採用について、年齢に関わりなく均等な機会を与えなければならないこととされ、年齢制限の禁止が義務化されました」と書かれています。ところが新卒採用では、企業は堂々と「学部卒は24歳、修士修了は26歳」などと年齢制限をしています。なぜこんな違法行為が許されるかというと、厚労省が「日本的雇用慣行」を守るためと称して、新卒採用を法律の適用除外にしているからです。

日本以外のすべての国は、新卒採用も含め、労働市場におけるあらゆる年齢差別を人権侵害として厳しく禁じています。それなのに日本の司法や行政が差別を放置しているのは、彼ら自身の組織が新卒一括採用と年齢による序列でできているからです。これでは、民間企業に「年齢差別をやめろ」などといえるわけがありません。

正月やゴールデンウィークの旅行が大変なのは、同じ時期にたくさんのひとが一斉に移動するからです。これは交通機関や旅館・ホテル、観光施設にも大きな負担をかけますから、旅行時期の分散はすべてのひとにとって利益になります。

新卒一括採用もこれと同じで、採用期間を短くすればするほど採用市場は混雑し、学生も企業も重い負担に苦しむことになります。それにもかかわらず、なぜこんな非効率的で差別的な制度をいつまでも続けているのでしょうか。

近代というのは、それまで好き勝手に生きてきたひとたちを資本主義市場経済に合わせて訓育していく過程でした。そのためにつくられたのが、学校、軍隊、工場などの訓育施設です。こうした施設の役割は、雑多なひとたちを性別と年齢で分類し、閉鎖的な環境のなかで特定の思考様式や行動様式を「洗脳」していくことです。

日本人は個人と組織の契約関係をまったく理解できないまま、“近代的訓育”に過剰適応しました。日本型組織とは、同期や先輩・後輩が義兄弟となり、支配者に忠誠を尽くし、集団に滅私奉公することなのです。

その典型が軍隊ですが、第二次大戦の敗戦で国民の訓育機能を失ってしまいます。それに代わるように、学校と工場・会社への偏愛が異常なまでに高まりました。

差別だろうがなんだろうが、官民一体となって労働改革に頑強に抵抗するのは、彼らが大好きな「軍隊生活」を守るためなのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年5月11日発売号
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”奴隷労働”をしながら「残業代ゼロ」を批判する不思議なひとたち 週刊プレイボーイ連載(193)

安倍内閣が今国会で法制化を目指す「高度プロフェッショナル労働制」は、メディアによって呼び方がまったくちがいます。ある新聞は「脱時間給制度」、別の新聞は「残業代ゼロ制度」で、この3つが同じ法案だということを知らないひとも多いでしょう。

このなかでもインパクトが大きいのは「残業代ゼロ」で、働いてもお金がもらえないのなら、そんな法律を支持するひとがいるわけはありません。これは「人種差別法案」とか「戦争参加法案」と同じで、最初に問答無用で否定的なレッテルを貼り、議論そのものを拒絶する典型的なプロパガンダの手口です。

不思議なのは、「残業代ゼロ」を旗印にこの法案を強く批判する新聞社が、従軍慰安婦問題や原発報道でトラブルを起こし、今後は「中立公正な立場」で報道すると紙面で宣言していることです。「残業代ゼロ」という決めつけに対しては、法案の作成にかかわった経済学者などから「あまりにも偏向して不公正」と抗議されていますが、それとこれとは別なのでしょうか。

さらに困惑するのは、「残業代ゼロ」制度を「問題なのは残業代が出ないことではなく、長時間労働に歯止めがきかなくなることだ」と批判していることです。これではますます論点がわからなくなるばかりで、「過労死法案」とでもしたほうがよほどすっきりします。

「高度プロフェッショナル」は年収1075万円以上という要件ばかりが強調されますが、これは本来、社内弁護士や社内会計士など専門的な資格・技能を持つスペシャリストを想定しています。彼らは「会社に所属している自営業者」ですから、報酬が青天井で転勤など人事異動の対象にならない代わりに、働き方は自分で管理し、会社が要求する成果を達成できなければ職を失うことになります。自営業者に収入の保障などないことを考えれば、これは当たり前の話です。

それに対して「正社員」という日本独特の職業身分では、定年までの雇用保障と引き換えに、会社はどのような理不尽な要求をしても許されることになっています。日本では労使協定で事実上無限定の時間外・休日労働が認められていますが、グローバルスタンダードの労働基準ではこれは明らかな違法行為です。そのため日本は、ILO(国際労働機関)の労働時間関係条約をひとつも批准できません。

日本人の長時間労働は終身雇用・年功序列の日本的雇用の悪弊で、「残業代ゼロ」制度とはなんの関係もありません。同じサラリーマンでありながら、一部の人間が「プロフェッショナル」として高給を得ることに嫉妬するひとが批判しているのでしょう。

日本では一部のブラック企業だけでなく、いたるところでサービス残業という名の「残業代ゼロ」すなわち無給の“奴隷労働”が蔓延しています。日本のマスコミでも、サービス残業のないところなどありません。

この話がグロテスクなのは、「残業代ゼロ」で働いているひとたちが、「残業代ゼロ」法案を批判していることです。それよりさらにグロテスクなのは、本人がそのことに気づいていないらしいことです。

サービス残業は「現代の奴隷制」ですから、それを一掃するには経営者に懲役刑を科せばいいだけです。こういう当たり前の主張をする「リベラル」が日本にいないのは、みんな奴隷労働が好きだからなのでしょう。

参考:濱口桂一郎「適切な規制で選択多様に」(日経新聞2015年3月23日朝刊「経済教室」)

『週刊プレイボーイ』2015年4月27日発売号
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