ISISの存在が突きつけるアラブ諸国の深刻な矛盾

共産主義政党・人民民主党による強権支配が行なわれていたアフガニスタンでは、反体制派のムスリムがムジャーヒディーン(ジハードを行なう者)を名乗って激しい抵抗運動を行なっていた。ソ連軍がそのアフガニスタンに侵攻すると、若手のイスラーム法学者のなかから、「異教徒を追い出しイスラーム国家を樹立することがムスリムの義務である」と唱える者が現われた。これが現代のジハード(聖戦)論で、それに感化されてアフガニスタンを目指したのがサウディアラビアの名家に連なるウサーマ・ビン・ラーディンだ。

各国から集まったムジャーヒディーンたちは、冷戦下のCIAやアラブ諸国から多額の資金を集め、1989年にソ連をアフガニスタンから撤退させた。この“勝利”によって、彼らが自分たちの正しさが証明されたと考えたことはいうまでもない。

ISISは突然変異によって生まれたカルトではない

1990年に、イラクのサッダーム・フセインがクウェートを軍事占領するという大事件が起きた。とはいえ、フセインはアラブ民族主義を掲げるバアス党の出身で、クウェートは部族の長が王を名乗っているのだから、「正しいムスリム」にとって、これはじつはどうでもいい出来事だった。

彼らにとっての大問題は、湾岸戦争をきっかけに米軍がサウディアラビア駐留したことだった。マッカとマディーナ(メディナ)という2つの聖都の守護はムスリムにとってもっとも重要な義務であるにもかかわらず、それを異教徒に任せるなどあってはならないことなのだ。こうして、かつてはアメリカの援助を受けてソ連軍と戦ったビン・ラッディーンは反米へと傾斜し、それが2001年の同時多発テロへとつながっていく。

ISISは突然変異によって生まれたカルトではなく、こうした現代のジハード論の延長上にある。

アメリカに占領されたイラクは、「自由」や「デモクラシー」という近代の異教によって汚されている。シリアは独裁者が反体制派のムスリムを弾圧・虐殺してきた冷酷な世俗国家だ。さらにイラクとシリアの国境は、第一次世界大戦のサイクス・ピコ協定によって、イギリス、フランス、ロシアがオスマン帝国を分割した際に勝手に決めたものだ。だからこそイラクとシリアを「解放」し、帝国主義者が決めた国境を引き直し、アラブの地にイスラームの法の支配を取り戻さなければならない……。

こうしてISISはカリフ制を復活させ、「イスラム国」の樹立を宣言した。

もちろんこうした過激思想を、大多数の穏健なイスラーム法学者たちは否定している。だがそんな彼らも、ムハンマドがクルアーンのなかで、アッラーの言葉として、カリフ(宗教指導者)の下にシャリーア(イスラーム法)に基づいたウンマ(ムスリム共同体)をつくるよう命じていることは認めざるを得ない。だが現代の“イスラム国家”は、イランを別とすればその実態は世俗主義で、ムハンマドの教えから大きく乖離している。

もちろん「常識人」は、これを仕方のないことだと考えるだろう。7世紀のアラビア半島しか知らないムハンマドが、現代社会の複雑な問題をすべて見通して適切な解決策を用意することなどできるはずはないからだ。

だがこれは、公にしてはならない言葉でもある。ムハンマドは預言者として神の言葉を伝えたのであり、唯一神であるアッラーは過去から未来まで世界と宇宙のすべてを支配しているのだから。キリスト教は政教分離によってこの隘路から抜け出したが、シャリーアがウンマを統治するイスラームはこの方便を使えない。

どんな社会にも、「大人の常識」を不潔だと感じる原理主義者の若者がいる。

戦前の日本では、「天皇はただの人間で、便宜的に現人神を名乗っているだけだ」ということは、政治家や学者だけでなく一般庶民にとっても暗黙の了解だった。だがそれは公然とは口にできない秘密で、「天皇原理主義者」に面と向かって批判されると誰も反論できない。これは、天皇を神と崇める教条主義を振りかざせば、政敵を葬って権力を握ることができるということだ。こうして日本は、破滅への道へと引きずりこまれていく。同様の例は、収容所国家と化したソ連や文化大革命の中国、ポル・ポトの大虐殺など、20世紀の血塗られた歴史のなかにいくらでも見つけることができる。

ISISが若いムスリムを引きつけるのは、彼らが不遇な人生を歩んでいることもあるだろうが、なによりもその主張がイスラームの教えに照らして論理的に「正しい」からだ。そして人類の歴史は、「理想」と「正義」こそがこの世でもっともグロテスクなものを生み出すことを繰り返して教えている。

21世紀を迎えても、私たちはまだこの罠から抜け出す方途を見つけられずにいる。

参考文献:小杉泰『イスラーム帝国のジハード』

『マネーポスト』2015年新春号
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