第50回 仙境は上海上場銘柄(橘玲の世界は損得勘定)

黄山は中国・安徽省にある名山で、伝説の王、黄帝がここで不老不死の霊薬を飲み、仙人になったという。切り立った岩山が雲に浮かぶ様はまさに仙境で、古来、多くの文人が水墨画や漢詩でその姿を称えた。中国ではもっとも有名な山で、世界遺産にも登録されている。

4月末にその黄山に登ったのだが、驚いたのは断崖絶壁が連なる岩山に長大な階段がうがたれていることだった。黄山登山とは、この階段をひたすら昇り降りすることなのだ。

観光用のロープウェイもあるが、せっかくなので徒歩で挑戦してみた。歩数計では目的地にたどり着くまで8000階段ほど昇ったことになる――とうぶん階段は見たくない、という行程だ。

平日だというのに、景勝ポイントはどこも中国人観光客でいっぱいだった。夏のシーズンには、ロープウェイが数時間待ちになるという。

あちこち歩きまわっているうちに日が傾いてきた。下山するときにわかったのだが、じつは距離が長くなると、階段は昇るより降りる方がずっとつらい。踊り場のない真っ直ぐな石段をえんえんと降りるのはスクワットを続けるようなもので、たちまち腿が張って膝が笑い出すのだ。

幸い私は大丈夫だったが、なかには膝を曲げるだけで激痛が走るひともいるらしい。そうなると、まずは手すりにつかまってカニ歩きし、次は後ろ向きで降りようとし、最後は四つんばいになって後ずさりする。

1時間ほど下ったあたりから、修羅場は始まった。仲間から置いていかれたのか、携帯片手にぼろぼろと涙をこぼしながら歩く女の子や、地面に仰向けになって手足をばたばたさせて泣き叫ぶ若い女性など、ふだんは目にしない光景にも出会った。

日が落ちてしまえば街灯などないから、真っ暗闇で足元すら見えなくなる。動けなくなったらどうするのかと思ったら、あちこちに担ぎ屋がいて声をかけてくる。前後2人でかごを担ぎ、麓まで駆け下りるのだ。

だがその料金は、けっして安くない。ロープウェイの全行程を担いでもらうと5000元(約10万円)、途中からでも1000元(約2万円)はするという。値引きはいっさいなく、イヤなら山中に取り残されるだけだ。こうして、背に腹は変えられないひとたちが次々と担がれていく。

それを見て「ずいぶんビジネスライクだなあ」と思ったら、じつは黄山は株式会社化されていて、上海市場に上場していた。銘柄名は「黄山旅行開発」で筆頭株主は黄山市黄山風景区管理委員会。2014年の売上高は15億元(約300億円)、純利益2億元(約40億円)で、地方都市としては一大産業だ。

黄山内のロープウェイや宿泊施設は会社の経営で、売店の売り子から担ぎ屋までみんな「社員」なのだという。だから値引きにはいっさい応じないのだ。

黄山は入場するだけで250元(約5000円)。ロープウェイ、ホテル代、飲食代に“救出”費まで、観光客から効率的にお金を回収する仕組みが徹底されている。中国の“特色ある資本主義”だと、観光地もこうなるのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.50:『日経ヴェリタス』2015年5月24日号掲載
禁・無断転載

002
石段をひたすら昇る
担ぎ屋に運ばれる登山客
担ぎ屋に運ばれる登山客

リベラルこそが憲法9条改正を主張すべきだ 週刊プレイボーイ連載(196)

オウム真理教の信者はなぜ脱会しないのか。ほとんどのひとは、洗脳が解けていないからだとこたえるでしょう。しかし地下鉄サリン事件から20年もたって、いまだに獄中の(それも明らかに精神を病んだ)教祖の言葉を信じつづけられるものでしょうか。

ひとは無意識のうちに、自分の選択を正当化しようとします。些細な間違いならすぐに修正できるでしょう。しかしそれがきわめて大きな過ちで、もう取り返しがつかないのなら、事実を直視するのは自分で自分を否定するのと同じことになってしまいます。

こういうときひとは、全身全霊で過去の選択を擁護しようとします。しかも始末に悪いことに、それがたんなる自己正当化であることすら否認するのです。

オウム真理教の信者は超能力や精神世界を信じる真面目な若者たちで、家庭や職業を捨て、資産のすべてを教団に譲渡し、周囲の強い反対を押し切って入信しています。それが、教祖はいかさま師で教団はテログループだったのですから、その衝撃は想像を絶するものでしょう。これほどまでに失ったものが大きいと、過ちを認めてやり直すより、教団にとどまって狂信に身を委ねることが合理的な選択になってしまうのです。

安全保障関連法案をめぐる議論を見ていると、オウム真理教の信者たちをつい思い出してしまいます。

この問題の本質は、日本国が自衛隊という巨大な“暴力装置”を保有しながらも、その存在を憲法に規定していなことにあります。その結果、憲法とは無関係に自衛隊関連法案をつくり、軍を管理する不安定な状態がつづいています。これはリベラルデモクラシーの常識ではあり得ない事態で、法律さえ変えれば、権力者は軍をどのように使うこともできてしまいます。

戦前までの憲法では、軍は議会や政府から独立した天皇の私兵でした。日本軍は満州や沖縄で日本人を見捨て戦力を温存しましたが、これは軍の目的が「国体(皇室)」を守ることで国民の保護ではなかったからです。

その反省を踏まえるならば、リベラルこそが真っ先に不完全な憲法の改正を主張し、自衛隊を「市民の軍隊」として完全な法の支配の下に置くことを求めなければなりませんでした。しかし残念なことに、“リベラルな知識人”と呼ばれたひとたちは戦後ずっと、欠陥のある憲法の条文を「不磨の大典」として崇め奉って触れることすら許さなかったのです。

自衛隊は海外では「軍」として扱われますから、紛争地域などで他国の軍と行動を共にする機会が増えれば矛盾が顕在化してくるのは当然です。その結果、安倍政権の下でご都合主義的な憲法解釈の変更が行なわれているのですが、これではますます自衛隊の存在が曖昧になってしまいます。

いまにして思えば、“リベラル”の最初の過ちは「戦争放棄」といっしょに国家の自衛権まで放棄してしまったことです。これは荒唐無稽な空理空論ですが、それを認めると「保守派」や「右翼」の批判が正しかったということになってしまいます。

そんな屈辱を味わうくらいなら、どれほど支離滅裂でも「平和真理教」にしがみつくほうがマシだと、自分で自分を洗脳するようになってしまったのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年5月25日発売号
禁・無断転載

どれだけ修行しても金銭欲から逃れられない「はだかの高僧」 週刊プレイボーイ連載(195)

弘法大師空海が修行の場として開いた日本仏教の聖地・高野山は今年開創1200年を迎え、5月21日まで記念の大法会が行なわれています。火災で焼失していた中門が172年ぶりに復活したほか、金堂の本尊がはじめて公開されるなどイベントが盛りだくさんで、多くの善男善女が参拝に訪れました。日本の仏教文化の精華に注目が集まるのは、まことにもって喜ばしいことです。

高野山真言宗の総本山である金剛峯寺の説明によると、空海の説いた密教とは、仏の真実の言葉=真言の秘密を知るための瞑想など特別な修法のことです。このきびしい修行によって仏の知恵を悟れば、心の悩みや苦しみをなくし、「完全な人格」をつくることができるのだそうです。これも、まことにもってありがたい教えです。

真言宗の高僧ともなれば、私ども下々の民とは異なり、貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい/恨み)、愚痴などの煩悩とは無縁の気高い精神性を会得しているにちがいありません。

ところがこの高野山真言宗で、2013年2月、内局トップの宗務総長の不信任案が可決され、宗会が解散されるという“お家騒動”が起きました。報道によれば、宗務総長らはお布施や賽銭など非課税の浄財を含む30億円を日本株のほか、トルコリラや南アフリカランド、ブラジルレアルなどの新興国通貨に投資し、東日本大震災直後の2011年3月末に15億3000万円の含み損を抱えたといいます。取材に対し、宗務総長は「めちゃくちゃ利益があったいい時代に組んだ予算を縮小できなかった」、財務部長は「坊主には無理と思ったが、証券会社に言われるままに購入した」とこたえています。

しかしこれは、ずいぶんとおかしな話です。空海が教えた密教の修行を積み、仏陀の「完全な人格」にかぎりなく近づいているはずの高僧たちが、証券会社の営業マンふぜいにころりと騙されるのでしょうか。だとしたら、「なんのための修行なのか」と思うのは私だけではないでしょう。

さらに不思議なのは、宗務総長が利益=金儲けのために投資したと明言していることです。仏陀は人の苦の根本原因として三毒をあげ、その筆頭を貪欲としています。仏教の目指す解脱とはこの煩悩を克服し、悟りの世界へと至ることです。ところが高野山の高僧は、あろうことか信者の浄財でひと儲けしようと企み、大損していたのです。

アンデルセンの童話「裸の王様」では、愚か者には見えない特別な布地で服を仕立てるという詐欺師に騙された王様が、裸のままパレードを行ないます。家臣や観衆たちは、自分が馬鹿だと思われないよう、見えない衣装を誉めそやしますが、そのとき一人の子どもが「王様は裸だよ!」と叫ぶのです。

高野山の不祥事は、この「裸の王様」によく似ています。密教の修法とは、愚か者には見えない布地のことなのではないでしょうか。

高僧たちが煩悩にまみれているのなら、開創1200年の華々しい行事も鼻白んでしまいます。金銭欲にとりつかれた彼らが、今回のイベントで投資の損を取り返そうと考えたとしても不思議はないからです――もちろんこれは、こころ卑しき衆生の邪推でしょうが。

参考:2013年4月22日付「朝日新聞」朝刊「高野山真言宗 30億円投資 浄財でリスク商品も 信者に実態伝えず 『粉飾の疑い』混乱」

『週刊プレイボーイ』2015年5月18日発売号
禁・無断転載