どこかいかがわしい「3年間抱っこし放題」 週刊プレイボーイ連載(106)

 

安倍首相は、アベノミクスの第3の矢である「成長戦略」の中核に女性の活躍を挙げ、企業に対して「3年間抱っこし放題」を実現する育児休業の拡充を要請しています。しかしこの方針は、ほんとうに働く女性のためになるのでしょうか。

長期の育児休暇が当たり前になると、会社は「3年間抱っこし放題」してきた女性社員をどこに所属させるか頭を悩ませることになるでしょう。かつての部署のメンバーは大半が異動し、仕事そのものも変わっているかもしれません。これでは中途社員を受け入れるのと同じです。

当の女性社員にしても、3年のブランクは不安の方が大きいでしょう。同僚はその間もずっと研鑽を続けてきたのですからいきなり同じ仕事ができるわけもなく、もしかしたら後輩にすら追い抜かれているかもしれません。

長期の失業が深刻な社会問題になるのは、働かない期間が長くなればなるほど社会復帰が困難になり、生活保護に頼らざるを得なくなるからです。「3年育休」は自ら望んで長期の失業状態になることですから、変化の早い市場で不利にはたらくのは当然です。

欧米では企業が託児所を併設するなどして、出産後半年程度で職場に戻るのが主流になってきています。これなら出産前と同じ仲間と同じ仕事を継続できますから、社会復帰はずっとスムーズです。

ところが日本では、「生まれてから3年間は母親が子どもを世話すべきだ」という子育て論が女性の社会復帰の大きな障害になっています。

核家族というのは、人類史的にはきわめて特殊な家族形態です。日本でも戦前までは大家族での共働きが当たり前で、「3年間抱っこし放題」の家庭などほとんどありませんでした。

ヒトは長い進化の過程のなかで形成されたOS(遺伝的プログラム)に従って成長します。遺伝子の変化はきわめてゆっくりしているので、ヒトの基本OSはいまも石器時代とほとんど変わりません。こうした近年の科学的知見が正しいとするならば、赤ちゃんは石器時代と同じ環境でもっともすこやかに成長できるようプログラムされているはずです。

石器時代の育児環境というのはどのようなものだったのでしょうか。

これには諸説ありますが、狩猟採集で食糧を確保するのに精一杯で、親が子どもの世話をじゅうぶんにできなかったことは間違いないでしょう。そのかわり小さな子どもは、部族のなかの年長の子どもたちが世話をしていました。女の子が人形遊びが好きだったり、赤ん坊が見知らぬ大人を恐れ、年上の子どもについていこうするのはその名残りだと考えられています。

もちろん、石器時代と同じ育児環境を現代に再現することは不可能です。しかしそれでも、よく似た環境のなかで子どもを育てることはできるはずです。それも、とても簡単に。

保育園では、さまざまな年齢の子どもが集まって集団生活しています。赤ん坊は、そうした子ども集団にごく自然に馴染むようプログラムされています。閉鎖的な家庭のなかで、母親と一対一で育つようにはできていないのです。

そう考えれば、耳触りのいい「3年間抱っこし放題」が幸福な家庭を約束するものでないことがわかるでしょう。

 『週刊プレイボーイ』2013年7月8日発売号
禁・無断転載 

母子家庭を援助すべき“不都合”な理由 週刊プレイボーイ連載(105)

 

安倍自民党政権が生活保護法改正などで、生活保護の切り下げを図っていると批判されています。

NPO団体などは一連の「改悪」によって保護が必要なひとが申請できなくなり、餓死や孤立死といった悲劇を招くと主張しますが、しかしその一方で、生活保護の受給者数は過去最高の215万人に達し、支給総額は年3兆8000億円(自治体負担分を含む)に及んでいます。いずれの数字もこの10年間で倍増していますから、生活保護が受給しやすくなったとはいえないとしても、一方的な「弱者切り捨て」批判は疑問です。

ところでひと口に生活保護といっても、受給者にはさまざまな事情があります。

もっとも多いのはじゅうぶんな年金を受給できない高齢者で、60歳以上の受給者が全体の半分を占めます。19歳以下の子どもも約15%おり、20代から50代までの受給者は約3分の1です。また世帯別で見ると、全体のおよそ1割が母子家庭となっています。

生活保護法の改正では、支給費削減と同時に、生活困窮者の自立支援も大きな柱になっています。これは欧米諸国で、「現金給付から職業訓練へ」という福祉政策の流れが定着したことが影響を与えているのでしょう。

福祉による就労支援はアメリカやイギリスが先行しており、経済学者などによる政策評価も積極的に行なわれています。こうした研究によれば、職業訓練は母子家庭の失業者には有効ですが、それ以外はほとんど役に立たず、とりわけ低学歴の若者と高齢者への教育投資はまったく効果がないという結果が出ています。

この事実は、次のように説明できます。

母子家庭の貧困というのは、子どもを生んだ後に離婚するか、未婚のまま出産した女性の失業問題です。ある男性と出会って、幸福な家庭を築けるのか、それとも関係が破綻するのかは事前にはわかりませんから、子どもを産んだすべての女性が母子家庭になるリスクを抱えています。失業して貧困に陥った女性の母集団は、ふつうの女性なのです。

母子家庭の抱える問題は、仕事と家庭を両立させることが難しく、求職活動も仕事に役立つスキルの習得もじゅうぶんにできないことです。だからこそ子育ての負担を軽減し、適切な職業訓練を行なえば、貧困に陥っている母子家庭の母親は、母集団である働く女性たちと同じレベルの仕事をこなせるようになるのです。

母子家庭への税の投入がそれを上回る経済効果があるのなら、もっとも効率的な政策は生活保護から母子家庭を切り離し、従来の基準を上回るじゅうぶんな援助をすることです。これで貧困に苦しむ母親や子どもたちだけでなく、私たちの社会も大きな利益を得られるでしょう。

それではなぜ、こんなかんたんなことができないのでしょうか。その理由は、母子家庭以外の受給者が母集団(ふつうのひとたち)とは異なることを政府が認めることになってしまうからでしょう。

政治家にとっては、“不愉快な事実”をひとびとに告げるより、母子家庭が苦しむ方がずっといいのです。

参考文献:林正義他『生活保護の経済分析』

 『週刊プレイボーイ』2013年7月1日発売号
禁・無断転載

第32回 成功報酬型にご用心(橘玲の世界は損得勘定)

 

前回、居酒屋などで2割引のクーポンが乱発されていることを書いた。今回はその続きだ。

私が住んでいる町では、日が落ちる頃から居酒屋の呼び込みが大挙して現われる。「お安くしときますよ」と通行人に片っ端から声をかけ、店に客を連れて行こうとさかんに勧誘する。

こうした呼び込みのいる店と、割引クーポンを出している店はほぼ重なっている。

呼び込みが客を連れてくると、店は飲食代金の20%を“成功報酬”としてキックバックする。20人の団体客をつかまえて、飲み放題込みで1人3500円のコースを注文してもらえば、売上げ7万円の2割=1万4000円が呼び込みの取り分になる。これは時給1000円として14時間分の労働に相当するから、思いのほか割のいい仕事だ。

町に呼び込みが溢れるようになったのも、この成功報酬制から説明できる。客を連れてこなければ店は1銭も払わなくていいのだから、呼び込みの数は多ければ多いほどいいのだ。

飲食代金の2割が最初から販促費として計上されていれば、直接来店した客に2割引のクーポンを出すのも当たり前だ。店としては、呼び込みに報酬を払おうが、客に還元しようが、同じことだからだ。

このように考えると、呼び込みに連れられて居酒屋に行くのは経済合理的な行動ではないことがわかる。スマホで調べれば、ほぼ間違いなく割引クーポンが見つかるからだ。

成功報酬型のマーケティングはアフィリエイトとしてインターネット上を席巻しているが、よく観察してみるとそれ以外でもあちこちで見つかる。

居酒屋の呼び込みの原型は、繁華街などでよく見かけた「黒服」と呼ばれる一団だろう。彼らは一人で遊びに来る若い女の子に声をかけ、キャバクラなどの風俗店に紹介し、売上げの一部をキックバックとして受け取っていた。もちろん客を連れて行ってもキックバックは発生するから、理屈のうえでは、直接来店でその分だけ料金をまけてもらえるはずだ(やったことがないのでわからないが)。

マルチ商法やネットワークビジネスはユーザーを営業マンに仕立て上げる成功報酬型マーケティングで、いったん波に乗ると爆発的に成長し、一挙に崩壊する。これに引っかかると人生が破綻するから注意が必要だ。

世の中にこれほど成功報酬型マーケティングが広がっているのなら、消費者の側も自衛が必要になる。もっとも簡単で確実なのはあらゆる勧誘を無視することで、もうすこし上級になると、売主と直接取引して販促費の分だけ割り引いてもらうこともできるだろう。

私はもちろん企業の営業努力を否定するつもりはないが、しかしそれでも、ネットに氾濫する割引クーポンや、通行人を遮る居酒屋の呼び込みを見て複雑な気分になる。

呼び込みと割引クーポンの併用は、ある意味、正直者がバカを見る販促方法だ。売り手と買い手が騙し合うことを前提とした商売は、いつまでも続かないんじゃないだろうか。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.32:『日経ヴェリタス』2013年6月23日号掲載
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