「民主主義」をやめることから始めよう 週刊プレイボーイ連載(216)

国会前のデモから女子アイドルグループまで、「民主主義を守れ」との声が大きくなっています。若者たちが政治について積極的に発言するのはよいことですが、ところで、彼らはいったい何を守ろうとしているのでしょうか。

デモクラシー(democracy)は神政(theocracy)や貴族政(aristocracy)と同じ政治制度のことですから、「民主政治」「民主政」「民主制」などとすべきで、「民主主義(democratism)」は明らかな誤訳です。リベラルデモクラシーは「自由民主主義」と訳されますが、これは「自由な市民による民主的な選挙によって国家(権力)を統制する政治の仕組み」のことです。

なぜこのことが大事かというと、デモクラシーを主義(イズム)にしてしまうと、リベラルデモクラシーという枠組のなかで異なる「主義」が対立する政治論争の基本的な構図がわからなくなってしまうからです。

アメリカの政治哲学者マイケル・サンデルは『これからの「正義」の話をしよう』で、主要な政治思想を「リベラリズム(平等)」「リバタリアニズム(自由)」「コミュニタリアニズム(共同体)」「功利主義」の4つに分類しました。アメリカの大統領選を見てもわかるように、異なる政治的見解を持つひとたちは自分たちの「主義」を掲げて激しく争いますが、その土俵はリベラルデモクラシーで、勝敗は民主的な選挙によって決まります。

その一方で、デモクラシーそのものを否定する政治勢力も存在します。IS(イスラム国)はイスラームの法による神政国家を目指していますし、サウジアラビアにように女性の参政権を認めていない国もあります(それに比べれば18歳以上の男女に選挙権が与えられるイランははるかに“民主的”です)。マルクス・レーニン主義のプロレタリア独裁は、資本主義から共産主義への移行期に一時的にデモクラシーを停止し、啓蒙の前衛である共産党の独裁を認めるものですから「反民主的」で「自由の敵」とされます。

EU(欧州連合)に対するもっとも本質的な批判は、その政治的決定がデモクラシーの原則に反しているというものです。ギリシア危機や難民問題で明らかになったように、事態の収拾はドイツのメルケル首相を中心とする主要国首脳の協議と妥協によって図られますが、そこにEU議会やEU大統領が関与する余地はなく、「ヨーロッパ市民」の政治的な意思が問われることもありません。EUは“遅れた国”に民主化を説いていますが、その最大の恥部は自分たち自身が民主化できていないことなのです。これでは、ポピュリストによる「デモクラシーを守れ」との攻撃でEUが弱体化するのも当然です。

「民主主義」という誤訳のままでは、「主義(イズム)」の争いと「制度」をめぐる争いの違いを理解できません。日本では共産党ですら熱烈に「民主主義」を擁護するのですから、民主政を否定する政治勢力は存在しないでしょう。いま起きているのは、リベラリズム対保守主義の典型的なイデオロギー対立なのです。

日本における政治論争がいつも不毛なのは、これまでずっと誤訳を放置してきた大人たちの責任でしょう。若手の法学者や政治学者はさすがに誤用を避けるようになりましたが、教科書からメディアまでいまも至るところに「民主主義」は氾濫しています。

当たり前の話ですが、理解していないものを「守る」ことはできません。私たちはまず、「民主主義」をやめるところから始めるべきでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年10月26日発売号
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安保法制もTPPも予定調和で決まっていた 週刊プレイボーイ連載(215)

紆余曲折の末にTPP(環太平洋経済連携協定)が大筋合意に達しました。これを受けてオバマ大統領が、「中国のような国に世界経済のルールを書かせることはできない」との声明を出しましたが、このことからも明らかなように、TPPはたんなる自由貿易協定ではなく、アメリカを中心とする環太平洋圏の民主国家による対中国戦略です。

中国と同じ共産党独裁の国家資本主義であるベトナムがTPPへの参加を決断したのは、経済的な利益が目的ではなく、これが国家の安全保障に直結することを理解したからでしょう。だとすれば、同じく中国台頭の脅威を受けている日本にとって安保法制とTPPは最初からセットで、交渉から離脱する選択肢などなかったのです。

TPP参加を最初にいい出したのは民主党政権時代の菅元首相で、集団的自衛権の行使容認は野田前首相の持論です。自民党は当初、TPPに反対していましたが、政権の座に着いたとたん態度を豹変させて合意へと突き進みました。安倍政権にとっての僥倖は、農協が既得権を守るために民主党政権に擦り寄ったことでしょう。自民党の農林族はかつてのように、農家の利益を盾にTPPに反対することができなくなったのです。

このように考えると、安保法制もTPP参加も民主党時代からの既定路線で、それがそのまま安倍政権に引き継がれ、予定調和的に実現したことがわかります。国会前での連日のデモや採決での見苦しい混乱も、法案を成立させるのに必要なガス抜きとして予定表に書き込まれていたのかもしれません。デモに参加したひとたちは、「自分たちは平和を守るためにたたかった」と満足しているようですし。

ついでにいうと、消費税増税は菅政権、原発再稼働は野田政権の発案です。日本のような成熟した国家では、誰が政権の座についたとしても政策の選択肢はほとんどないのです。

安倍首相が長期政権に成功したのは、このことを理解したうえで、民主党の政策を丸呑みするリアリズムに徹したからでしょう。その結果、野党第一党である民主党は、(自分からいい出した)消費税増税やTPP参加に反対することもできず、安保法制の議論では党内の改憲派と護憲派が衝突して身動きできなくなってしまいました。しまいには共産党から「国民連合政府」構想を持ちかけられる体たらくで、このままでは共産党に吸収されて消えていった方がすっきりしそうです。

それでは、野党にもはや希望はないのでしょうか。実は、そんなことはありません。

安保法制の可決を受けて、安倍政権は今後、GDP600兆円を目指す経済政策に注力するようですが、そこでの最大の懸案が1000兆円にのぼる巨額の借金の処理であることはいうまでもありません。高齢化の加速によって年金などの社会保険制度が行き詰まるのは明らかで、負担の分配は日本社会に大きな軋轢を生じさせるでしょう。

これもまた日本の置かれた諸条件から予定調和的に決まっていることで、政権が立ち往生したときに具体的な改革案を持っている政党が次を担うことになるはずです――事実ヨーロッパでは、このようにして保守派と改革派が政権交代してきました。

もっともいまの様子では、現実的な野党が現れるにはまだまだ時間がかかりそうですが。

『週刊プレイボーイ』2015年10月19日発売号
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”終活”とは自殺合法化を考えること 週刊プレイボーイ連載(214)

日本はこれから、人類史上未曾有の超高齢化社会を迎えます。2020年には人口の3分の1、50年には約4割を65歳以上が占めると推計されており、どこの家にも寝たきりや認知症の老人がいるのが当たり前になるでしょう。

そこで話題になっているのが「終活」で、エンディングノートや遺言の書き方、相続を争続にしないための財産分与、葬儀や墓、戒名を自分で決める方法など、さまざまなアドバイスが巷に溢れています。しかし、これがほんとうに「いかによく死ぬか」を考えることなのでしょうか。

オランダでは1970年代から安楽死合法化を求める市民運動が始まり、80年代には安楽死が容認され、94年には、自殺未遂を繰り返していた50歳の女性を安楽死させた精神科医が「刑罰を科さない有罪」という実質無罪になりました。

この女性は22歳で結婚して2人の男の子を産みますが、夫の暴力で家庭生活は不幸で、長男は恋愛関係のもつれを苦に20歳で拳銃自殺してしまいます。息子の死のショックで精神に異常を来たした彼女は、精神病院から退院すると夫と離婚、次男を連れて家を出ますが、その直後に次男はがんであっけなく死んでしまいます。

生き甲斐だった2人の息子を亡くした女性は大量の睡眠薬を飲んで自殺をはかるものの死にきれず、かかりつけ医に「死なせてほしい」と頼んでもあっさり拒否され、自発的安楽死協会を通して精神科医と出会います。

この精神科医は彼女を診察し、「自殺願望を消す方法はなく、このままではより悲劇的な自殺をするだろう」と診断し、同僚ら7人の医師・心理学者と相談のうえ、致死量の即効睡眠剤によって患者を安楽死させたのです。

自殺幇助罪で起訴された精神科医は一審、二審とも「不可抗力」として無罪、最高裁では、第三者の医師を直接患者と面談させなかったとの理由で形式的な有罪となりました。この歴史的な判決によって、肉体的には健康なひとが自らの意思で「平穏に自殺する権利」が認められたのです。

その後、ベルギーやルクセンブルグなどヨーロッパの他の国でも自発的安楽死が認められるようになります。スイスにいたっては外国人の安楽死も認めているため、ドイツやイギリスなど安楽死できない国から「自殺旅行者」がやってきます。彼らの多くは末期がんなどを宣告されており、家族や友人に囲まれ、人生最後の華やかなパーティを楽しんだあと、医師の処方によってこころ穏やかに最期の時を迎えるのです。

日本では自殺の半数は首吊りで、電車に飛び込んだり、練炭自殺するひともあとを絶ちません。ヨーロッパでは、「いつどのように死ぬかは自分で決める」というのが当たり前になってきました。

同じ人生を生きてきたのに、なぜ日本ではむごたらしい死に方しかできないのか――。それを考えるのがほんとうの“終活”だと思うのですが、残念なことに日本では、「死の自己決定権」というやっかいな問題から目を背け、相続や葬儀、戒名など、死んだあとのどうでもいいことばかりが熱心に議論されているのです。

参考文献:三井美奈『安楽死のできる国』(新潮新書)

『週刊プレイボーイ』2015年10月13日発売号
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