“リベラル”とはいったいなんだろう? 週刊プレイボーイ連載(118)

 

すこし前に「リベラルが保守反動になった」という話を書いたところ、「リベラルの定義はなんですか?」という質問をいただきました。これはなかなか難しいのですが、わかる範囲でこたえてみましょう。

まず、議論の前提として私たちは「近代」の枠組みのなかで生きています。近代というのは、政治思想的には、「自由」「平等」「人権」「民主政」などを至上の価値とする社会です。

ところで世界には、近代の理念とは別のルールで動いている社会もあります。代表的なのはコーランの教えに基づいて政治を行なうイスラム原理主義の国で、「神政」は「民主政」と水と油のように相容れません(それに対して中国のような一党独裁は民主政への移行過程とみなされます)。

かつては「文化相対主義」の名の下に擁護されていた近代とは異なる価値観は、9.11同時多発テロによって(すくなくともアメリカでは)全否定されました。「お前はテロリストを認めるのか」という批判に、文化相対主義者は答えられなかったからです。

リベラル(自由主義)は「近代の理念」の実現を純粋に求める立場で、もともとは封建制(王政)への回帰を目指す反動勢力とのたたかいのなかで生まれました。その意味では、日本を含む先進諸国の政治思想はすべてリベラルです(天皇制は立憲君主制として認められるのであって、「現人神」のような反近代思想は排除されます)。

ところが封建制とのたたかいに勝利してしまうと、こんどはリベラルのなかで仲間割れが始まります。さらには社会主義(共産主義)の実験が失敗したことで、それが主要な政治論争に格上げされました。

リベラルの理想は福祉社会です。それに対する異議申立ては、大きく以下の三つにまとめられます。

(1)差別や奴隷制を否定する「人権の平等」は当然としても、国家による税の強制徴収と分配で結果の平等まで求めると、肝心の「自由」を圧殺してしまう。これは「リバタリアン(自由原理主義者)」の主張です。

(2)近代の理念はもちろん大事だが、自由や平等、人権を過度に強調すると、民主政の土台となる文化や伝統、共同体を破壊してしまう。これは保守派の立場ですが、最近では「コミュニタリアン(共同体主義者)」と呼ばれるようになりました。

(3)近代の理念を実現するためには偏狭な政治理念にとらわれず、「最大多数の最大幸福」を実現できる合理的で効率的な社会をつくるべきだ。こうした功利主義を唱えるのは主に経済学者で、「新自由主義(ネオリベ)」とほぼ同義です。

財政拡大による福祉社会が持続不可能になり、これらの批判に有効な反論ができなくなって、リベラリズムの退潮が始まりました。しかしだからといって、それに代わる新たな政治思想が誕生したわけではありません。リベラルを批判する側も、それぞれの理念を掲げて対立しているからです(リバタリアンと功利主義者の主張はかなり重なりますが)。

こうした構図を頭に入れておくと、マイケル・サンデルの「白熱教室」やその関連番組がより楽しめるようになるでしょう。

 『週刊プレイボーイ』2013年10月7日発売号
禁・無断転載  

プレゼンでは大事なことは決められない 週刊プレイボーイ連載(117)

 

2020年の夏季オリンピック開催地が東京に決まり日本じゅうが沸いていますが、ここで注目されたのがIOC委員会での最終プレゼンテーションです。とりわけパラリンピック走り幅跳びのアジア記録保持者で、東日本大震災の被災者でもある佐藤真海さんのスピーチがIOC委員のこころを大きく動かしました。

「プレゼン」という言葉がテレビのワイドショーで繰り返されたのは、おそらく前代未聞のことでしょう。なぜならこれまで、日本の社会にはプレゼンなど必要ないとされてきたからです。

サラリーマンなら誰でも知っていますが、日本の会議にはそもそも議論というものがありませんでした。根回しによってあらかじめ結論は決められており、会議とはそれを各部門の責任者が了承する儀式だからです。この根回しを組織の外に拡張したのが談合で、公共事業の入札では、各社が見積もりを出す前に落札先が決められていました。

根回しや談合でないと意思決定できないのは、日本が同質性が強く退出の難しい社会だからです。いったん恨みを買うといつまでも尾を引くのであれば、全員が納得するような解決策を探すしかありません。

日本型の組織では、上司の意を受けて現場が方針を決め、トップがそれを追認するかたちで意思決定してきました。もっとも、この手法が非効率で遅れているとは一概にいえません。旧日本軍は戦術だけあって戦略のないまま戦線を拡大し国家を破滅に導きましたが、戦後日本の製造業は現場主義のマネジメントによって世界を席巻しました。

根回しや談合は、非公式の結論を当事者の総意として誰もが受け入れる、という了解がなければ成り立ちません。組織のなかに異質なメンバー(外国人など)がいて、この前提が共有できないと日本的な意思決定は立ち往生してしまいます。

プレゼンが必要になるのは、根回しや談合が不可能な状況で決定を下さなければならない場合です。これは、組織の公正さとは関係ありません。IOCにもさまざまな黒い噂がありますが、だからこそすべてのひとを納得させるために、公開の場で優劣を競わせなければならないのです。

日本でもプレゼンが注目されるようになってきたのは、経営環境が複雑化するにつれて、根回しや談合ではすべての利害関係者を納得させることができなくなってきたからでしょう。とはいえ、こうしたやり方で最善のものが選ばれる保証はありません。

プレゼンを聞いた上でみんなで決めたのなら、決定を下した個人は責任を負う必要がありません。誰も責任を取りたくない社会では、プレゼンですら責任回避の道具に使われてしまうのです。

そう考えれば、プレゼン型の意思決定は、どうでもいい問題を扱うときに最大の効果を発揮するのかもしれません。どのプランも大したちがいがないならば、「プレゼンの上手い人間がもっとも優秀だ」と考えてもたいていはうまくいくからです。

アップルのスティーブ・ジョブスは“プレゼンの天才”と呼ばれましたが、大切な意思決定をプレゼンに頼ることはありませんでした。こころを動かすようなスピーチは外向けにとっておいて、重要な決断は常に孤独のなかで行なわれたのです。

『週刊プレイボーイ』2013年9月30日発売号
禁・無断転載 

ガラパゴスじゃやっぱりダメだよ 週刊プレイボーイ(116)

 

歴史論争を見ればわかるように、世の中の論争の大半はなにが正しいのか決着をつけることができません。歴史文書が残っていても、事実が正確に記されているかどうかはわかりません。タイムマシンが発明され、過去に遡って事実を検証できるようになったとしても、それをどう解釈するかは(自分たちに都合のいい)イデオロギーで左右されるでしょう。

ところがそのなかで例外的に、白黒の決着がつく論争があります。「市場原理」が正しい者に富を与え、間違った者を市場から追い出すからです。

2007年頃に、日本市場で独自の「進化」を遂げた携帯電話の仕様が世界標準からかけ離れているとして、“ガラパゴス化”と揶揄されました。それに対して一部の論者が、「ガラパゴスでいいじゃないか」と反論しました。「日本には日本のよさがあるのだから世界に合わせる必要はない」「日本ブランドはアジアではじゅうぶん戦える」というのです。

その後、2008年にアップルのiPhoneが発売されると日本ではソフトバンクが独占販売し、それにauが続きました。そしていま、“ガラケー”の牙城だったドコモがiPhone発売に舵を切り、日本の携帯メーカーは存亡の危機に立たされています。すでにNECとパナソニックは個人用スマホから撤退を決め、「国内メーカーで生き残るのはソニーだけ」との予想も現実味を増してきました。

契約流出に苦しむドコモは夏商戦でソニーとサムスン電子の端末を積極販売する「ツートップ」戦略を採用しました。それに驚いた国内メーカーのなかには、「韓国企業の優遇がなぜ許されるのか」と経産省に直訴したところもあるといいます。なんとも情けないかぎりです。

もちろん日本にも素晴らしいものはたくさんあります。アジアの国々を旅してみれば、若者たちが日本のアニメやマンガに夢中になり、回転寿司やラーメン店に長蛇の列ができているのを見ることができます。当たり前の話ですが、ほんとうによいものは海外でも受け入れられるのです。

それに対してガラパゴス化した日本の携帯電話は、最初から「世界で戦う」ことをあきらめ、ドコモの傘の下で国内市場を分け合いならが生きていくことしか考えていませんでした。こんなに志が低いのでは、アップルやサムスンの「黒船」に蹴散らされるのも当たり前です。

警察庁の発表(今年5月)によると、振り込め詐欺などの犯罪に使われるレンタル携帯電話の98%はドコモ製品でした。レンタル事業者のなかには不正利用を目的に携帯電話会社と法人契約を結ぶところもあり、ソフトバンクやauは、事業規模や従業員数に対して不自然に多い回線を求める事業者を拒否していました。ところがドコモは、登記簿だけで契約を結び、過去の料金支払で延滞などがなければ契約数に上限を設けていなかったため、不正利用の温床になってしまったのです。「貧すれば鈍す」とはこのことです。

ガラパゴス化したひとたちの特徴は、「日本は特別だ」という肥大化した自我と、「世界では通用しない」という劣等感です。こうした錯覚をただすのはとても難しいのですが、市場は損得によってそれを見事に成し遂げることができるのです。

『週刊プレイボーイ』2013年9月24日発売号
禁・無断転載