第54回 住宅ローンは信用取引(橘玲の世界は損得勘定)

横浜市内の大型マンションが傾いた事件では杭が強固な地盤に届いておらず、基礎工事を施工した下請業者がデータを改ざんしていた。同じ業者が過去10年間に手がけた物件が約3000棟に及ぶことがわかって不安が広がっている。

この欠陥マンションを購入した住民は、「何千万円もの資産が無価値になるかと思うと夜も眠れない」と語っていた。マンションを販売した大手デベロッパーが買取りを申し出ているが、他の工事でも同様の改ざんが発覚した場合、損害がすべて補償されるとはかぎらないだろう。

今回の事件を資産運用理論で説明すると、「タマゴをひとつのカゴに盛るな」ということになる。ひとつの株に全財産を投資して、その会社が倒産してしまえば一文なしだ。それを避けるには、異なるタイプの株式を保有すればいい。これが分散投資理論で、寿司屋がダメでもラーメン屋が儲かればなんとかなるのだ。

借金をして株式を買うのが信用取引で、素人が手を出してはならないハイリスクな投資だとされている。多くのひとが誤解しているが、マイホームは不動産投資の一種で、全財産を頭金にして住宅ローンを組むのは超ハイリスクな不動産の信用取引以外のなにものでもない。物件価格が大きく下落すれば、すべてを失うばかりか一生重い借金に苦しむことになる。

リスクというのは、いつかどこかで、思わぬかたちで顕在化する。不動産の信用取引をするひとがものすごくたくさんいれば、理論上、かならず誰かがババを引くことになってしまう。

これはもちろん、欠陥マンションを購入したひとが自業自得だというわけではない。マーケットの本質は不確実性で、いつ何時予想外のリスクにさらされるかわからないから、なにが起きても大丈夫なようにちゃんとリスクを分散しておきましょう、という話だ。

資産三分法は株式、債券、不動産に分散投資することで、古くから資産運用の黄金率とされてきた。でもこのルールを守ろうとすると、5000万円の不動産を買うのに1億5000万円の総資産が必要だ。この条件をクリアするのは難しいから、標準的な資産運用理論ではマイホームを持てるひとはほとんどいない。

もしあなたが数少ない例外だとしても、資産の3分の1を欠陥マンションに注ぎ込むのはイヤだろう。だからこの場合も、タマゴをひとつのカゴに盛るのではなく、5000万円でREITを買って、その配当で家賃を支払うのが理論的に正しい投資戦略になる。個別物件のリスクは機関投資家に負わせ、リスク耐性の低い個人は賃貸が合理的なのだ。

ここまでは「1+1=2」みたいな話で、難しいことはなにひとつない。でも不思議なことに、「資産運用の専門家」のなかでこういう話をするひとはほとんどいない。そしてときどき今回のようなことが起きて大騒ぎするけれど、いつのまにか「あのひとは運が悪かった」という結論になって、「マイホームは素晴らしい」といういつもの大合唱が始まるのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.54:『日経ヴェリタス』2015年11月8日号掲載
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福祉国家は「差別国家」の別の名前 週刊プレイボーイ連載(218)

「現代の民族大移動」ともいうべき難民の大量流入でヨーロッパが動揺しています。ハンガリーの右派政権は移民の流入を防ぐために国境を封鎖して批判を浴びましたが、批判の急先鋒に立ったクロアチアやオーストリアといった国々も、難民が国内に滞留しはじめると態度を翻しました。難民を満載した列車を市民が歓迎したドイツでもメルケル首相の支持率が急落しています。

「反移民」は東欧だけの現象ではありません。世界でもっともリベラルな社会を実現したスウェーデンでは、2010年と14年の総選挙で「税金を納めない移民のただ乗りを認めるな」と主張する“極右”の民主党が第三党に躍進して衝撃を与えました。大麻も安楽死も合法で、「自由と自己決定権」を重視する世界でもっとも進歩的な国オランダでも、「イスラーム諸国からの移民受け入れ停止」を掲げる自由党が第三党となり、閣外協力ですが政権の一翼を担っていました。国連の調査で「世界で一番幸せな国」(2014年)に輝いたデンマークでは、「ムスリムはヨーロッパ人の民族浄化を企んでいる」として非白人移民の国外追放を求める過激な国民党が政権の中枢に入り、いまでは「難民にとって魅力のない国」をアピールしています。

なぜこのような奇妙なことが起きるのでしょうか。

その理由のひとつは、ゆたかになればなるほど、また年をとればとるほど、ひとはリスクを嫌い安全を重視するからです。高齢化が進むゆたかな北のヨーロッパはまさにこの典型で、社会全体が保守化するのは人間の本性からして当然なのでしょう。

もうひとつの理由は、ひとびとが高福祉を達成した社会に暮らしているからです。

北欧の国々は、高い税金と引き換えに充実した年金や失業保険、医療・介護制度を国民に提供しています。国民の多くは「高負担・高福祉」に満足しており、だからこそ幸福度指数も高いのですが、その結果、ひとびとは制度の破綻を恐れるようになります。移民の失業率や生活保護受給率が平均より高いのは欧州のどの国も同じですから、右派政党は、「ただ乗りによって社会保障制度が崩壊する」との不安を煽って得票を伸ばすのです。

グローバル資本主義による格差拡大を批判するひとたちは、富裕層が「悪」で貧しいひとたちが救済すべき「善」だといいます。しかし移民問題では、ゆたかな都市部のひとたち(グローバル資本主義の「勝ち組」)が難民の受け入れに寛容で、年金に依存する貧しいひとたちが「移民排斥」の極右政党を熱烈に支持しています。社会を単純に善悪で二分する議論がいかに無意味かよくわかります。

無制限に移民が流入すれば、いかなる社会保障制度も破綻します。福祉国家は「差別国家」の別の名前で、負担の義務を果たせない貧しいよそ者を排除することでしか成立しません。しかしこれまで、「福祉」と「リベラル」が両立できないという不都合な現実が意識されることはほとんどありませんでした。

移民が人口の1割を超える北のヨーロッパの国々が、もっとも成功したリベラルな社会であることは間違いありません。だからこそ故郷で生きていけなくなった難民は欧州を目指すのですが、そのユートピアですら、というよりも、ユートピアだからこそ極右が台頭するところに、この問題の難しさが象徴されているのです。

『週刊プレイボーイ』2015年11月9日発売号
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軽減税率は「信者」のためのもの? 週刊プレイボーイ連載(217)

2017年4月に消費税率を10%に引き上げるにあたって、軽減税率の議論が紛糾しています。財務省が提示したのはマイナンバーで購入履歴を記録し、ネット上で還付金を申請するというそれなりに斬新なアイデアでしたが、これをいちどは受け入れた公明党が支持母体である創価学会の反発で態度を翻し、酒類を除く飲食料品の税率を8%に据え置くよう求めたからです。

これを受けてメディアでは、軽減税率の対象やインボイス(税額票)の功罪など、さまざまな解説がなされていますが、どことなく脱力感が漂うのは肝心なことを避けているからでしょう。

EU諸国など高率の消費税を課している国の多くで軽減税率が導入されていますが、政策を評価した経済学者らの結論は、「こんなバカなこと、やらなきゃよかった」です。消費税の欠陥として貧しいひとの実質税率が高くなる逆進性が指摘されますが、単純な軽減税率では高級食材を買う富裕層の利益の方が大きくなります。こうしたムダを避けるなら、すべての商取引に一律課税し、生活保護世帯や母子家庭など、家計が苦しいひとたちに一定額を給付した方がずっと効果的です。

このシンプルな方法なら、消費税率の差を利用した益税は発生しません。税の原則は「公平・中立・簡素」なのですから、どちらが優れているかは考えるまでもないでしょう。

軽減税率の問題は、どの商品を対象にするかの線引きがやっかいなことです。与党協議では、「生鮮食料品」でマグロなどの刺身は軽減の対象だが、刺身の盛り合わせは加工品だから対象外、との議論が出たそうです。こういうバカバカしいことをすべての食品に対して行なう社会的コストを考えれば、「やらなきゃよかった」と後悔するのも当然です。

軽減税率の導入を強硬に主張する公明党は「このままでは支持者が納得しない」といいますが、国民にものの道理を懇切丁寧に説明し、納得してもらうのが政治家の務めのはずです。それをあっさり放棄して不合理な制度をごり押しするのでは、なにを目的に日本の政治に関与しているのか疑問です。

そもそも消費税を増税せざるを得なくなったのは、歴代の自民党政権がばらまきを繰り返し、国の借金が1000兆円を超えてにっちもさっちもいかなくなったからです。それなのに消費税率を軽減しては、財政再建は遠のくばかりです。

日本の財政が持続可能になるためには、消費税率は欧州並みの20%超まで上げなければならないということで、専門家の意見はほぼ一致しています。10%で軽減税率を導入すれば、将来の税率引き上げのたびに「対象を拡大しろ」との大騒ぎが繰り返されるのは目に見えています。

もっとも、ここで正しい選択ができるようなら、GDP比の2.5倍に達する世界最悪の政府債務を積み上げるような愚行もなかったはずです。国民は自分と同程度の政治家しか選べないのですから、私たちはこれからも愚かしいポピュリズムとつき合っていくほかないのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年11月1日発売号
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