『「読まなくてもいい本」の読書案内』はじめに

近刊『「読まなくてもいい本」の読書案内』の「はじめに」を、出版社の許可を得て掲載します。

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なぜこんなヘンなことを思いついたのか?

この本は、高校生や大学生、若いビジネスパーソンのための「読まなくてもいい本」の読書案内だ。

なぜこんなヘンなことを思いついたかというと、「何を読めばいいんですか?」ってしょっちゅう訊かれるからだ。でも話を聞いてみると、こういう質問をする真面目な若者はすでに「読むべき本」の膨大なリストを持っていて、そのリストにさらに追加する本を探している。その結果、「読まなくちゃいけない本がこんなにたくさんある!」→「まだぜんぜん読んでない!」→「自分はなんてダメなだ!」というネガティブ・スパイラルにはまりこんでしまう。

こんなことになるいちばんの理由は、本の数が多すぎるからだ。

ぼくが大学に入った頃(1977年)は、1年間に出版される本は2万5000点だった。それがいまでは年間8万点を超えている。

これはたんに、本屋さんに並ぶ本が3倍に増えたというだけじゃない。同じ本を読むひとの数がものすごく減った、ということでもある。

ぼくたちの大学時代は、「読むべき本」というのがだいたい決まっていた。だから初対面でも、読んだ(あるいは読んだふりをした)本をもとに議論(らしきもの)をすることができた。でもこんなこと、いまではほとんど不可能だろう。

こうした事情は、音楽業界でメガヒットが出なくなったのと同じだ。かつてはビートルズのように、好きでも嫌いでもみんなが知ってる曲があったけれど、そういうのはマイケル・ジャクソンくらいまでで、いまではワン・ダイレクションやAKB48がどんなヒット曲を出しても「聴いたことない」というひとの方が多いはずだ。

本の世界もこれと同じで、読者の興味の多様化、学問分野の細分化、新刊点数の増加によって、ハリー・ポッターや村上春樹といった例外を除けば、みんなが共通の話題にできる作品はなくなってしまった。

もの書きとしてのぼくの生活は、本を読む、原稿を書く、旅をする、ときどきサッカーを観る、というものすごく単純な要素でできているけれど、それでも新聞の書評欄に載る本はほとんど読んでいない――自慢できることじゃないけど。だから、もっと忙しいひとたちが本の話題についていけなくてもぜんぜん恥ずかしいことじゃない。

それでも不安になって、ブックガイドを手に取ったりするかもしれない。世の中には「知性を鍛えるにはこの本を読みなさい」というアドバイスが溢れているから。

でも、この方法もやっぱりうまくいかない。なぜなら、“知識人”や“読書人”が勧める本の数も多すぎるから――「古典で教養を磨こう」といわれても、マルクスの『資本論』は岩波文庫で全9冊もあるんだよ!

150歳まで寿命を延ばす医療技術を開発するシリコンバレーのベンチャー企業、ハルシオン・モレキュラー社のオフィスには、「人生がもっと長くなったら何をしますか?」というポスターが貼ってある。金属製の巨大な本棚が整然と並ぶ未来の図書館をイメージした写真に添えられたコピーには、こう書いてあるそうだ。

「現時点で、1億2986万4880冊の書物の存在が確認されています。あなたは何冊読みましたか?」

でも1億3000万冊の本をすべて読もうと思ったら、150年の寿命ではぜんぜん足りない。3日に1冊のペースでも100万年(!)かかるし、その間にも新刊書はどんどん増えていくのだ。

人類が生み出した知の圧倒的な堆積を知ると、どの本を読んだとか、何冊読んだとかの比較になんの意味もないことがわかる。15歳から85歳まで毎日1冊読んだとしても、死ぬまでに書物の総数のせいぜい0.02%(2万6000冊)にしかならない。それを0.03%に増やしたとして、いったいどれほどのちがいがあるのだろう。

そこで本書では、まったく新しい読書術を提案したい。問題は本の数が多すぎることにあるのだから、まずは選択肢をばっさり削ってしまえばいいのだ。

人生は有限なのだから、この世でもっとも貴重なのは時間だ。たとえ巨万の富を手にしたとしても、ほとんどの大富豪は仕事が忙しすぎて、それをほとんど使うことなく死んでいく。同様に、難しくて分厚い“名著”で時間を浪費していては、その分だけ他の有益な本と出合う機会を失ってしまう。

「何を読めばいいんですか?」と訊かれるたびにぼくは、「それより、読まなくてもいい本を最初に決めればいいんじゃないの」とこたえてきた。でも、どうやって?

この本で書いたのは、次のようなことだ。

20世紀半ばからの半世紀で、“知のビッグバン”と形容するほかない、とてつもない変化が起きた。これは従来の「学問」の秩序を組み替えてしまうほどの巨大な潮流で、これからすくなくとも100年以上(すなわち、ぼくたちが生きているあいだはずっと)、主に「人文科学」「社会科学」と呼ばれてきた分野に甚大な影響を及ぼすことになるだろう。これがどれほどスゴいことかというと、もしかしたら何千年も続いた学問分野(たとえば哲学)が消滅してしまうかもしれないのだ。

この“ビッグバン”の原動力になっているのが、複雑系、進化論、ゲーム理論、脳科学などの学問分野のそれこそ爆発的な進歩だ。

これさえわかれば、知の最先端に効率的に到達する戦略はかんだんだ。

書物を「ビッグバン以前」と「ビッグバン以後」に分類し、ビッグバン以前の本は読書リストから(とりあえず)除外する――これを「知のパラダイム転換」と呼ぶならば、古いパラダイムで書かれた本を頑張って読んでも費用対効果に見合わないのだ。そして最新の「知の見取図」を手に入れたら、古典も含め、自分の興味のある分野を読み進めていけばいい。

こうした考え方を邪道だと思うひともいるだろう。でも時間の有限性と書物の膨大な点数を前提とすれば、これ以外に効率的な読書術はない。

誤解のないようにあらかじめ断っておくと、ここでは「読まなくてもいい本」のリストをいちいち挙げたりはしていない。新しい“知のパラダイム”がわかれば、「読まなきゃいけないリスト」をどんどん削除してすっきりできるはずだから。

そんなにウマくいくのかって? だったら具体的に、どんな効果があるのかやってみよう。

最初に挑戦するのは、ポストモダン哲学の最高峰だ。

……ここからPART1「複雑系」のリゾーム(ドゥルーズ=ガタリ)の話につづきます。

『「読まなくてもいい本」の読書案内』(筑摩書房) 禁・無断転載

『「読まなくてもいい本」の読書案内』発売のお知らせ

『「読まなくてもいい本」の読書案内』という、ちょっと変わったタイトルの新刊が発売されます。小説を除くと、『(日本人)』以来の書下ろしです。

明日(27日)発売で、Amazonでは予約が始まりました。都内の大型書店では今日くらいから店頭に並びはじめます。

この本のアイデアは、取材に来る若いひとたちから「どんな本を読めばいいんですか?」としばしば訊かれたことから思いつきました。話を聞いてみると、彼らはたくさんの本を読んでいるのに、もっとたくさんの本を読まなければいけないと思っていて、「読むべき本」の重圧に押しつぶされそうになっているのです。

本書のコンセプトはこれとはまったく逆で、問題は本の数が多すぎることにあるのだから、最初にすべきは「読まなくてもいい本」を決めることだ、というものです。そうすれば「読書リスト」をすっきり整理できて、どの本をどういう順番で読めばいいのかがわかってくるはずだ、という読書戦略です。

とはいえ、「読まなくてもいい本」を列挙する、という無粋なことをしているわけではありません。

1960年代以降、テクノロジーの進歩にともなって、とりわけ人文科学、社会科学の分野で巨大な地殻変動が起きています。この変化(あるいは「知の革命」)は、インターネットの登場やコンピュータのエクスポネンシャル(指数関数的)な高性能化によって、近年、さらに加速しています。これを「知のパラダイム転換」と呼ぶならば、それは主に複雑系、現代の進化論、ゲーム理論(ミクロ経済学)、脳科学などの分野でこれまでの常識を破壊しているのです。

そこで本書では、こうした「知の革命」のおおまかな枠組を紹介し、古いパラダイムで書かれた「名著」をとりあえずあとまわしにすることで、読書の見晴らしをよくすることを提案しています。逆にいうと、「名著」は新しい知のパラダイムで読み直してこそ意味がある、という話なのですが。

ちなみに、これは私独自の(オリジナルな)見解というわけではありません。いまや「知のパラダイム転換」の影響は広範囲に及び、ビジネス書、実用書、自己啓発本、経営書から健康・ダイエット本まで、このことを知らないと著者がなぜそのような主張をするのかわからなくなってしまいます。

たまたま手元にグーグルの人事担当上級副社長ラズロ・ボックの『ワーク・ルールズ!」(Googleの人事シシテムを解説した面白い本)があるのですが、そこでもグーグルがなぜ、どう動いているかを、「行動経済学と(進化)心理学の最近の研究から明らかになっていること」のレンズを通して見るのだと、当たり前のように書かれています。「新しい知」は、学者や哲学おたくではなく、若いビジネスパーソンにこそ必須の“教養”なのです。

とまあ、こういう本なのですが、この紹介だけではどんなことをやっているのか見当もつかないと思います。興味を持たれた方は、ぜひ書店で手にとってみてください。

橘 玲

中国の”デタラメ”にも理由がある 週刊プレイボーイ連載(219)

日本が提案した国連での「核全廃をめざす被爆地訪問決議」は156カ国の圧倒的多数で採択されましたが、核保有国である米英仏は棄権、中国、ロシア、北朝鮮が反対しました。なかでも中国は突出していて、傅聡軍縮大使は日本がヒロシマ・ナガサキの悲劇を「歴史をゆがめる道具」として利用し、「日本の侵略で中国だけで3500万人が犠牲になった。その大半は日本軍の国際法に反する化学・生物兵器の大規模使用の犠牲者だ」と批判しました。中国はほかでも同様の主張を行なっていますから、「南京大虐殺」の犠牲者30万人説に加え、これが今後、中国共産党の「正史」になっていくことは間違いないでしょう。

日本陸軍が「731部隊」のような研究機関を使って細菌兵器を開発したり、中国戦線でその効果を検証していたことは戦史に記載がありますが、(幸いなことに)試験段階で敗戦を迎えたため、日本国内ではリベラルな歴史家ですら化学・生物兵器の大量使用を否定しています。日本の侵略と国共内戦、軍閥の抗争によって中国で多くの死者が出たのは事実ですが、その多くは餓死・病死で、「数千万人が日本軍の化学兵器で殺された」というのは荒唐無稽というほかありません。「南京大虐殺」の世界記憶遺産への登録もそうですが、国連の場で他国を声高に批判する以上、中国は歴史家の検証に耐える証拠を提出すべきです。

しかしここではすこし頭を冷やして、中国がなぜこのような“デタラメ”を言い立てるのか、その理由を考えてみましょう。

第二次世界大戦の人類史的悲劇として誰もが思い浮かべるのは、アウシュヴィッツとヒロシマです。アウシュヴィッツはホロコーストというナチスの「加害」の歴史遺産ですが、ヒロシマは核兵器による一般市民の無差別殺戮という「被害」の記録で、これによって戦後日本人は、心理的に、自らの「加害」と「被害」を相殺しました。これがドイツのリベラルな知識人が日本の歴史認識に批判的な理由で、戦後処理で近代ドイツ発祥の地である旧プロイセン領を失い、1000万人を超えるドイツ人が追放されたにもかかわらず、自分たちは「加害」の悪役を永遠に担わされ、同じ敗戦国の日本がいつのまにか「被害」の側に回っていることが許しがたいのでしょう。

これは中国も同じで、大陸への侵略という「加害」と、太平洋戦争の敗北という「被害」を、日本人の都合で勝手に相殺することが認められるはずはありません。ここまでは納得できる主張ですが、問題はその手段として共産党に都合のいい歴史を捏造し、ナショナリズムを刺激していたずらに対立を煽ることでしょう。ただしそのことで、日本軍の「加害」の歴史的事実が免責されるわけではないのもたしかです。

今年は戦後70年で、安倍談話をめぐる騒ぎもあって多くのメディアが戦争特集を組みましたが、そのほとんどは「(日本人)被害者」を登場させて、「あの悲劇を繰り返すな」と訴えるものでした。

戦争のほんとうの恐ろしさは、「無辜の民」が犠牲になること以上に、ごくふつうの市民が平然と“隣人”を殺すようになることです。このグロテスクな「加害」のリアリズムから目をそらせ、「被害」の側からのみ歴史を語るなら、どの国であれ、悲劇をふたたび招きよせることになるでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年11月16日発売号
禁・無断転載