「人間力」はうさんくさい 週刊プレイボーイ連載(127)

政府の教育再生実行会議が、知識偏重の大学入試をやめて「人間力」で生徒を選ぶべきだと提言しています。面接や論文、高校の推薦書、部活動やボランティアの活動歴などから21世紀の日本を担う“グローバル人材”を選抜し、育てていくのだそうです。

ところで「人間力」とはいったい何でしょう? これは下村博文文部科学大臣が簡潔に説明しています。

ひとつは、多様な価値観や人をまとめていくリーダーシップ力。二つめは、企画力や創造力などクリエイティブ能力、そして人間的な感性や優しさ、思いやりだといいます(11月22日付『朝日新聞』)。

素晴らしい提言のようですが、こういう耳障りのいい話は疑ってかかった方が間違いありません。

そもそも、試験官が生徒の「人間力」を主観的に判断して合否を決めるのは最悪の選抜方法です。これでは不合格の烙印が、学力ではなく全人格を否定された証拠になってしまいます。学科試験の成績がよかったのに落とされた生徒は、深く傷つき社会を恨むようになるでしょう。

それに対して点数での判定は、試験に落ちても「ヤマが外れた」「体調が悪かった」などいくらでも逃げ道が用意されています。あれこれ文句をいいながらもみんなが受け入れてきたのは、これがいちばん公平な選抜方法で人格を傷つけることがないからです。

日本の大学のいちばんの問題は教師や学生の流動性がきわめて低いことで、これは日本社会の特徴でもあります。偏差値の高い大学に入っても授業についていけない学生もいれば、「三流」と呼ばれる大学にも優秀な学生はいるでしょう。だったら、できの悪い学生は転学・転部させ、優秀な学生を転入させる仕組みがあればいいだけです。

それに加えて「世界」を目指す大学は、優れた教師をスカウトして無能な教師をリストラし、留学生にも広く門戸を開放して授業はすべて英語で行なうようにすべきです。そうすれば一流の教師の下に優秀な学生が集まるようになり、グローバルな大学ランキングでも順位は大きく上がるでしょう。

しかしこの話には、もっと本質的な問題が隠されています。

教育についての議論には、つねに過剰なまでの思い入れが込められています。今回の提言も「教育を変えれば日本が変わる」ことが前提になっていますが、学校教育にそれほど大きなちからがあるのでしょうか。

もちろん、子どもの行動は置かれた環境に大きく左右されます。だから子育てや教育が大事だといわれるのですが、じつはこれは子どもの人格形成にはほとんど関係ありません。なぜなら子どもたちは、大人の介入を徹底的に排除しようとしているからです。

親や教師がどれほど説教しても馬耳東風な子どもたちは、友だち同士の評判にはものすごく敏感です。子ども集団のなかで目立つキャラをつくることが、彼らの関心のすべてだからです。

いまの大人も、子ども時代は「大人はウザい」と思ってきたはずです。しかし年をとってエラくなると、そんなことはすっかり忘れて、自分たちが好きなように子どもの人格を操れると考えるようになるようです。

 『週刊プレイボーイ』2013年12月16日発売号
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“芸術”という腐った楽園 週刊プレイボーイ連載(126)

スクープは大きくふたつに分けられます。ひとつは、これまで一般に知られていなかった秘密を暴くもの。もうひとつは、誰もが当たり前だと思っていたことに対して、「それはルール違反だ」と指摘するものです。公募美術展「日展」の書道部門で、入選数を有力会派に事前分配していたという朝日新聞のスクープは後者の典型でしょう。

日本の美術界は芸術院会員を頂点とするピラミッド組織で、弟子は階級が上がるほど上納金が増え、「日展に入選するには審査員に心づけを渡し、作品を購入しなければならない」というのが常識でした。これは茶道などの家元制度を持ち込んだものでしょうが、「公募」をうたっていながら、有力会派に属していなければ入選できないというのでは、不正審査といわれても仕方ありません。報道を受けて日展は、日本画や洋画を含む全部門で最高賞の選考を中止することを決めました。

こうした問題が起きるのは、日展だけでなく日本の美術界そのものが歪んでいるからです。その根本的な原因は、「芸術」の社会的な地位が大きく低下したことでしょう――かんたんにいうと、芸術では食べていけなくなったのです。

芸術院会員というのは、その世界では神様のように扱われるようですが、名前を知っているひとはほとんどいないでしょう(私も知りません)。日本画や洋画の“大家”は、たくさんの肩書きを持っていても社会的には無名なのです。

その一方で、「芸術」に憧れるひとたちはいつの時代も一定数います。退職後に趣味で書を始めたひとは、せめていちどくらい日展に入選したいと思うでしょう。そして有力な会派に入り、審査員をしている“先生”の指導を受け、さまざまな名目で謝礼を払います。日展というのは、芸術では食べられなくなった芸術家の集金システムなのです。

こうした商売の仕組みは、美術学校も同じです。美大やその受験予備校は、芸術に憧れる生徒から高い授業料をとって、そのお金を仲間内で分配します。生徒の学費は、芸術に夢を託した親が払います。美術学校の教員が売っているのは“芸術という幻想”で、日本国内では一流とされる美大の教授でも世界の美術界ではまったくの無名です。

日本の美術業界のこうした構造を歯に衣着せずに批判したのが現代美術の村上隆氏で、「エセ左翼的で現実離れしたファンタジックな芸術論を語りあうだけで死んでいける腐った楽園」と形容しました(『芸術起業論』)。「芸術家とは芸術によってカネを稼げる人間のことだ」とする村上氏が、日本の美術界で嫌われるのも当然です。

日展は、「内閣総理大臣賞」のような国家の権威を利用して大規模なビジネスを行なってきました。師弟関係で部外者を排除し、受賞暦によって階級が上がっていくムラ社会にあるのは、仲間内の自己満足(マスターベーション)だけです。

開かれた世界(市場)との回路を閉じてタコツボ化した組織は、必然的に腐っていきます。その気になって探してみれば、あなたのまわりにも同じように「腐った楽園」がいくらでも見つかるでしょう。

 『週刊プレイボーイ』2013年12月2日発売号
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既得権を守るために「日本人はバカだ」という 週刊プレイボーイ連載(125)

楽天の三木谷浩史社長が、医薬品のネット販売規制に抗議して、政府の産業競争力会議の民間議員を辞任すると表明しました(慰留され11月18日に撤回)。この会議はアベノミスクの三本目の矢である成長戦略の要とされていましたが、その象徴的存在だった三木谷氏に三行半を突きつけられたことで、安倍政権の規制緩和への本気度が問われています。

楽天の子会社などが原告となった行政訴訟では、医薬品のネット販売を禁止した厚労省令を、最高裁が「薬事法の趣旨に適合せず違法で無効」と判断しました。これでようやく自由化が進むかと思えば、厚労省は薬事法を改正して一部の市販薬のネット販売を禁止するほか、処方薬については対面での販売を法律で義務づけるといいだしました。これでは三木谷氏が激怒するのも当たり前です。

厚労省は、ネット販売を禁止する五つの市販薬は「劇薬」で、医師が処方箋を出して薬剤師が提供する処方薬については「ネットでは安全が保証できない」と説明しています。

一見するともっともらしい理屈ですが、規制について考える場合は二つの視点が大事です。ひとつは「その規制は誰の利益を守っているのか」ということ。もうひとつは、「規制に科学的な根拠があるのか」ということです。

患者のなかには、身体が不自由で薬局まで行くことができないひともいます。病名を知られるのが嫌で、薬を買うのを躊躇しているひともいるでしょう。処方薬のネット販売が解禁されれば、こうした患者の利便性が大きく向上することは間違いありません。

厚労省や薬剤師の業界団体は「ネット販売は危険だ」と繰り返しますが、対面販売の強制によって不利益を被っているひとたちの存在についてはいっさい口にしません。また一部の市販薬への規制では、そもそも「劇薬」が町の薬局で誰でも買えること自体がおかしいのですが、これについての説明もありません。

規制緩和をめぐる議論でいつも不思議に思うのは、なんの根拠も示さずに情緒に訴える主張がいまだにまかり通っていることです。

アメリカやイギリス、ドイツなどでは薬のネット販売が解禁されています。もし厚労省や薬剤師の団体がいうように処方薬のネット販売が患者の安全を脅かすのなら、これらの国ではトラブルが頻発し、消費者団体などがネット販売の禁止を求めているはずですが、そのような動きはありません。日本ではニセ薬の問題ばかりが取り上げられますが、「薬を処方してもらうためだけに病院に出向く手間がなくなり、医療費の削減にもつながっている」と評価されてもいます。

前回、マリファナや売春の自由化について書きましたが、冷戦が終わって自由経済の中で生きていくほかないとわかってから、さまざまな国が効率的な制度を模索して社会実験を行なっています。だとしたらもっとも費用対効果の高い政策立案とは、他の国でうまくいっている政策を取り入れて改良していくことです。

既得権にしがみつくひとたちは「日本の事情」ばかりを強調しますが、欧米で成功したことが日本できないというのは、「日本人はバカだから規制が必要だ」といっているのと同じです。薬局の利益を守るためだけにこういう「自虐的」な主張が横行するのは、そろそろ終わりにしたいものです。

『週刊プレイボーイ』2013年11月25日発売号
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