「サルに育てられた少女」の奇跡の物語

新刊『「読まなくてもいい本」の読書案内』の第一稿から、紙幅の都合で未使用の原稿を順次公開していきます。これは第2章「進化論」の冒頭に予定していた原稿です。

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南米コロンビアの田舎で生まれたマリーナ・チャップマンは5歳の誕生日を前にして、自宅の庭から2人組の男たちに誘拐された。身代金目的の犯行だろうが、男たちは怖気づいたのか、マリーナをジャングルの真ん中に置き去りした。

幼いマリーナは背丈まである茂みを掻き分けて道を探したが、いつのまにかより深いジャングルに迷い込んでいた。最初の夜は大きな木の洞で、夜行性の動物たちの気配に慄きながら過ごした。

朝になってなんとか水場は見つけたものの、食べ物はなかった。きれいな白地に花柄だったワンピースは泥と血にまみれたぼろ切れに変わり、靴もなくして裸の足は傷つき汚れ、空腹のまま地べたに倒れこみ、泣きながら眠ってしまった。

目を覚ますと、あたりに異様な気配を感じた。無数の目に見つめられているのだ。マリーナはいつの間にか、野生のサルの群れに取り囲まれていた。

輪のなかから、ひときわ大きく、肩が盛り上がって、ほかの者より毛が灰色がかっているサルが大股で近づいてきた。サルは皺だらけの手を伸ばし、マリーナを突き飛ばした。

震えながら次の一撃を覚悟していると、ボスザルは興味を失ったのか、背中を向けて輪の中に戻っていった。

次にもう一匹、やはり大きなサルが現われた。そのサルはマリーナの両足首をつかむと一気に引っ張りあげて背中から地面に打ちつけた。それからごわごわした手で髪の毛をかき回し、肉厚の手のひらで顔を覆い、最後に突き飛ばした。

それが他の小さなサルたちに自信を与えたらしく、いっせいにマリーナに寄ってきて、突いたり、髪の毛に指を突っ込んできたり、泥まみれのワンピースの裾をつまんだりした。

最初のうち、マリーナは「やめて!」「放して!」「あっちへ行って!」と叫んでいたが、そのうちに緊張が解けてきた。サルたちに、自分を傷つけるつもりがないことがわかったからだ。

さんざん彼女をおもちゃにすると、遊びにも飽きたらしく、サルたちは森のなかに戻っていこうとした。それを見てマリーナは焦った。ここで彼らと別れたら、またたった一人でジャングルの夜を過ごさなくてはならない。そのうえ空腹は限界に達し、自分だけではとうてい食べ物を見つけられそうにない。

マリーナは、サルの群れについていくことに決めた。

サルたちは木から木へと飛び移りながら、しきりに身体を揺らしていた。その木は深緑の流線型の葉が茂り、小さな紫色の花と房状の実をつけていた。サルたちは大喜びで、その実を両腕いっぱいに抱えていた。

その実がひと房、目の前に落ちてきた。マリーナは飛び出してそれを拾い、見よう見真似で皮をむき、実にかぶりついた。やわらかくねっとりとした、今まで食べたどれよりも甘いバナナだった。

このようにしてマリーナは、サルの群れを追いながら、バナナやイチジク、ナッツ類などを手に入れる方法を学んでいった。サルたちは木の葉や昆虫、芋虫、トカゲなども喜んで食べていた。それはさすがに無理だったが、勇気をふるってアリを食べてみたら、シャリシャリとした食感で美味しいことに驚いた。アリは森のどこにでもいて、見つけるのに苦労しなかった。

夜はサルたちのいる木の下で眠ったが、ある夜、気がつくと巨大なヘビが背中の上を這い回っていた。サルのように木に登って眠ろうとしたものの、寝返りを打ったとたんに落下した。だがあるとき、サルたちが木の根や草を絡ませ、森の中を自由に移動できるいくつもの通路をつくっていることを発見した。この「緑の回廊」が、マリーナの安全な居場所になった。

テロとのたたかいに「理性」が役に立たない理由 週刊プレイボーイ連載(221)

少なくとも129人が死亡し、352人が負傷した“13日金曜日”のパリ同時テロは世界じゅうに大きな衝撃を与えています。その後も新たなテロ計画が発覚し、オランド大統領はIS(イスラム国)に対する「戦争」を宣言しました。

ISは原理主義のカルトで、世界をイスラーム(光)と十字軍=西欧(闇)に分け、自分たちをジハード(聖戦)の最前線で悪魔とたたかうアッラーの聖戦士だと考えています。イスラームではジハードに殉じた者は最後の審判を待たずに天国に迎えられるのですから、彼らにとってテロは救済と解放なのでしょう。これはもちろん洗脳によって植えつけられた妄想ですが、ISとのたたかいが困難なのは、彼らにそのことを気づかせる方途がないことです。

教養ある青年アーサーは、自動車事故で頭部をフロントガラスに強打し、3週間昏睡状態がつづいたあと奇跡的に意識を回復、集中的なリハビリ療法によって以前と同じように歩いたり話したりできるようになりました。ところが退院後のアーサーには、ひとつ問題がありました。すっかり正常に戻ったはずなのに、両親が偽者だといい張るのです。

アーサーは精神科医に父親を「外見がそっくりな老紳士」と紹介し、どれほど説明されても肉親であることをぜったいに認めません。この特異な症状は、カプグラ症候群と呼ばれています。

脳には、認識に関する領域と情動(感情)に関する領域があります。正常な脳では、側頭葉にある認識領域から情報が辺縁系に送られ、特定の顔に対する情動反応を促進するのですが、なんらかの理由でこの経路が切断されてしまうと、父親や母親、妻や子どもなど親しいひとの顔を認識するものの、それにともなってわいてくるはずのあたたかさや愛おしさを感じることができません。そのため、肉親を見てもそっくりな他人だと判断し、自分がなにかの陰謀に巻き込まれたか、相手がゾンビの類だと思うようになってしまうのです。

カプグラ症候群よりもさらに悲惨なのはコタール症候群で、患者は自分が死んでいるといい張ります。精神科医は、死人には血が出ないということを納得させたうえで、実際に患者を針で刺して血が出るところを見せたりしますが、ひどく驚くものの、実は死人も血が出るのだと結論を変えるだけで、自分が生きていると考えるようにはなりません。

コタール症候群ではすべての認識が情動から切断されていて、患者はどのような体験からも生の実感を得ることができません。そのため、自分が実は死んでいるのだと結論づけるしかなくなります。カプグラ症候群の患者はゾンビの世界に住んでいますが、コタール症候群では自分自身がゾンビになってしまうのです。

患者たちはいずれもきわめて知的なひとたちで、精神科医はなぜ間違った考えを抱くのか論理的に懇切丁寧に説明しますが、まったく治療効果はありません。なんらかの理由で妄想(歪んだ直観)に囚われてしまうと、それを否定する証拠がいくらあっても、というか、反証があればあるほど、彼らは妄想にしがみついて自分のアイデンティティを守ろうとするのです。

こうした奇妙な脳の疾患から、理性(知性)とはなにかを知ることができます。理性の本質が自己正当化ならば、原理主義に対して説得や教育、啓蒙が無力なのも当然です。

参考文献:V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』

『週刊プレイボーイ』2015年11月30日発売号
禁・無断転載

読書のコストパフォーマンスを追求するために

『ちくま』2015年12月号に掲載された『「読まなくてもいい本」の読書案内』の自著解説を、出版社の許可を得て掲載します。

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世の中の(ほぼ)すべてのブックガイドは「読むべき本」を紹介している(当たり前だ)。でもここでは、「読まなくてもいい本」について考えてみた。とはいっても、古今東西の名著を取り上げて、「こんなものは古本屋に売り飛ばしてしまえ」と八つ当たりしているわけではない。

若い頃はいろんな本を読んだけど、いつの間にか宗教書にはまったく興味がなくなった。理由は単純で、神なんていないからだ。ひとびとの幻想(というか妄想)が生み出したものを真面目に考えたところで時間のムダだ。たくさんのひとがいまも「神」に人生を拘束されているから、宗教の歴史や制度、信者の生態についての研究は意味があるだろうが。

哲学書にも興味が持てなくなった。これは「意識」や「善」が、いまでは脳科学や進化論で語れるようになったからだ。自然科学のフレームワークを無視して、内輪で小難しい用語を弄んでいるだけでは、大学から哲学科が消えていくのも仕方ないだろう。

哲学以上に存亡の危機にあるのがフロイトとかユングとかの人文系の心理学だ。男の子は母親とセックスしたいなんて思ってないし、「集合的無意識」は進化心理学や遺伝学、脳科学の領域で扱えるようになった。面白おかしいお話を捏造しているだけでは、もはや学問として生きていくことはできないのだ。

ポーカーから戦争まで、社会的動物としてのヒトは際限のない対立と協調のゲームを繰り返している。それを分析するのがゲーム理論で、将棋やチェスと同様に参加者の選択はルールに依存している。法律は社会のルールを明示したものだから、世間知らずの法学者が適当につくるのではなく、数学的にもっとも効率的で公平な制度を設計すればいい。このように考えるのが法と経済学で、民法や会社法など市場にかかわる法律は抹香くさい法学を見捨てて、これからは経済学の一分野になるだろう。

ついでにいうと、政治学は法学よりもはるかに遅れていて、日本ではいまだに権力者同士のいがみあいを三国志や戦国時代にたとえたり、政治家の言葉尻をイデオロギー(マルクス主義とか)で批判することだと思われている。でもそんなのはマンガやバラエティ番組でやればいいことで、ゲーム理論の枠組みで政治家や官僚、有権者のインセンティブを分析するのが世界標準だ。

ゲーム理論を最初に取り込んだ経済学は「社会科学の女王」として羽振りよさそうにしているけど、じつはぜんぜん安泰とはいえない。ひとつは進化心理学(行動経済学)の側から「合理的経済人」の前提に重大な疑義が突きつけられたことで、ひとが本性として不合理なら(たぶんそうだろうが)ミクロ経済学は土台から崩壊してしまう。

より深刻なのは複雑系の科学からの異議申し立てで、数学者のマンデルブロは、市場や社会はロングテールを持つ「複雑で小さな世界」で、ベルカーブ(正規分布)しか扱えないマクロ経済学でモデル化することは原理的に不可能だと宣告した。社会科学の最高峰とされている数理経済学は、「科学」から脱落しつつあるのだ。

ここで述べたのは独断と偏見ではなく、それぞれの専門分野ではいまでは常識になっていることばかりだ。これを「知のパラダイム転換」と呼ぶならば、古いパラダイムで書かれた「名著」を一所懸命読んでも投入したコストに見合う成果は得られない。

人生は有限で1日は24時間しかないのだから、生活に必要なお金を別にすれば、この世でもっとも貴重な資産は時間だ。だとしたら読書も、費用対効果を考えて、「読まなくてもいい本」を読書リストからさくさく削ることから始めるべきだろう。

はたしてそんなことがうまくいくのか、疑わしいと思ったら(たぶんそう思うだろうけど)、本屋さんに行ってぜひ自分の目で確かめてみてください。

『ちくま』2015年12月号 禁・無断転載