障がいを持つ胎児の中絶をどう考えるか? 週刊プレイボーイ連載(223)

茨城県の教育委員が、「妊娠初期にもっと(障がいの有無が)わかるようにできないのか」「茨城県では(障がい児を)減らしていける方向になったらいい」などと発言したことで辞職に追い込まれました。これが差別的な発言であることは明らかですが、しかしそれを封殺すればすむ問題でしょうか。

傷がいを持つ胎児の中絶はもちろん、出産直後に障がいがあることがわかった場合も安楽死を認めるべきだ――こんな主張を聞いたらほとんどのひとは仰天するでしょう。しかしこれは、倫理学の分野で1970年代後半に提起され、数々の論争を経て(批判も含め)いまでは一定の評価が定まっています。

重度の障がいを持つ乳児の安楽死を議論の俎上に載せたのはオーストラリアの哲学者ピーター・シンガーですが、彼はネオナチやファシストの類ではなく、「動物の権利」を提唱して動物保護運動に画期をもたらしたリベラルの“過激派”です。

なぜ動物に権利があって胎児や出産直後の乳児には権利がないのか。シンガーはこれを意識の有無で説明します。

実験用のチンパンジーが、殺されるときに自分の運命に気づいて恐怖を感じるとしたら、チンパンジーにもその恐怖=意識の度合いに応じて権利を認めるべきだ(ここから、意識レベルの低いネズミの動物実験は容認されます)。それに対して(シンガーの知見では)胎児や出産直後の乳児が意識を持つという科学的な証拠はなく、恐怖を感じないのなら安楽死を否定する倫理的な根拠もない――という理屈になるのです。

生まれた子どもが重い障がいを持っていたら、親はたいへんな苦労を覚悟しなければなりません。このとき子どもの「生きる権利」と親の「幸福」が対立したとすると、シンガーは、胎児や乳児の意識レベルがきわめて低い段階では、親の権利を優先することが「倫理的」であるというのです。

ここで誤解のないようにいっておくと(というか、必ず誤解されるでしょうが)、これは「障がい児には生きる権利がない」ということではありません。

医師の義務は、胎児の検査や出産直後の診断により、子どもの障がいについて親に正確な説明をすることです。そのうえで親は、子どもを産み育てるかどうかを、第三者の介入を排して、自分たちの自由な意思で判断する権利を有します。そして障がい児を育てようと決めたのであれば、社会はその子どもの「人権」を尊重し、じゅうぶんな保護と援助を与える義務を負うのです。

ナチズムの暗い過去を持つドイツでは安楽死への心理的抵抗がことのほか強く、シンガーが生命倫理のシンポジウムに参加したときには「人権団体」から激しい抗議を受けました。彼らはシンガーの安楽死論を「(ユダヤ人絶滅を計画した)ホロコーストの正当化」だと批判しましたが、実はシンガー自身がユダヤ系で、親はナチスを逃れてヨーロッパからオーストラリアに移住したのでした(シンガーの著作の多くは日本でも翻訳されており、生命倫理を論じるうえでの必読文献になっています)。

2013年度に新出生前診断が始まり、受診数と、その結果を受けて中絶を選択するひとの数は増えつづけています。だとすればいま必要なのは、「差別はけしからん」という空虚なヒューマニズムではなく、当事者によりそった現実的な議論ではないでしょうか。

参考文献:ピーター・シンガー『実践の倫理』

『週刊プレイボーイ』2015年12月14日発売号
禁・無断転載

「中絶によって犯罪が減る」ってホント?

新刊『「読まなくてもいい本」の読書案内』の第一稿から、紙幅の都合で未使用の原稿を順次公開していきます。これは第3章「ゲーム理論」9「統計学とビッグデータ」の「大相撲で八百長を見破る」のあとに入る予定だった原稿です。

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統計学は真実に辿りつく超強力な理論で、ビジネスを中心にぼくたちの人生に大きな影響力を持つようになった。だから最後に、「絶対計算」も絶対とはいえないという話をしておこう。

スティーヴン・レヴィットの『ヤバい経済学』が世界じゅうでベストセラーになったのは、「犯罪者はみんなどこへ消えた?」で、1990年代になってアメリカの犯罪件数が劇的に下がりはじめた謎を解明したからだ。

それまでの15年間に凶悪犯罪は80%も増えており、専門家たちは今後も犯罪は増えつづけると予想していた。だがニューヨークでは、暴力犯罪が90年代に70%以上も減少したのだ。

そこで専門家は、犯罪の減少を取締りの強化や懲役の増加、麻薬市場の変化、人口の高齢化、銃規制、好景気、警官の増員、死刑の増加などさまざまな理由で説明しようと試みた。これらを検討したレヴィットは、次の3つは統計的に犯罪を減らす効果を持ったと指摘した。

(1) 懲役の増加。危険な犯罪者を投獄しておけばその分だけ犯罪は減る。90年代の犯罪減少の3分の1は、投獄された犯罪者の増加で説明できる。ただし、死刑の増加は犯罪の減少とはほとんど関係がない。アメリカでは死刑はめったに執行されず、犯罪の抑止力にはならないのだ。

(2) 警官の増員。アメリカの地方選挙では、投票日前の数カ月間、現職市長は警官を増員して法と秩序の維持を訴える。選挙を行なった市と行なっていない市を比較すれば、警官が増えると犯罪率が大きく下がることがわかる。

(3) 麻薬市場のバブル崩壊。90年代になってコカインやクラックの末端価格が暴落した。1988年にニューヨークで起きた殺人の25%はクラック絡みだったが、麻薬取引が儲からなくなると、売人たちは生命を賭けて縄張り争いをするのがバカバカしいと思うようになり、凶悪犯罪が減った。

だがこの3つの要因を足し合わせても、90年代になって犯罪件数が急激に下がった理由を説明できない。そこでレヴィットは、統計分析を使って、誰も気づかなかったその謎を手品師のように解いてみせた。そのこたえは「中絶の合法化」だ。

1960年代後半からアメリカでは一部の州が中絶を認めるようになった。とりわけ大きな影響を与えたのは1973年の最高裁判決で、中絶を合法としたこの裁判のあと、1年間でアメリカ全土の75万人の女性が中絶を受け、その件数は80年に160万件に達して横ばいになった。

レヴィットは、中絶の合法化で出産を止めたのはどういう女性なのかと問う。彼女たちの多くは未婚で、貧しくて、10代の「望まない妊娠」をした女性たちだ。そして多くのデータが、貧困や母子家庭、母親の教育水準が低いことが、子どもが犯罪者になるかどうかを予測する強力な因子であることを示している。中絶合法化によって、本来犯罪者になるはずだった子どもたちがこの世に生まれてこなかったために、(彼らが10代後半になるはずの)90年代から急激に犯罪件数が減ったのだ。

この仮説を裏づけるために、レヴィットは中絶を合法化した年が州によって異なることを利用した。中絶率と犯罪発生率の相関を調べると、1970年代に中絶率が高かった州は1990年代の犯罪率がより大幅に減少しているのだ。さらにオーストラリアとカナダを調査してみても、中絶合法化と犯罪には同様の関係があった。

アメリカの保守派は、「銃を持つ権利を認めれば犯罪は減る(相手が銃を持っているかもしれないとしたら、犯罪者は安心して獲物を襲えない)」と主張している。それに対してリベラル派は銃規制を求め、刑務所から軽犯罪者を釈放するよう要求している(刑務所内で他の犯罪者と交流することで常習犯罪者になる)。だがレヴィットは、どちらの主張も統計学的に間違っているとして、誰にとっても不愉快な解決策(未婚で貧乏なティーンエイジャーは中絶した方がいい)を提示したのだ。――アメリカには中絶を殺人と同じだと考えるひとたち(キリスト教原理主義者)がたくさんいるというのに。

だがその後、レヴィットにさんざんバカにされた犯罪学者のあいだから、90年代の犯罪減少についてまったく別の説明が現われた――それも、レヴィットが得意な統計学を使って。それは「中絶」よりさらに奇想天外なもの、「胎児の血中の鉛レベル」だった。

教養という「幻想」にしがみつくひとたち 週刊プレイボーイ連載(222)

18歳で東京に出てきて、入学式後の大学の最初のイベントは新入生向けの記念講演でした。高校の勉強にうんざりしていた私は、大学ではどんなことが学べるのか、期待に胸を躍らせていました。

1000人以上入る巨大な講堂をぎっしり埋めたその講義で、ギリシア哲学の高名な学者が力説したのは、「うちの大学の男子学生は田舎者が多いから、ブスな女子学生にかんたんに引っかかってしまう。世の中にはもっといい女がたくさんいるのだから、カノジョを選ぶときは慎重にしなさい」ということでした(いまならセクハラで許されないでしょうが、当時はこういう発言はふつうだったのです)。

たしかに親切な助言かもしれませんが、まだ初心だった私は衝撃を受けました。こんなものが「学問」なら、大学にいったいなんの意味があるのだろう。

その大学は教師自ら「学生一流教授三流」と自嘲していて、学生が全員授業に出席すると教室が足りなくなるといわれていました。学問を教えないことで大学教育が成り立っているのですから、当然、私も4年間ほとんど授業に出ずに卒業しました。

日本の大学では社会人として必要な専門知識が身につかないと、これまでもずっと批判されてきました。文部科学省が国立大学に人文社会科学系の学部・大学院の統廃合を迫ったり、国際競争に勝つための高度な教育はごく一部のトップ校(G大学)だけにして、それ以外の大学(L大学)は職業訓練に徹すればいい、との提言も話題を呼びました。こうした“暴論”にさしたる驚きがないのは、文系の学部の卒業生の多くが私と同じような体験をしているからでしょう。「教養」が目的なら、テーマと教師を自由に選べるカルチャーセンターでじゅうぶんなのです。

教育をめぐる議論では、「どこかにほんものの学問や師弟関係があるはずだ」という理想論があって、その高みから現状が批判されます。しかしそれがまったくの誤解で、教育の中身がすっかり意味を失っていたとしたらどうでしょう。

日本のアカデミズムでは、文系と理系はまったく別のものとされています。しかし欧米では60年代くらいから自然科学による人文社会科学への侵食が始まって、学者たちのあいだで激論がたたかわされてきました。その主役は進化生物学で、分子遺伝学や脳科学、ゲーム理論などの新しい“知”を従えて、人間の本性や社会の仕組みを進化の産物として読み解こうとしたのです。

ところが日本の(文系)大学はこの嵐から隔離され、ヘーゲルの哲学、フロイトの心理学、マルクスの経済学、あるいは文学という“趣味”など、賞味期限の切れた知識を「学問」と強弁して高い学費を取ってきました。これでは「簿記を教えた方がマシ」といわれるのも当然です。

文系の大学教育の最大の恥部は、「知の最先端」から完全に脱落してしまっていることです。大学の教員は自分たちの生活がかかっているので、このことをぜったいに認めないでしょうが。

だったら、いったいなにを学べばいいのか。そのことを近刊の『「読まなくてもいい本」の読書案内』で書いたので、興味のある方はご一読ください。

『週刊プレイボーイ』2015年12月7日発売号
禁・無断転載