教養という「幻想」にしがみつくひとたち 週刊プレイボーイ連載(222)

18歳で東京に出てきて、入学式後の大学の最初のイベントは新入生向けの記念講演でした。高校の勉強にうんざりしていた私は、大学ではどんなことが学べるのか、期待に胸を躍らせていました。

1000人以上入る巨大な講堂をぎっしり埋めたその講義で、ギリシア哲学の高名な学者が力説したのは、「うちの大学の男子学生は田舎者が多いから、ブスな女子学生にかんたんに引っかかってしまう。世の中にはもっといい女がたくさんいるのだから、カノジョを選ぶときは慎重にしなさい」ということでした(いまならセクハラで許されないでしょうが、当時はこういう発言はふつうだったのです)。

たしかに親切な助言かもしれませんが、まだ初心だった私は衝撃を受けました。こんなものが「学問」なら、大学にいったいなんの意味があるのだろう。

その大学は教師自ら「学生一流教授三流」と自嘲していて、学生が全員授業に出席すると教室が足りなくなるといわれていました。学問を教えないことで大学教育が成り立っているのですから、当然、私も4年間ほとんど授業に出ずに卒業しました。

日本の大学では社会人として必要な専門知識が身につかないと、これまでもずっと批判されてきました。文部科学省が国立大学に人文社会科学系の学部・大学院の統廃合を迫ったり、国際競争に勝つための高度な教育はごく一部のトップ校(G大学)だけにして、それ以外の大学(L大学)は職業訓練に徹すればいい、との提言も話題を呼びました。こうした“暴論”にさしたる驚きがないのは、文系の学部の卒業生の多くが私と同じような体験をしているからでしょう。「教養」が目的なら、テーマと教師を自由に選べるカルチャーセンターでじゅうぶんなのです。

教育をめぐる議論では、「どこかにほんものの学問や師弟関係があるはずだ」という理想論があって、その高みから現状が批判されます。しかしそれがまったくの誤解で、教育の中身がすっかり意味を失っていたとしたらどうでしょう。

日本のアカデミズムでは、文系と理系はまったく別のものとされています。しかし欧米では60年代くらいから自然科学による人文社会科学への侵食が始まって、学者たちのあいだで激論がたたかわされてきました。その主役は進化生物学で、分子遺伝学や脳科学、ゲーム理論などの新しい“知”を従えて、人間の本性や社会の仕組みを進化の産物として読み解こうとしたのです。

ところが日本の(文系)大学はこの嵐から隔離され、ヘーゲルの哲学、フロイトの心理学、マルクスの経済学、あるいは文学という“趣味”など、賞味期限の切れた知識を「学問」と強弁して高い学費を取ってきました。これでは「簿記を教えた方がマシ」といわれるのも当然です。

文系の大学教育の最大の恥部は、「知の最先端」から完全に脱落してしまっていることです。大学の教員は自分たちの生活がかかっているので、このことをぜったいに認めないでしょうが。

だったら、いったいなにを学べばいいのか。そのことを近刊の『「読まなくてもいい本」の読書案内』で書いたので、興味のある方はご一読ください。

『週刊プレイボーイ』2015年12月7日発売号
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