「サルに育てられた少女」の奇跡の物語

これはマリーナ・チャップマン『失われた名前』(駒草出版)の第1部「ジャングル」の要約で、「サルに育てられた少女」がジャングルを抜け出すまでの実話だ(彼女を育てたのはおそらくナガオマキザルだという)。第2部「人間の世界」で、彼女はさらに数奇な世界を生き延びることになる――。

ハンターたちは、四つんばいで歩くサル同然の子どもを売春宿に売り払った。そこはコロンビア北部の大都市ククタから車で30分ほどの、ロマ・デ・ボリバルという小さな村だった。

カルメンという中年女が経営する売春宿で、彼女は、「グロリア」をいう名前を与えられ、こん棒で殴られ、ベルトで鞭打たれ、「バカ!」と怒鳴られながらヒトとして“調教”された。そのとき彼女が何歳だったのかはわからないが、膝まで伸びた髪の毛から、ジャングルで5年は過ごしただろうとのちに推定している。誘拐されたのが、記憶にあるとおり5歳の誕生日の直前だとすると、そのとき彼女は10歳前後ということになる。

彼女は二本足で歩かされ、食事やトイレ作法をしつけられ、掃除や買い物などの雑用を任されるようになる。彼女はときに四つ足になり、木に登って果実を食べ、妙なうなり声を発したが、急速に人間の言葉を覚えていく。

そんなある日、街で唯一、彼女に親切にしてくれた女性から呼び止められた。女性は、「カルメンはあなたを男たちのおいしい肉にするために買ったのだ」と教え、「あの家にいてはいけない。逃げなさい」といった。

ある夜、客に売られそうになった彼女は売春宿から裸足で逃げ出し、地方都市のククタにたどり着く。そこにはホームレスの子どもたちがたくさんいて、彼女はすぐにストリートチルドレンの仲間入りをした。彼女はそこで、「ポニー・マルタ」と呼ばれるようになる。麦芽からつくられた甘い炭酸飲料の商品名で、黒い小さな壜が彼女に似ていることからつけられたのだ。

盗みの技術に長けた彼女はすぐに、男3人女3人のストリートギャングのリーダーになる。路上生活から脱しようと裕福な家の家政婦に雇われたこともあったが、そこは名だたる犯罪者一家だった。そこで彼女は、「ロサルバ」と呼ばれるようになる。

彼女に救いの手を差し伸べたのは、隣家の親切な主婦だった。犯罪の秘密を知られたことで一家が彼女を殺そうとしていることを知った主婦は、危険を覚悟で彼女を連れ出し、修道院に送り届けたのだ。

だが修道院での生活は、彼女にとって牢獄と同じだった。彼女は数カ月で修道院を抜け出すと、親切にしてくれた主婦に会いにいった。主婦は彼女を見捨てず、首都ボゴタにいる娘マリアに預けることに決めた。

マリアの家で、彼女は「自分の名前」をつけるようにいわれた。なぜなら「グロリア」も「ポニー・マルタ」も「ロサルバ」も、彼女のほんとうの名前ではないからだ。

それから数日間、彼女は考えつづけ、「光」と「海」という名のルス・マリーナとして生まれ変わった。――これが、マリーナが「失われた名前」を取り戻すまでの物語だ。

その後、マリーナはイギリスに移住して1978年に結婚、2人の娘と3人の孫に恵まれた。娘の一人はロンドンで作曲家・ミュージシャンになったが、子どもの頃に母親から聞いた昔話に興味を持ち、コロンビアでの現地取材を重ね、母親の記憶のなかの無数のイメージの断片に固有名詞をあてはめ、2年がかりでこの驚くべき物語をまとめたのだ。