第58回 「漏れない秘密」もはや幻想(橘玲の世界は損得勘定)

中米のタックスヘイヴン、パナマの法律事務所から流出した大量の秘密ファイル(パナマ文書)が波紋を広げている。ロシアのプーチン大統領に近い関係者、中国の習近平国家主席の親族、イギリスのキャメロン首相の亡父、アルゼンチン大統領やパキスタン首相からサッカー選手リオネル・メッシまで多数の政治家・有名人がタックスヘイヴンに会社を設立して資産隠しをしていた疑いが生じたからだ。

この事件で明らかになったのは、現代社会ではもはや「守秘性」は幻想だということだ。

秘密を守るもっとも確実な方法は、秘密を知る人間の数を減らすことだ。かつてスイスの名門プライベートバンクは、顧客情報は担当者と経営者しか知らず、重要な顧客は銀行の創業者一族である経営者が担当するため、秘密が漏れる恐れはほとんどなかった。ところがその後、情報のデータベース化が進むと、顧客名簿にアクセスできる人数は飛躍的に増えた。

2008年にリヒテンシュタインの大手プライベートバンクから顧客情報が流出した事件では、電子データの移管作業をしていたエンジニアがドイツの税務当局に顧客情報を420万ユーロ(約5億3000万円)で売りつけた。グローバル銀行HSBCのジュネーブにあるプライベートバンクから13万件近い顧客情報が流出した09年の「スイスリークス事件」では、首謀者は“正義の人”になって著書まで出したことで話題になった。今回の流出元も金銭は求めていないようだが、貴重な情報へのアクセスが容易になれば、個人的な利益や思想信条などで秘密を暴露しようと思う人間が出てくるのは当然なのだ。

パナマ文書の詳細は不明だが、法律事務所はタックスヘイヴンでの会社設立を代行するだけなので、会社名、取締役、資本金などの登記情報を保有しているだけだ。ただし出資金の内訳などから、なんのための会社かわかる場合もある。

報道を見るかぎり、夫婦でパナマに投資会社を保有していたアイスランドの首相がやったのは「ハゲタカファンド」の手法で、世界金融危機で破綻寸前の銀行の社債を紙くず同然で買い集め、債権者集会で主導権を握ろうとしたのだろう。手口を隠すためにタックスヘイヴンを利用することは違法ではないが、一国の首相がこんなことをやれば国民が怒るのは当たり前だ。

先進国の政治家の名前があまり出てこないのは、度重なるリークで、タックスヘイヴンを使うことが割が合わなくなったからだろう。キャメロン首相の苦境を見ればわかるように、公人には説明責任が問われるのだ。それに対して新興国ではいつ政変で地位を失うかわからないから、権力者は家族などの名義で資産を海外に移して保険をかけようとする。

タックスヘイヴンの法人設立は、ほとんどはプライベートバンクが仲介する。すでに大手金融機関の名前が出ているが、今後、疑惑の追及が銀行口座にまで及ぶようなことになれば、資産隠しの詳細が明らかになってさらなる激震が走るだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.58:『日経ヴェリタス』2016年4月24日号掲載
禁・無断転載

恋愛やビジネスに成功するカンタンな方法 週刊プレイボーイ連載(239)

今回はちょっと趣向を変えて、すぐに役立つ知識をお教えしましょう。

「あたたかな気持ち」「高い地位」などの言葉を私たちは当たり前のように使っています。「蜜のような甘い言葉」は、愛の囁きの比喩として、誰でもすぐに理解できます。

でも考えてみれば、これは不思議な話です。世界にはさまざまな言葉や文化、習慣があるのに、なぜこの比喩が注釈もなく翻訳できるのでしょうか。

この疑問に、現代の脳科学はこう答えます。「それは比喩ではなく、実際に脳の味覚に関する部位が活動しているからだ」――愛の言葉と蜜は、脳にとっては同じ刺激なのです。

これだけなら驚くようなことではないかもしれませんが、テルアビブ大学のタルマ・ローベル教授は、この因果関係が逆にしても成り立つことを発見しました。「甘いものを食べながら聞いた言葉は甘く感じる」のです。

ほんとうにこんな不思議なことがあるのでしょうか。それを次のような実験で確かめましょう。

学生がエレベーターに乗ると、そこには本とクリップボード、コーヒーカップで手がふさがった助手がいます。助手は学生に、「ちょっとコーヒーカップを持ってくれませんか」と頼みます。

次に学生が研究室に入ると、実験担当者からある(架空の)人物についての資料を読むようにいわれます。その後、学生にこの人物の印象を尋ねます。

ランダムに選ばれた学生が同じ資料を読むのだから、質問への回答に統計的な差は生まれないはずです。しかし興味深いことに、特定の質問項目にだけはっきりとしたちがいが現われました。それは、「親切/利己的」など、性格があたたかいか冷たいかを連想させる質問でした。

なにが学生たちの回答を左右させたのでしょう。

じつはエレベーターのなかの助手は2種類のコーヒーを持っていました。ホットコーヒーとアイスコーヒーです。

驚いたことに、エレベーターのなかで一瞬、ホットコーヒーを持った学生は資料の人物を穏やかで親切だと感じ、アイスコーヒーを持った学生は怒りっぽく利己的だという印象を抱いたのです。温度の感覚は、無意識のうちに、その後の人物評価に影響を与えるのです。

こうした知見から、ローベル教授は次のようにアドバイスします。

  • 初対面のひとにはあたたかい飲み物を出した方がいい。
  • 交渉の際は、やわらかな感触のソファに座らせると相手の態度が柔軟になる。
  • 相手より物理的に高い位置に座ると、交渉が有利になる。
  • 相手と冷静に話し合いたいときは距離を取り、感情に訴えたいときは身体を寄せる。
  • プレゼンの資料は重いものを用意する。ひとは重い本を持つと、それを重要だと感じる。
  • 赤は不安や恐怖を高める。試験問題を赤で書いたり、受験番号を赤で印刷しただけで成績が下がる。
  • その一方で、赤は注目を引く。スポーツではユニフォームが赤のチームが有利だし、赤い服の女性や赤いネクタイの男性はもてる。

どうでしょう、すぐに実行できることばなりではないでしょうか。最新の脳科学を使って恋愛やビジネスに成功してください、結果は保証しませんが。

参考:タルマ・ローベル『赤を身につけるとなぜもてるのか?』

『週刊プレイボーイ』2016年4月18日発売号
禁・無断転載

安倍政権が「リベラル」になる理由 週刊プレイボーイ連載(238)

安倍内閣が10%への消費税増税を再延期し、衆参同日選に打って出るとの憶測が盛んです。現時点ではどうなるかはわかりませんが、安倍首相が憲法改正可能な議席を確保しようと思うのなら、この戦略は合理的です。

20年以上にわたって続いた中国の高度経済成長が減速をはじめ、今年に入ってから世界経済が動揺しています。鳴り物入りではじまったリフレ政策も、日銀がどれほど金融緩和してもインフレは起きず、マイナス金利という奇策に頼らざるを得なくなりました。

こうした状況を見て安倍首相は、韓国とのあいだで慰安婦問題の「最終的かつ不可逆的な解決」に乗り出し、年頭の施政方針演説では「同一労働同一賃金」の法制化を目指すと宣言しました。

慰安婦問題での妥協は保守派・右翼に大きな不満を残しましたが、安倍首相に対抗する右派の政治勢力が存在しない以上、なんの脅威にもなりません。国際社会では彼らの主張は「朝鮮人を殺せ」と叫ぶ団体と同一視れており、政治的資源というより厄介者になった、ということもあるでしょう。しかし決定的なのは、これ以上右にウイングを伸ばしても支持者が増えないことです。

安倍政権にとって肥沃な票田は、中道から左にあります。本来はこの層は野党第一党である民主党の地盤でなければならないのですが、政権担当時の失敗で有権者から見放され、その後も漂流をつづけたあげく、維新の党と合流して民進党になったものの支持率は一向に回復しません。そうであれば、安倍政権の最適戦略が中道左派(リベラル)に向けてウイングを伸ばすことなのは明らかです。

これまで繰り返し述べてきたように、「同一労働同一賃金」は労働制度の話ではなく、労働者を「正規」「非正規」という身分で差別してはならないという人権問題です。ところが日本の「リベラル」勢力は、正社員の既得権を守るための組織である連合の支援を受けてきたため、この「身分差別」に見て見ぬ振りをつづけてきました。その偽善を、狡猾な安倍政権に利用されるのは必然だったのです。

しかしこれは、日本社会にとって悪い話ではありません。

日本経済にとっての最大の問題は、格差の拡大ではなく、国民のゆたかさを計る指標である一人あたりGDPが1990年代までのトップ5から22位(2014年)まで凋落してしまったことです。アジアでもシンガポール、香港の後塵を拝し、2020年には韓国に抜かれるという推計もあります。縮小するパイを無理に分配しようとすれば、社会の軋轢が強まるは当たり前です。

日本が貧しくなった理由は、労働者一人あたりの生産性がOECD34カ国中22位、先進7カ国のなかでは最下位(2013年)と際立って低いからです。日本人は自分たちを働き者だと思っていますが、その“稼ぎ”はアメリカの労働者の6割ちょっとしかないのです。

日本人を苦しめる長時間労働は、ゆたかさにはまったく結びつきません。その理由は日本の労働者が愚かでだらしがないからではなく、働き方の仕組みが間違っているからです。

安倍首相が目指すのは「日本を世界に誇れる国にする」ことだそうです。それならなおのこと、この恥ずかしい前近代的な「差別制度」を廃止して、すべての労働者が平等に働ける「差別のない明るい社会」を実現してほしいものです。

『週刊プレイボーイ』2016年4月11日発売号
禁・無断転載

PS 今回までのコラムをまとめた単行本を来月発売予定です。次回以降は、これまでとはすこしちがうテーマを扱おうと思っています。