「過労死自殺はなぜなくならない?」誰もいわない単純な理由 週刊プレイボーイ連載(265)

大手広告代理店に入社してわずか8カ月の女性社員がクリスマスの晩に投身自殺したことで、日本企業の長時間労働と過労死があらためて批判されています。この広告代理店では2013年にも30歳の男性が過労死(病死)しており、労働基準監督署からの度重なる是正勧告を無視していたことが「悪質」と見なされ、刑事事件も視野にいれて立ち入り調査が行なわれました。

報道によれば、女性社員はインターネット広告を担当する部署に配属され、クライアント企業の広告データの集計・分析、レポート作成などを担当していました。このネット広告部門は9月末に、レポートを改ざんして運用実績を虚偽報告したり、広告不掲出で過剰請求するなどの不正行為が発覚したばかりでした。その原因について会社側は、「現場へのプレッシャーも含めてマネジメントが配慮すべきだった」「複雑で高度な作業に対して恒常的に人手不足だった」と説明しています。

女性社員は自殺前、SNSに「休日返上で作った資料をボロくそに言われた もう体も心もズタズタだ」「いくら年功序列だ、役職についてるんだって言ってもさ、常識を外れたこと言ったらだめだよね」などと投稿しており、混乱する現場と稚拙なマネジメントの犠牲になったことは明らかです。

批判を受けて広告代理店は、本社ビルを夜10時に一斉消灯するなど深夜残業を抑制する措置をとりましたが、はたしてこんなことで問題が解決するでしょうか。

広告代理店はこれまで、テレビと新聞・雑誌を主な媒体として営業を行なってきました。それが2000年代に入って急速にインターネットにシフトしたため、従来のビジネスモデルを大きく転換しなくてはならなくなりました。

欧米企業はこのようなとき、まずはインターネット広告に精通した人材を外部(たとえばヤフーやグーグル)から引き抜き、プロジェクトチームのトップに据えます。チームのメンバーも、プログラミングやWEBデザインの経験がある若手をベンチャー企業などから集めるでしょう。まったく新しい分野なので、本社の社員は他部門との連絡役がいればいいだけです。

こうしたエキスパート集団なら、ネット広告のイロハも知らない新人が配属され、素人同然の上司に翻弄されて擦り切れていく、などという事態は考えられないでしょう。だったらなぜ、こんな簡単なことができないのでしょうか。

それはいうまでもなく、年功序列・終身雇用の日本企業では、プロジェクトの責任者を外部から招聘したり、中途入社のスタッフだけでチームをつくるようなことができないからです。そのため社内の乏しい人材プールから適任者を探そうとするのですが、そんな都合のいい話があるわけがなく、「不適材不適所」で混乱する現場を長時間労働のマンパワーでなんとか切り抜けようとし、パワハラとセクハラが蔓延することになるのです。

なぜ労基署は、この違法・脱法行為を是正できないのでしょうか。それは官公庁こそがベタな日本的雇用の総本山で、民間企業を強引に指導すると「だったらお前たちはどうなんだ」とヤブヘビになるからです。事件を批判するマスメディアも同じ穴のムジナで、無意味な説教を繰り返すだけです。こうしてどれほど犠牲者が出ても、長時間労働も過労死も一向になくならないのです。

『週刊プレイボーイ』2016年11月7日発売号
禁・無断転載

ヘビを差別しない「明るい社会」? 週刊プレイボーイ連載(264)

ヘビを気持ち悪いと恐れるのは生得的な感情です。猛毒を持つヘビに安易に近づいた個体が生命を落とし、警戒した個体が生き延びて子孫を残したことで、ヘビへの強い嫌悪感が「選択」されました。これが進化論の標準的な説明で、ヒトだけでなくチンパンジーの子どもも同じようにヘビを恐れることがわかっています。長大な進化の時間軸のなかで一部のヘビが毒を持つようになり、それに対して他の生き物が、長くてにょろにょろ動くものを嫌悪するようになることで対抗しました。私たちはこうした「共進化」の末裔なのです。

ところでここで、「イヌやネコをかわいがってヘビを嫌うのはヘビに対する差別だ」と主張するヘビ愛好家が現われたとしましょう。すべての生き物は生まれながらにして平等なのだから、長くてにょろにょろ動くというだけで、毒を持たない“善良な”ヘビまで嫌うのは「生き物権」の侵害だというのです。

「生き物権」を普遍的な自然権とするならば、ヒトを害さないヘビを不当に貶めてはならないとの主張はどこも間違ってはいません。ヘビの権利を擁護する活動家は、法によってヘビへの差別を禁じると同時に、教育によって差別感情を矯正するよう求めるでしょう。社会の多数派がこの「リベラル」な政治的立場を受け入れれば、小学校ですべての生徒に「ヘビを差別しない明るい社会」を目指す授業が行なわれるようになります。

しつけや教育によってヘビへの気持ち悪さがなくなるのなら、これでなんの問題もありません。しかし困ったことに、ヘビへの嫌悪感は遺伝子に埋め込まれたプログラムなので、どれほど教育されても気持ち悪い感じは消えません。ところがヘビの権利を擁護する社会ではその嫌悪感は口にしてはならないと抑圧され、さもなくば「差別主義者」のレッテルを貼られて社会的に葬り去られてしまうのです。

「ヘビ差別」をなくそうとする教育的努力は、必然的に個人の内面に介入します。子どもたちは「ヘビを差別することは道徳的に許されない」と教えられますが、ヘビを見ると気持ち悪さを抑えることができません。この矛盾を解消しようとすれば、自分を「不道徳」な存在として断罪するか、「ヘビを差別する自分は正しい」と開き直るか、どちらかしかありません。

誰も自分のことを嫌いになることはできませんから、自己批判はとても苦しい作業です。そこで自分を「不道徳」と断罪したひとは、やがてその感情を他者に投影し、あらゆる「差別」を血眼になって探し、相手を批判することで自身の「正義」を証明しようとするでしょう。「差別する自分は正しい」と開き直ったひとはそれを「偽善」と罵り、自己正当化に使えるありとあらゆる理屈(たとえば陰謀論)にしがみつくかもしれません。

この問題の本質はどこにあるのでしょう? それは現代社会の価値観と、進化の過程でつくられた(無意識の)感情が常に整合的であるとはかぎらないことです。解決困難な社会問題の多くはこの両者の衝突から生じますが、ひとびとの内面に道徳的に介入すること(善意による説教)はなんの解決にもならず、かえって事態を悪化させるだけです。

さて、この寓話はなんのことをいっているのでしょうか。それはみなさん一人ひとりが考えてみてください。

『週刊プレイボーイ』2016年10月31日発売号
禁・無断転載

依存症になるのは理由がある 週刊プレイボーイ連載(263)

ドーパミンはもっとも有名な脳内の神経伝達物質のひとつですが、その発見は偶然でした。

1953年にモントリオールの若い2人の科学者が恐怖反応を再現しようとラットの脳に電極を埋め込んだのですが、ラットは電気ショックを嫌がって逃げ回るどころか、もういちど同じ刺激を欲しているかのように、何度も電気ショックを受けた場所に戻ってしまいます。ラットにとって幸運(もしくは不幸)だったのは、科学者の実験スキルが未熟で、電極を間違って側座核と呼ばれる脳の古い部位に埋め込んでしまったことです。ここは現在では「報酬中枢」として知られており、刺激によってドーパミンが放出されると、ラットは同じ刺激を何度も欲するようになるのです。

その後の実験で、ドーパミンの「快感」がとてつもなく強烈なことが明らかになります。ラットが自分でレバーを押して側座核を刺激できるようにすると、食べることも、水を飲むこともせず、交尾をする機会にも興味を示さずに、1時間(3600秒)に2000回近くもひたすらレバーを押しつづけました。また電流を流した網の両端にレバーを設置し、それぞれのレバーで交互に刺激が得られるようにすると、ラットたちはひるむことなく電流の通った網の上を行き来し、足が火傷で真っ黒になって動けなくなるまでやめようとしなかったのです。

こうした結果を見て1960年代に、同じことを人間の脳で実験しようとする研究者が現われました。現在の人権感覚では考えられませんが、当時は、重度の精神病患者の前頭葉を切断して廃人同然にするロボトミー手術が世界じゅうの病院で当たり前のように行なわれていたのです。

実験対象となったのは長年にわたりひどい抑うつに苦しむ若い男性でしたが、側座核に電流が流れたとたん、「気持ちがよくて、暖かい感じ」がし、自慰や性交をしたいという欲望を感じました。そしてラットと同様に、3時間のセッションで1500回以上も電極のスイッチを押したのです。

研究者たちはドーパミンが抑うつの治療に使えるのではないかと期待しましたが、すぐに不都合な事実が明らかになります。憂うつな気分を晴らす効果は一時的で、すぐに消えてしまうのです。

ドーパミンが生じさせるのは快感ではなく、きわめて強い「快感の予感」でした。即座核を刺激すると、被験者は「頻繁に、ときには気が狂ったように」ボタンを押しますが、そのときの気分を尋ねると、「もうすこしで満足感が得られそうで得られず、焦るばかりですこしも楽しくなかった」とこたえるのです。

報酬中枢の役割は、「あらゆるリスクを冒しても欲しいものを即座に手に入れたい」と思わせることにあります。ヒトが進化の大半をすごした旧石器時代には、食べ物を獲得したり性交をする機会はきわめてまれだったので、生き延びて子孫を残すには強い衝動で死に物狂いにさせる必要があったのです。

ところがゆたかな時代になると、私たちは食べ物、セックス、買い物からゲームまで、ありとあらゆる「報酬の機会」に囲まれて暮らすようになりました。これがさまざまな依存症を引き起こし、人生を困難なものにする理由になっているのです。

参考:エレーヌ ・フォックス『脳科学は人格を変えられるか?』

『週刊プレイボーイ』2016年10月24日発売号
禁・無断転載