「いじめ防止対策」すればいじめが増える? 週刊プレイボーイ連載(270)

いじめがあいかわらず、大きな社会問題になっています。最近も文科省の有識者会議が、「自殺予防、いじめへの対応を最優先の事項に位置付ける」との提言をまとめ、「いじめを小さな段階で幅広く把握するため」いじめの認知件数が少ない都道府県への指導を求めました。

いじめ防止対策推進法は子どもが「心身の苦痛を感じているもの」すべてをいじめと定義するのですが、報道によれば、2014年調査で最多の京都府と最少の佐賀県のあいだに約30倍の開きがあったのだそうです。これは「佐賀県はいじめが少ない」ということではなく、「教師が真剣にいじめと向き合っていない」ということのようです。

しかしそうすると、次のような疑問が湧いてきます。

いじめ認知件数最多の京都府は、小さな段階でいじめの芽がつみとられるのですから、子どもたちはいじめのない学校生活をのびのびと送っているはずです。それに対して佐賀県では、教師と学校の怠慢によって弱肉強食の文化が学校に蔓延し、いじめ自殺が相次いでいることになります。しかし不思議なことに、そんな話は聞いたことがありません。だったらこの政策提言にエビデンス(証拠)はあるのでしょうか。

いじめ対策への違和感は、それが「教師がきびしく指導すれば、子どもは素直に従うはずだ」という貧しい人間観にもとづいていることです。そういう自分は、子ども時代に、なんでも大人にいわれたとおりにしていたのでしょうか。――そんな魂の抜けたようなよい子が“有識者”になるのかもしれませんが。

しかし誰もが知っているように、人間はもっと複雑です。

禁煙を促すために、タバコのパッケージに健康への害を明示することが各国で義務づけられています。これはどこから見てもよい政策に思えますが、心理学の研究者から不都合なデータが出てきました。喫煙者をさらに減らそうと腫瘍や遺体などどぎつい画像をパッケージに載せたところ、逆に喫煙者が増えてしまったというのです。

なぜこんな奇妙なことが起きるのでしょうか。それは次のように説明できます。

喫煙者がタバコを吸いたくなるのは、ストレスを感じたときです。そのため彼らは、強い禁煙メッセージ(このままだと肺がんで死ぬことになる)を受け取ると、その不安を打ち消すためにますますタバコを吸いたくなってしまうのです。

「よいことが悪い結果をもたらす」という不都合な事例は、ほかにいくつも見つかっています。たとえば健康増進のため、マクドナルドがヘルシーなサラダをメニューに加えたところ(健康に悪い)ビッグマックの売上が驚異的に伸びました。

消費者は、サラダを注文したことでビッグマックの高カロリーが帳消しになると誤解しただけではありません。メニューにヘルシーなサラダがあると知っただけでも、目標を達成したような満足感を覚え、いそいそとビッグマックを注文したのです。

だとすれば、文科省のいじめ調査も逆効果になる可能性があります。

「対策」の結果で、学校でものすごい数のいじめが行なわれていることが判明したとしましょう。するとそれを見た子どもは、みんながやっているのだから、自分もいじめていいと思うかもしれないのです。

『週刊プレイボーイ』2016年12月12日発売号
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「優先席論争」のシンプルで正しい考え方 週刊プレイボーイ連載(269) 

電車内の優先席をめぐるお年寄りと若者の口論が動画サイトに投稿され、議論沸騰の騒ぎになりました。

動画では、お年寄りが「代わってくれって言ってるんだよ。席を」と優先席を譲るよう求めたのに対し、その言い方に気分を害したらしい若者が「悪いけどそういう人に譲りたくないわ…残念だったな」と拒否し、「なに。そこ優先席だってわかんないんだ」「わかんないですね」で会話が終わっています。

なんとも不快なやりとりですが、この動画の投稿主は「私は優先席を譲りません!!なぜなら先日、今にも死にそうな老人に席を譲ろうとしてどうぞと言ったら『私はまだ若い』などと言われ、親切な行為をした私がバカを見たからです」と動機を説明しています。

これについてネット上ではさまざまな意見が交わされましたが、優先席を「高齢者などに優先的に席に座る権利を付与したもの」と定義するなら、どちらが正しくどちらが間違っているかはクリアに説明できます。

まず、動画に登場したお年寄りは優先席に座る権利を持っており、その権利を行使したわけですから、若者はたとえ相手の口のききかたが不愉快でも席を譲る義務があります。なぜなら、権利と義務は一体のものだからです。

その一方で、権利を持つひとはそれを放棄することもできます。「今にも死にそうな老人」に席を譲ろうとしたのに断られたとしたら、その老人は自らの意思で権利を放棄したのですから、善意を裏切られたなどと傷つく必要はなく、そのまま座りつづければいいのです。

このように「権利」には、それを持つひとが行使するのも放棄するのも自由、という性格があります。いったん権利を行使すれば、相手にはそれに従う義務が生じます。しかし権利を放棄するのも自由なのですから、その場合はなんの義務もないのは当然です。

私の経験では、アメリカの電車で障がい者用の席に座っていて、車椅子のひとが乗ってきたので席を立つと、礼もいわず当然のように車椅子をそこに固定します(ちょっと偏屈な感じのひとでしたが)。若者が高齢者に席を譲ろうとして断られると、「オーケー」といってそのまま座りつづけます。日本のようにお互いに席を譲り合う光景も見られますが、これでなんの違和感もなく、お互いになんとも思いません。

それに対して日本では、権利を行使する際に義務を負うひとの了解をとらなければならない(すくなくとも感情を害してはならない)とか、こちらが義務を果たそうと申し出ているのに一方的に権利を放棄するのは失礼だとか、きわめて特殊な約束事があるようです。

それを日本人の美質だとか、おもてなしだとかいうのかもしれません。欧米のように、権利と義務の関係を明確に定めるのを「冷たい社会」だと感じるひともいるでしょう。しかし、これだけは知っておく必要があります。

「権利(義務)とは何か」をちゃんと理解せずに、いたずらに権利ばかりを付与すれば、電車のなかで起きたような不快な出来事があちこちで頻発することは間違いありません。あなたはそんな社会を望みますか?

『週刊プレイボーイ』2016年12月5日発売号
禁・無断転載

給付型奨学金がうさんくさいのには理由がある 週刊プレイボーイ連載(268) 

この国ではときどき理解できない出来事と遭遇します。そのひとつが、自民党が導入を目指している給付型奨学金です。

教育関係者は、「高収入の家庭の子弟しか有名大学に入学できない」という統計を好んで取り上げ、経済格差を解消するには貧しい家庭を経済的に支援すべきだと主張します。これは「国が教育費を援助せよ」ということですが、そのお金(税金)が学校すなわち教育関係者に支払われることは決して口にしません。私はこれを欺瞞だと思いますが、ここではその話はおいておきましょう。

その一方で、「日本学生支援機構」(旧日本育英会)の貸与型奨学金では延滞が問題になっており、14年度末で延滞者約17万3000人(全体の4.6%)、延滞額の総額は898億円にのぼります。延滞者の約8割が年収300万円未満だったことから、奨学金の返済負担が貧困を助長しているとして、返済の必要ない給付型奨学金の導入を一部の議員が強く求めたのです。報道によれば自民党は、「原則として高校時の成績が5段階評価で平均4以上」であることを条件に、月額3万円を給付する案を提示しており、対象者は7万5000人程度で年300億円ちかくの財源が必要になるとのことです。

さて、この話のどこがおかしいでしょう。

議論の前提として、日本は学歴社会で、よい大学を卒業して大手企業の正社員にならなければゆたかな生活を送れない、との共通認識があります。日本型雇用の崩壊が騒がれる現在、こうした古い常識がどこまで有効かはともかく、学歴がその後の人生に大きな影響を与えるのはたしかでしょう。

しかしそうすると、高校時代によい成績をとった生徒はよい大学に入り、社会人になって高い給与を得るのですから、その生徒に給付型奨学金を与えることは経済格差をさらに広げることにしかなりません。そもそも政策導入の理由が、貸与型奨学金を返済できずに苦しむ貧困な若者の救済なのですから、制度設計の前にまず彼らの高校時代の成績を調査すべきでしょう。

もうおわかりのように、ここにも度し難い欺瞞があります。要するに、バカな生徒に税金を使うと世論の反発が面倒だから、賢い生徒に給付して見てくれをよくし、“弱者”のためにいいことをしているとアピールしたいのです。日ごろから経済格差を批判している教育関係者も、経済格差を拡大するこの案にまったく反対しません。その理由も明らかで、自分たちの財布にお金が入ってくれば建前などどうでもいいのです。ここまで欺瞞が積み重なると、ほんとうに吐き気がしてきます。

ではどうすればいいのでしょうか?

日本の貧困でもっとも深刻なのが母子家庭であることは多くの調査で指摘されています。日本では生活保護への忌避感が強く、子どもがいじめられることを懸念して母子家庭が受給申請をためらっているのです。

だとすれば、給付型奨学金は取りやめて、その財源を母子家庭に現金給付すればいいでしょう。これなら確実に経済格差の解消に寄与しますが、自分の懐が潤わないこの案を教育関係者が支持することはけっしてないでしょう。

『週刊プレイボーイ』2016年11月28日発売号
禁・無断転載