『ダブルマリッジThe Double Marriage』事件のはじまり

新刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』から、第1章「見知らぬ名前」の冒頭部分をアップします。ここから事件が始まります。

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「なに、それ?」

電話口で、母の里美が素っ頓狂な声をあげた。

「そんなのわかんないよ」

マリは片手に書類を持って、口をとがらせた。

「窓口のひとに訊いたんだけど、“この記載事項で間違いありません”だって。あとは“ご本人でなければおこたえできません”って、それだけ」

平日午後の北関東のT市役所は閑散としていて、市民課には引越しの住民登録や年金・健康保険の手続きに来たひとが何人か、呼び出されるのを待っているだけだった。そんな田舎臭い雰囲気のなかで、マリは明らかに異物だった。

大胆に肩を開けたワインレッドのカットソー、すらりと伸びた足を強調したミニのショートパンツとヒールの高いパンプス、ケイト・スペードのショルダーバッグ。ファッション雑誌のグラビアから抜け出してきたようだ。

電話を切ると、マリはLINEで、ドクロの額に「最低」と書かれたスタンプをモデル仲間のグループに送った。さっそくサキから、「なに?」という質問のスタンプ。「チョー最悪。あとで」と書いているうちに、ケイコから「時間厳守。遅刻はなしね」の確認が送られてきた。ケイコは大学の先輩で、ファッション雑誌の編集者に気に入られて読者モデルのとりまとめを任されている。「了解です!」と返信して、マリは小さくため息をついた。

「ぜんぶパパのせいじゃん。いったいどうなってるの?」

父・憲一のパスポートの有効期限が切れていることがわかって大騒ぎになったのは昨日のことだった。急な海外出張が決まったのに、パスポートの更新を忘れていたのだ。

調べてみると、今日じゅうにパスポート申請すれば、出発までになんとか間に合いそうだ。しかしパスポートの期限が切れていると、運転免許証のほかに戸籍謄本が必要で、本籍地の役所まで取りにいかなくてはならない。戸籍謄本もパスポートも委任状があれば代理申請できることがわかったが、里美はマリの高校時代のママ友と「大切な会合」があるとかで、「ヒマなんだからあんたがやりなさいよ」と押しつけられたのだ。

マリは、「戸籍全部事項証明書」と書かれた書類をあらためて眺めた。

最初に本籍地と父・桂木憲一の名が書かれている。生年月日は昭和四十一年五月七日。先週の土曜日が五十歳の誕生日で、マリは奮発してバーバリーのレザーベルトをプレゼントした。ちょっと苦手な埼玉のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの名前があって、その次が婚姻欄でママの旧姓の高峯里美、生年月日は昭和四十二年十一月十六日、婚姻日は平成七年十一月四日。それから大好きな目黒のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの名前が来て、その下に大嫌いな「長女・茉莉愛(まりあ)」の名前。マリが生まれたのは平成八年九月三十日だ。

でも不思議なことに、そこにはもうひとり見知らぬ人物の名前があった。

婚姻の欄に、「高峯里美」と並んで「ロペス・マリア」。婚姻日は平成二年十二月二十五日で、フィリピン国籍の注記。「なんなんだろう、これ?」

マリは戸籍を写メで撮ると、母の里美にメールで送った。

文藝春秋刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』 禁・無断転載

小説『ダブルマリッジ The Double Marriage』発売のお知らせ

文藝春秋より小説『ダブルマリッジ The Double Marriage』が発売されます。

発売日は24日(月)ですが、都内の大手書店では明日から店頭に並ぶ予定です。

Amazonでも予約が始まりました。電子書籍も同日発売で予約可能です。

「ダブルマリッジ」は文字どおり「重婚」のことです。日本ではもちろん重婚は違法で、戸籍制度では複数の配偶者を持つことはありえないはずですが、実際には「合法的」に複数の妻が戸籍に記載されることがあり得るし、そのようなことが現実に起きています。これは架空の物語ですが、戸籍に関する記述はすべて事実に基づいています。

帯のコピーです↓

「知らぬ間に、妻とは別の女が戸籍に入っていた!

なぜ重婚が認められているのか? これは戸籍の乗っ取りか?」

戸籍に2人の妻と、母親の異なる2人の子どもが記載されたことで、エリートサラリーマンの幸福な家庭が崩壊していきます。なぜこんなことが起きるのかは、徐々に明らかになっていきます。

今回の舞台は、日本(東京、名古屋、福島)とフィリピンです。主人公の女子大生マリと、父親の憲一がフィリピンを訪れますが、その場面をPHOTOツアーで追体験できるようにしました(スマホにも対応しています)。

「ダブルマリッジ」PHOTOツアー

小説の世界をお楽しみください。

橘 玲

 

 

 

AIがもたらすやっかいな未来 週刊プレイボーイ連載(272)

2016年に国際社会を揺るがした最大の事件は、イギリスのEU離脱を決めた6月の国民投票だと思っていたら、11月のアメリカ大統領選でそれを上回る衝撃が起きました。もうひとつの驚きはAI(人工知能)で、ディープラーニングによってコンピュータがチェスだけでなく、より複雑な将棋や囲碁でプロを圧倒する時代がやってきました。

じつはこのふたつの出来事は、「知識社会化」という同じコインの裏表です。

『ワイアード』創刊編集長のケヴィン・ケリーは、人間がテクロジーを開発しているのではなく、テクノロジーが人間を利用して自ら進化しているのだという「テクニウム(テクノロジー生態系)」を唱えました。テクノロジーはまるで生物のように、さまざまな知を吸収して未知の領域へと自己組織化していくのです。

社会が高度に知識化すれば、それに適応するにはより高い知能・技能が求められます。――パソコンを使いこなせないと事務の仕事すらできない、というように。仕事に必要とされる知能のハードルが上がれば、必然的に多くの労働者が仕事を失うことになるでしょう。これが「格差社会」とか「中流の崩壊」と呼ばれる現象です。

しかし失業したブルーワーカーは、なぜ自分が虐げられるのかがわかりません。その怒りを動員するのがポピュリストの政治家で、今年はフランスやイタリア、ドイツなどでも同じ光景を見ることになるでしょう。なぜなら、知能の格差が経済格差を生み、社会を混乱させるのは、(新興国との競争にさらされる所得の高い)先進国に共通の問題だからです。

AIがその驚くべき能力を示しはじめたとき、多くのひとが、人間がロボットに支配されるSF的なディストピアを予感しました。しかしその後、すこし冷静になると、AIは人間に取って代わるものではなく、人間の知能を拡張するツールだといわれるようになりました。脳(身体)とコンピュータは仕組みが本質的に異なっているので、AIがどれほど学習しても、人間のような認知能力や共感能力を持つことはできないからです。

しかしこの事実も、あまり明るい未来は見せてはくれません。

AIが知的能力を大きく引き上げるとしても、それはすべてのひとに平等に恩恵を与えるわけではありません。そこからもっとも大きな利益を得るのが、高度で複雑なテクノロジーを効果的に使いこなす、知的能力の高いひとであることは間違いないからです。同様のことはビッグデータ(統計解析)などの分析手法や、ビットコイン(ブロックチェーン)、3Dプリンタ、VR(ヴァーチャル・リアリティ)のような新しい技術にもいえるでしょう。

このようにしてテクノロジーの「進化」がますます知能の格差を広げ、それによって富は局在化し、経済格差が深刻になり、社会は分断されていきます。これは知識社会化がもたらす必然ですから、人類がこの運命を避けることは(おそらく)できないでしょう。

だとすれば、私たちはどうすればいいのでしょうか。

そのこたえを私は持ち合わせませんが、ひとつだけ確かなことがあります。それは、「経済格差は知能の格差」という現実から目を背けるなら、私たちはグロテスクな「陰謀論」の世界に落ちていく以外の未来はない、ということです。

参考:ケヴィン・ケリー『テクニウム――テクノロジーはどこへ向かうのか?』

『週刊プレイボーイ』2017年1月5日発売号 禁・無断転載