ヨハネスブルグは”未来社会” 週刊プレイボーイ連載(179)

昨年末に南アフリカのヨハネスブルグを訪れました。ここは「世界一危険な都市」として知られていますが、実際には一般の旅行者がトラブルに巻き込まれることはほとんどありません。これは治安がよくなったからではなく、(黒人以外の)旅行者が行動できる範囲がきわめて限定されているためです。

ヨハネスブルグで宿泊できるホテルは、実質的にはサントンとローズバンクという郊外の高級住宅地にしかありません。空港で客待ちしているタクシーも危険とされているので、あらかじめ送迎を手配しておきます。東京に例えるなら、羽田空港に着いたら迎えの車で田園調布か自由が丘に行き、都心にはいっさい近づけないという異常な状況です。

高級住宅地には六本木ヒルズのような大型商業施設があり、民間警備会社のセキュリティガードが頻繁に巡回していてきわめて安全です。その周辺も昼間はふつうに歩けますが、夜になると人通りはもちろん車もほとんど走らなくなります。

都心(ダウンタウン)に行くときは市内観光ツアーに参加します。観光といっても街を歩くのは駐車場から大通りを10メートルほどで、ショッピングセンター内のエレベータで展望フロアに上がり、ヨハネスブルグの地理を説明してもらって終わりです。あとは車の中から街の様子を眺めるだけで、これでは野生動物を観察するサファリと同じです。

ヨハネスブルグは南アフリカのビジネスの中心地で大学もあり、現地のガイドブックで「ぜったいに立ち入ってはならない」と書かれているいくつかの地区を除けば、通りを行き交うひとのほとんどは一般市民です。ただし白人はもちろんアジア系の姿もまったく見ないので、ガイドをつけずに歩けばものすごく目立つことは間違いなく、安全かどうか試してみる気にはまったくなれません。

南アフリカはアパルトヘイトという人種差別政策を長く続けてきましたが、現在はすべての人種は平等です。高級住宅地に住む黒人富裕層も多く、そこだけを見れば人種差別は過去の歴史です。ただしこの国の問題は、成功した黒人に対して貧しい黒人が圧倒的に多いことにあります。

タウンシップはアパルトヘイト時代の有色人種居住区で、いまでも廃材とトタンでできた家に暮らすひとたちがたくさんいます。それに加えて国家破産した隣国のジンバブエなどから大量の不法移民が流れ込み、都心の近くにスラム街をつくったり、ホームレスとしてその日暮らしをしています。その結果ヨハネスブルグは、「1%金持ちと99%の極貧層」という究極の格差社会になってしまったのです。

このような社会で暮らすのはどんな感じなのでしょうか。案に相違して、ひとびとはみんな活き活きとしています。怒ったり悲しんだりしていても仕方ないからでしょう。

南アフリカは「小さな政府」のネオリベ国家でもあります。あまりにも貧富の差が拡大してしまったので、いまさら社会福祉を充実させようがないからです。

このようにして、高圧電流の流れる高い塀、監視カメラ、「侵入者は銃撃する」という警告板が街に溢れた“未来社会”が生まれたのです。

『週刊プレイボーイ』2015年1月19日発売号
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タウンシップの貧困地域に並ぶトタンの家(Soweto@Johannesburg)
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高級住宅街の高い壁と高圧電線(Rosebank@Hohannesburg)

 

「オッカムの剃刀」と不愉快な世界 週刊プレイボーイ連載(178)

「オッカムの剃刀」は14世紀の哲学者・神学者オッカムが用いた哲学の論法で、「より複雑な説明と、より簡潔な説明があった場合、後者を採用すべきだ」というものです。「単純な説明が常に真実である」ということではなく、経験的に、「単純な論理の方が正しいことが多い」といっているのです。

具体的な例を挙げてみましょう。

東日本大震災の前後で日本人の幸福度を測ると、震災後に「自分は幸福だ」と感じるひとが増えていることがわかりました。ある学者はこの結果を、「大きな災害によって日本じゅうが“絆”を意識したからだ」と解釈しました。共同体への帰属意識は幸福感を高めますから、それなりに説得力のある主張です。

しかしこのデータは、ずっとシンプルな仮説でも説明できます。

「幸福」と「不幸」に絶対的な基準があるわけではなく、感情はあくまでも相対的なものです。各国の最貧困層を比較すると、インドのスラムに暮らすひとたちはニューヨークのホームレスよりはるかに幸福感が高いことが知られています。これにはさまざまな要因があるでしょうが、いちばんの理由は「インドにはものすごくたくさんの貧しいひとたちがいる」からです。

みんなが貧しければ、自分が貧乏でもたいして気にはなりません。それに対してニューヨークの摩天楼をさまよい歩くホームレスは、きらびやかな世界や成功したひとたちを日常的に目にすることで、どんどん「不幸」になっていきます。

そう考えれば、大震災後に幸福な日本人が増えた理由もわかります。テレビには毎日、津波によって家族を亡くし、家や仕事などすべての資産を失った膨大な数の被災者が映し出されました。難を免れたひとたちは、世の中には自分よりはるかに不幸なひとがたくさんいるという単純な事実に気づきました。「日々の生活は厳しいけど、あのひとたちに比べればマシだ」という感情が多くの日本人の幸福感を高めたのです。

それではなぜ、より複雑な“絆”説が唱えられるのでしょうか。それは、オッカムの剃刀にかなった単純な説明が心理的に不愉快だからです。「募金や被災地のボランティア活動で幸福感が高まった」という話の方が心理的な負荷がずっと小さく、読者や聴衆から文句をいわれる恐れもありません。このためおうおうにして、科学的な検証を無視して心地よい説明に飛びついてしまうのです。

もちろんこれは、“絆”説が間違っているということではありません。「より単純な仮説が提示できる以上、それを反証する義務を負うのは複雑な説明をする側だ」というだけのことです。

現代社会では、暗黙のうちに「政治的に正しい」説明が強要されています。これは「関係者の誰をも傷つけることのない、万人にとって心地いい説明」のことです。

オッカムの剃刀は、「政治的な正しさ」の背後にしばしばより単純で不快な論理が隠されていることを示します。しかしほとんどのひとは、「この世界が醜く残酷だ」という現実を受け入れることができません。そのため世論を気にする政治家や官僚は間違った前提で政策をつくり、より悲惨な状況を招いてしまいます――現代社会の混迷とは、つまりはこういうことなのです。

『週刊プレイボーイ』2015年1月5日発売号
禁・無断転載

第47回 40年ぶり超円安の行く先 (橘玲の世界は損得勘定)

日銀の追加金融緩和や原油価格の下落を材料に円が売られ、7年4カ月ぶりに1ドル=120円台の円安になった。この為替の変動を「アベノミスクの成果」と誇る声もあれば、「輸入品の価格が上がって生活が苦しくなった」との批判もある。

こんなときいつも不満に思うのは、「円安(円高)とはなにか」という基本的な説明が欠けていることだ。そう思っていたら、12月7日付の日経新聞朝刊に「円の『実力』40年で最低」という記事が掲載された。実質実効レート(円の「実力」)でみれば、いまの円安水準は1973年当時の1ドル=300円台に相当するのだという。

本来であれば、「7年4カ月」よりもこちらの「40年」の方が強調されなくてはならない。通貨の価値はインフレ率によって変わるから、名目レートを比較してもたいした意味はない。

世界市場が統合された現在、本来なら通貨もひとつ(「グローブ」とか)で充分なのだが、近代世界では通貨発行権は国家の主権(神から与えられた権利)とされているので、(ユーロのような共通通貨を除けば)国の数だけ通貨があるというやっかいなことになっている。これでは貿易などの国際取引に支障が出るので、為替市場で通貨ごとの交換比率を日々決めている。

このように考えると、「通貨の価値は物価で決まる」ことがわかる。同じiPhoneが日本で3万円、アメリカで4万円相当で売られていたら、日本で買ってアメリカで売ることで無リスクで儲けようとする投機家が殺到する。こうした裁定取引によって、不合理な交換比率が調整されるのだ。

この調整には原理的にふたつの方法しかない――通貨が高くなるか(円高)、商品自体の価格が上がるか(インフレ)だ。ここから、「デフレで物価が下落すると円高になる」という単純な法則が導き出せる。これを「購買力平価説」というが、実証研究でも長期的には成立することがわかっている。

インフレになれば金利は上がるから、為替と金利の関係も同様に考えることができる。

「低金利の通貨が売られ、高金利の通貨が買われる」のは当たり前のようだが、よく考えるとおかしい。通貨を売買するには反対取引の相手が必要だ。彼らはなぜ、「高金利の通貨を売って低金利の通貨を買う」というバカなことをするのだろうか。

市場参加者が非合理的でないとするなら、説明はひとつしかない。それは購買力平価説によって、金利の低い通貨は長期的には上昇すると予想しているからだ。これは、「デフレ(低金利)で通貨が上昇する」のと同じ理屈で、日本が超低金利になってから円高基調が続いたことも説明できる。

だとしたら、「40年ぶりの」超円安は何を意味しているのだろうか。その答えはもうおわかりだろう。
市場の歪みは、円高かインフレ(金利上昇)のいずれかによって解消されるしかない。「市場原理」がどちらの側に振れるかを知るには、それほど長い時間は必要ないはずだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.47:『日経ヴェリタス』2014年12月28日号掲載
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