『ダブルマリッジThe Double Marriage』戸籍に記載された2人の妻

新刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』で、戸籍の婚姻欄にロペス・マリアというフィリピン人女性の名が記載されていることを知った桂木憲一は、戸籍を管理する市役所に事情を聞きにいき、市民課戸籍係の山下という課長補佐から説明を受けます。戸籍制度の完備した日本でなぜ重婚が起きるのか、第1章「見知らぬ名前」からその部分をアップします。

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翌朝、憲一がT市役所に着いたのは午前八時過ぎだった。開庁時間の八時半まで待って市民課に行き、戸籍について不審な点があると話すと、しばらくして分厚い法律書を小脇に抱えた四十代とおぼしきやせた男が現われた。「課長補佐の山下です」と挨拶し、廊下の端にある小さな部屋に憲一を案内する。窓はなく、机にパイプ椅子が三脚置いてあるだけだ。

「お問い合わせの件を調べてみたんですが……」山下はテーブルの上に憲一の戸籍謄本を置いた。「このロペス・マリアさんという方にお心当たりはないんですか?」

「まったくありません。なぜこんなことになったのか、当惑するばかりです」憲一はこたえた。

「平成二年だから一九九〇年ですか、その十二月二十五日にロペスさんと婚姻されたことになっていますが……」山下が戸籍謄本の婚姻欄を指差した。

「そんな女性は知らないんだから、結婚なんかしてるわけないでしょ」

「そうですか」山下はちょっとかなしそうな顔をした。「ロペスさんからは、桂木さんとの婚姻を証明する書類が提出されているんですけど」

「書類?」

「ええ。フィリピン政府が発行した婚姻証明書です。そこにはKENICHI KATSURAGIという男性の名前とサインが添えられています……」

しばらく絶句したあと、憲一は怒気を含んだ声でいった。

「そんな大昔の外国の書類が日本で通用するわけないでしょう。だいたい二十年以上もたってるんですよ」

「国際私法というのをご存知ですか?」憲一が落ち着くのを待って、山下は抱えてきた分厚い法律書をめくった。「以前は『法令』、現在は『法の適用に関する通則法』といって、日本と外国にまたがる民事上の手続きを定めているんですが、その第二四条第二項に、「婚姻の方式は、婚姻挙行地の法による」と記載されています。日本人がマニラで結婚式をあげたとすると、婚姻の挙行地はフィリピンになりますから、フィリピン政府が発行した正式な証明書で日本でも婚姻の事実が認められるんです」

山下の話を聞きながら、憲一は額に汗がにじむを感じていた。

「婚姻が平成二年ですからたしかに二五年過ぎていますが、戸籍法第四六条に「届出期間が経過した後の届出であつても、市町村長は、これを受理しなければならない」とありますから、婚姻届は、その事実があればいつでも提出できるんです。今回の件では、桂木さんが届出を怠っているとして、ロペスさんから戸籍を修正するよう申立があったということです」山下はもういちど戸籍謄本を確認した。「届出日が平成二十二年十月になってますから、五、六年前ですね」

「もしそうだとしても、本人になんの断りもなく勝手に戸籍を書き換えるなんてあんまりじゃないですか」最初のショックが収まると、山下の小役人然とした態度に腹が立ってきた。

「平成二十二年の夏ごろに催告通知をお送りしているはずなんですが、お受け取りになっていませんか」

「平成二十二年……」憲一は西暦に換算した。「二〇一〇年なら、ちょうど海外にいましたが」

二〇〇九年から三年間、ロンドンに赴任することになったのだが、マリが中高一貫校に合格したため、憲一が単身赴任して、里美の目黒の実家からマリを学校に通わせることにした。その間、いまの家は定期借家で賃貸に出していたのだ。

「海外転出届は出されましたか?」

「ええ。ただ赴任先の住居が決まらなかったので、住所欄には国名と都市名だけを記載したと記憶していますが」

「ああ、それで催告通知が送れなかったんですね」なるほど、というように山下はうなずいた。

「“送れなかった”じゃないでしょう。こっちはそのせいで、ものすごく迷惑してるんですよ」しょせん他人事(ひとごと)という無責任な態度に、憲一はますます怒りがこみ上げてきた。「ちょっと調べれば、私が海外にいることや、妻の実家の連絡先だってわかったはずです」

「こういういいかたはお気にさわるかもしれませんが……」憲一の怒りに気おされたのか、山下は心底申し訳なさそうな顔をした。「戸籍法四一条に「外国に在る日本人が、その国の方式に従つて、届出事件に関する証書を作らせたときは、三箇月以内にその国に駐在する日本の大使、公使又は領事にその証書の謄本を提出しなければならない」とありますから、届出をするのは義務なんです。その義務を怠っておられるから、私どもから、ご自身で届出されるよう催告通知をお送りするんですが、これはなんというか、たんなる親切というかおせっかいで、行政上は通知できなくてもかまわないんです。いずれにせよ、お返事がない場合は職権で処理するわけですから」

「職権? 本人の同意がなくても、ですか」憲一は思わず声を張り上げた。「その婚姻証明が本物だと、どうしてわかるんですか?」

「もちろん私どもでは、英文の書類が真正なものかどうかは確認できません」山下はさらに、申し訳ない顔をした。「そこでご本人に連絡がとれないと、申請書類を県の法務局に差し戻すことになるんです。そこで書類を精査したうえで間違いがないとなると、市役所に戸籍を修正するよう指示があります。桂木さんの場合も決定は法務局の戸籍課で行なわれていますから、婚姻の事実が存在しないと主張されるのであれば法務局に行っていただかないと……。ロペスさんから提出された婚姻証明書もそこで保管しているはずです」

憲一は呆然とした顔で肩を落とした。山下の繰り出す法律論を正確に理解することはできなかったが、これ以上反論しても意味がないことは明らかだった。役所は規則にのっとって事務的に手続きしただけで、その保身の論理は完璧なのだ。

「いったいなんでこんなことに……」思わずそう漏らした。

「それはなんとも、私どもではわかりかねます」そう突き放す山下の言葉には、しかし同情がこもっていた。

「この戸籍だと、妻が二人いることになるんですが、それはどうなるんですか?」憲一はその態度に促されるように、訊いた。

「どうなる、というと?」山下は、質問の意味がわからないようだった。

「これだと重婚じゃないですか」

そう問い直されて、山下はようやく得心した表情になった。

「刑法には重婚罪がありますが、民法では「配偶者のある者は、重ねて婚姻をすることができない」として、当事者がその取消しを請求できると定めているだけですから、請求がなければそのままです」

「そのまま?」こんどは憲一が驚いて訊き返す番だった。「国が重婚を認めている、ということですか」

「そうではなくて、法律上、当事者からの請求がないかぎり、行政が重婚を解消する手続きは定められていない、ということです」

「そうすると、このままでもべつにかまわないんですか?」

「かまわない、といわれると語弊がありますが……」山下は困った顔をした。「行政として、桂木さんになにかをせよ、ということはありません」

迷宮のような法律論に憲一は混乱したままだったが、行政罰が科されるような事態でないことだけは理解できた。

「こういうケースはほかにもあるんでしょうか?」と訊いてみた。

「ええ、二、三年に一件は」山下はひとのよさそうな笑みを浮かべた。「でも、催告通知を送っても現われるひとはいません。私が知るかぎりでは、話を聞きにここに来たのは桂木さんがはじめてです。どのようなご事情かは存じ上げませんが、それだけでも桂木さんは立派だと思います」

文藝春秋刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』 禁・無断転載

きれいごとがうさんくさいのには理由がある 週刊プレイボーイ連載(273)

次の2つの質問に「まったく反対」「やや反対」「やや賛成」「まったく賛成」のいずれかで答えてください。

  1. ほとんどの女性はほんとうに頭がよいとはいえない。
  2. ほとんどの女性は外で仕事をするよりも家で子どもの世話をするほうが向いている。

どちらも明らかに女性差別的な主張ですから、良識あるひとは躊躇なく「まったく反対」とこたえるでしょう。

では、次の2つの意見はどうでしょうか。

  1. なかにはほんとうに頭がよいとはいえない女性もいる。
  2. なかには外で仕事をするよりも家で子どもの世話をするほうが向いている女性もいる。

こんどは良識あるひとでも判断に迷うのではないでしょうか。「まったく反対」としてしまうと、「すべての女性は頭がよく、家で子どもの世話をするには向いていない」ということになってしまうからです。いくらなんでもこれはおかしいので、「やや反対」「やや賛成」などを選ぶことになるでしょう。

じつはこれは心理学の実験で、アンケートの目的は、被験者を「女性差別に明確に反対する」か、「差別的かもしれない主張に中立的な立場をとる」かに誘導することでした。そのうえで被験者は、建設や金融など男性上位とされる企業の人事担当者になって、男女数名の採用候補者の適性を判断します。

ひとには意見や主張を一貫させたいという傾向がありますから、研究者は、アンケートで「女性差別に反対」と誘導された被験者は女性の採用候補者に寛大になると予想しました。ところが実際には、女性差別に明確に反対した彼らは、中立的な回答をした被験者よりも男性の求職者を優遇したのです。

なぜこんなことになってしまうのでしょうか。

心理学ではこれを、「悪のライセンス」で説明します。善悪の問題について私たちは「道徳の小遣い帳」のようなものを持っていて、差別的な主張に反対すると道徳の「収支」がプラスになって、その後に差別的な(マイナスの)判断をしても許されると思ってしまうのです。逆に「自分はすこし差別的かもしれない」と思ったひとは、道徳の帳尻をゼロに戻すために、差別されているマイノリティ(少数派)に寛大になります。

この「悪のライセンス」は性差別や人種差別だけでなく、あらゆる場面で観察できます。

自分が以前に気前よく寄附したことを思い出したひとたちは、そうでないひとに比べて、寄附する金額が6割も低くなります。さらには、被験者にホームレス支援施設で子どもたちに勉強を教えるボランティアをやってみたいかと尋ねただけで、参加申込をしたわけでもないにもかかわらず、被験者は自分へのごほうびとしてなにか買い物したくなりました。

よいことをしたからではなく、よいことをした「気」になっただけで道徳の小遣い帳は「黒字」になり、「赤字」すなわち不道徳な行為を許容するようになってしまいます。そして困ったことに、道徳的であるはずの自分がじつは差別的であることに本人はまったく気づかないのです。

いつもきれいごとばかりいっているひとがうさんくさく見える理由は、じつはここから説明できるかもしれません。

参考:Benoît Monin, Dale T. Miller「Moral Credentials and the Expression of Prejudice」

『週刊プレイボーイ』2016年1月16日発売号
禁・無断転載

『ダブルマリッジThe Double Marriage』事件のはじまり

新刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』から、第1章「見知らぬ名前」の冒頭部分をアップします。ここから事件が始まります。

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「なに、それ?」

電話口で、母の里美が素っ頓狂な声をあげた。

「そんなのわかんないよ」

マリは片手に書類を持って、口をとがらせた。

「窓口のひとに訊いたんだけど、“この記載事項で間違いありません”だって。あとは“ご本人でなければおこたえできません”って、それだけ」

平日午後の北関東のT市役所は閑散としていて、市民課には引越しの住民登録や年金・健康保険の手続きに来たひとが何人か、呼び出されるのを待っているだけだった。そんな田舎臭い雰囲気のなかで、マリは明らかに異物だった。

大胆に肩を開けたワインレッドのカットソー、すらりと伸びた足を強調したミニのショートパンツとヒールの高いパンプス、ケイト・スペードのショルダーバッグ。ファッション雑誌のグラビアから抜け出してきたようだ。

電話を切ると、マリはLINEで、ドクロの額に「最低」と書かれたスタンプをモデル仲間のグループに送った。さっそくサキから、「なに?」という質問のスタンプ。「チョー最悪。あとで」と書いているうちに、ケイコから「時間厳守。遅刻はなしね」の確認が送られてきた。ケイコは大学の先輩で、ファッション雑誌の編集者に気に入られて読者モデルのとりまとめを任されている。「了解です!」と返信して、マリは小さくため息をついた。

「ぜんぶパパのせいじゃん。いったいどうなってるの?」

父・憲一のパスポートの有効期限が切れていることがわかって大騒ぎになったのは昨日のことだった。急な海外出張が決まったのに、パスポートの更新を忘れていたのだ。

調べてみると、今日じゅうにパスポート申請すれば、出発までになんとか間に合いそうだ。しかしパスポートの期限が切れていると、運転免許証のほかに戸籍謄本が必要で、本籍地の役所まで取りにいかなくてはならない。戸籍謄本もパスポートも委任状があれば代理申請できることがわかったが、里美はマリの高校時代のママ友と「大切な会合」があるとかで、「ヒマなんだからあんたがやりなさいよ」と押しつけられたのだ。

マリは、「戸籍全部事項証明書」と書かれた書類をあらためて眺めた。

最初に本籍地と父・桂木憲一の名が書かれている。生年月日は昭和四十一年五月七日。先週の土曜日が五十歳の誕生日で、マリは奮発してバーバリーのレザーベルトをプレゼントした。ちょっと苦手な埼玉のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの名前があって、その次が婚姻欄でママの旧姓の高峯里美、生年月日は昭和四十二年十一月十六日、婚姻日は平成七年十一月四日。それから大好きな目黒のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの名前が来て、その下に大嫌いな「長女・茉莉愛(まりあ)」の名前。マリが生まれたのは平成八年九月三十日だ。

でも不思議なことに、そこにはもうひとり見知らぬ人物の名前があった。

婚姻の欄に、「高峯里美」と並んで「ロペス・マリア」。婚姻日は平成二年十二月二十五日で、フィリピン国籍の注記。「なんなんだろう、これ?」

マリは戸籍を写メで撮ると、母の里美にメールで送った。

文藝春秋刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』 禁・無断転載