日本とドイツの「愛国」はどこがちがうのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年3月公開の記事です。(一部改変)

Andreas Wolochow/Shutterstock

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前回は、アメリカで1990年代半ばに起きた「愛国」をめぐる論争について書いた。

参考:「愛国」について真面目に考えてみる

論争の発端は、哲学者のリチャード・ローティが『ニューヨーク・タイムズ』紙に寄稿した「非愛国的アカデミー“The Unpatriotic Academy”」で、「国」という大きな物語を認めない文化サヨク(多文化主義者)を批判したことだった。

これに衝撃を受けた哲学者のマーサ・ヌスバウムが「愛国主義とコスモポリタニズム」を雑誌『ボストン・レビュー』に寄稿し、これに著名は知識人が応答することで「愛国」をめぐる議論が巻き起こった。

前回指摘したのは、この論争においてアメリカの知識人が、自らを「愛国者(パトリオット)」としつつ、「国家主義(ナショナリズム)」を批判したことだ。しかし考えてみればこれは当たり前で、アメリカの歴史観では、第二次世界大戦とはリベラルデモクラシーを守るためにドイツや日本の“偏狭なナショナリズム=ファシズム”と戦った「愛国者の戦争」だった。

アメリカでは、「愛国主義(Patriotism)」と「国家主義(Nationalism)」はまったく別のものと扱われている。アメリカの知識人は「愛国(パトリオット)リベラル」なのだ。

ところが戦後日本では、愛国的な国家主義運動が国を悲惨な戦争に引きずり込んだとの歴史観から、「愛国」と「国家主義」が同義になってしまった。その結果、「愛国」は右翼の独占物になり、「愛国=国家主義」を批判するリベラルは「非愛国者」すなわち「反日」にされてしまったのだ。

そこで今回は、1980年代後半に(当時の)西ドイツで起きた「歴史論争」から、日本と同じ敗戦国の困難を抱えるドイツにおける「愛国」について考えてみたい。 続きを読む →

選挙を「自己啓発」にした参政党の戦略(週刊プレイボーイ連載654)

「反ワクチン」を押し出して得票率2%を超え、代表の神谷宗幣氏が初当選した2022年の参院選のあと、参政党は「Do It Yourself(DIY)」を合言葉に、全国に289ある小選挙区のすべてに支部をつくる運動を開始します。

党のホームページによれば、月額1000円の一般党員になると、毎日「各界の専門家」からの音声や動画が配信されるだけでなく、地域別オフ会やタウンミーティング、政策学校「DIYスクール」などに参加したり、大規模イベントの運営に加わったりできます。さらに月額2500円(2026年までは月額4000円)の運営党員には、政策立案や公認候補の党内予備選挙の投票権が与えられます。

党員やサポーターはビラ配りやショート動画の拡散など裏方の役割を担いますが、外国人の土地取得問題への関心から活動に参加した60代の女性党員はこれを「大人の部活」と表現しました。参政党はこれまで政治に興味がないか、関心はあってもどうしたらよいかわからなかった層に、手づくりで政治に参加できる「楽しさ」を与えたのです。

このようにして結束感を高めてきた結果、24年末時点で参政党の党員は6万8000人に増え、それを基盤に12人だった地方議員を155人に増やしています。

ところで、なぜ地方選挙なのでしょうか。これについては、陰謀論に詳しいライターの雨宮純さんが興味深い指摘をしています。

2019年の参院選で国政政党になった「NHKから国民を守る党」(当時)の立花孝志元代表は、地方議員の必須出席日が年間30~40日ほどなのにもかかわらず、1000万円以上の年収が見込めるとして、「地方議員は、そりゃあもうオイシイ仕事ですよ!」と述べるだけでなく、戦略によっては知名度の低い政党・候補でも当選できることを証明しました。

国政選挙では主要政党の公認を得て組織票を獲得できなければ当選は困難ですが、都道府県議会議員や市議会議員・区議会議員は、陰謀論や疑似科学のような極端な主張の持ち主であっても、一定の熱心な支持者が見込めれば議員になれるチャンスが開かれています。

雨宮氏は、「人生を変える手段はなかなか見つからないものだが、政治家になるという手法は努力目標も分かりやすい。選挙で勝てば良いからである」として、地方選挙が「自己啓発」の手段になったといいます。政治家になることで社会を変え、同時に自分の人生も変えられるのです。

神谷代表は「龍馬プロジェクト」という私塾で、全国の若手地方議員のネットワークをつくっていました。参政党はこの土台の上に、支持者たちが候補者を”推し活“するだけでなく、自分も政治家を目指せる(かもしれない)という夢を手にできるようにしたのです。それがもたらす一体感と達成感が、どこかカルトめいた熱気を生み出すのでしょう。

戦後民主主義を支えてきたリベラルは、市民の政治への参加こそが重要だとずっと唱えてきました。その理想を体現し、もっとも成功した「新しい共同体」をつくりだしたのが、「陰謀論」「排外主義」と批判される政党だというのは、なんとも皮肉な事態というほかありません。

参考:雨宮純「日本における陰謀論の今後の展望と対策」(『社会分断と陰謀論 虚偽情報があふれる時代の解毒剤』〈文芸社〉所収)
「参政党伸ばした組織と集金力 地方議員12→155人、党員は維新超え」日本経済新聞2025年7月30日

『週刊プレイボーイ』2025年8月25日発売号 禁・無断転載

「愛国」について真面目に考えてみる

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年3月1日公開の「アメリカで20年前に巻き起った「愛国」論争は 今の日本とアメリカに様々な教訓を与えている」です。(一部改変)

esfera/Shutterstock

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「愛国」とはなにかが気になって、マーサ・C・ヌスバウム他の『国を愛するということ 愛国主義の限界をめぐる論争』 (辰巳伸知、能川元一訳/人文書院)を読んだ。これは1990年代半ばにアメリカのアカデミズムで起きた「愛国」論争の記録で、本稿はその備忘録だと思ってほしい。

「文化多元主義」という非愛国的アカデミズム

論争の発端は、アメリカの高名な社会学者リチャード・セネットが、「全米人文科学協会」の「アメリカの多元主義とアイデンティティについての国民的対話」プロジェクトを『ニューヨーク・タイムズ』紙(1994年1月30日)ではげしく批判したことだ。

プロジェクトの趣旨は、「テレビ中継される一連の「市民集会」を通じて、アメリカ国内のエスニックな分裂や対立を克服すべく国民共同体の紐帯やアメリカ人のアイデンティティについて確認しなおそうというもの」だったが、セネットはこれを「存在しなかったアメリカを回顧することに他ならない」と難詰した。

「アメリカは、当初から富や宗教、言語の相違、奴隷容認州と奴隷反対州の対立によって断片化されていたのであり、南北戦争以後および近年、人々の間にある考え方や生活形態の多様性はますます増大している。そのような歴史と現状において「アメリカ的性格」や「国民的アイデンティティ」を要求することは、「紳士面したナショナリズム」を表明していることにほかならない」のだ(以上、辰巳伸知氏の「訳者解説」より)。

これに対してこちらも高名な哲学者のリチャード・ローティが、同じ『ニューヨーク・タイムズ』紙(1994年2月13日)に「非愛国的アカデミー」という反論を載せた。これは“The Unpatriotic Academy”としてネットにもアップされていて、一読して強い調子に驚かされる。

ローティの主張は、アメリカの大学(アカデミズム)には自己陶酔的でわけのわからないジャーゴンばかり使っている“サヨク”の知識人が跋扈していて、彼らが「マルチカルチュラリズム(多文化主義)」とか「差異の政治(the politics of difference)」とかを言い立ててアメリカの連帯を破壊しているというものだ。

ローティが支持するのは多元主義(pluralism)で、さまざまな文化をもつコミュニティが、(アメリカという)より大きなコミュニティを織り上げていくことだ。ところが文化多元主義のサヨクは人種や宗教・文化によってコミュニティを分断し、対立させている。

「すべての国と同様に、アメリカの歴史には誇るべきものも恥ずべきものもあった」とローティは書く。「しかし、(ひとびとが)自分の国に誇りをもたなければ、(アメリカ人という)アイデンティティをもたなければ、そのアイデンティティを喜びとともに受け入れ、じっくりと噛みしめ、ともに歩んでいこうとしなければ、よりよい国をつくっていくことなどできるはずがない」

これを読んで、「『哲学と自然の鏡』のローティってこんなゴロゴリの保守派だったの?」と驚くひともいるだろう。だったら、次の文章を読むと腰が抜けそうになるにちがいない。

もしもイデオロギー的な純粋さを追求したり、(正義の)怒りをぶちまけたいという必要から、アカデミックなサヨクが「差異の政治」に固執するなら、そんなものは誰からも相手にされず、なんの役にも立たなくなるにちがいない。非愛国的なサヨクは、けっしてどんな(まともな)場所にもたどりつけない。この国を誇りに思うことを拒絶するようなサヨクは、この国の政治になんの影響も与えられないばかりか、侮辱の対象になってお終いだろう。

愛国者であるローティは、アメリカの大学を「支配」している非愛国的なサヨクに我慢ならなかったのだ。 続きを読む →