作家・橘玲(たちばなあきら)の公式サイトです。はじめての方は、最初にこちらの「ご挨拶」をご覧ください。また、自己紹介を兼ねた「橘玲 6つのQ&A」はこちらをご覧ください。
エピジェネティクスは遺伝学の常識をどう変えたのか
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2020年4月9日公開の「「胎内で飢饉を経験したひとは肥満になりやすい」 後天的な遺伝情報(エピジェネティクス)の発見によって 細胞が遺伝子をコントロールしていることが分かった」です。(一部改変)

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一卵性双生児は「Identical Twin(まったく同一の双子)」と呼ばれるように、ひとつの受精卵が分裂(多胚化)し、同じDNAを共有してこの世に生を受けた。そのため最新のDNA検査でも、どちらのDNAかを特定できない。
ミシガン州の立体駐車場で女子大生が深夜にレイプされた事件では、膣内に残っていた精子のDNAが36歳のアフリカ系アメリカ人のものと一致することがわかった。男は以前、大学の陸上競技のコーチを務めていたが、別の犯罪で収監されたことがあり、このときにDNAサンプルを提出していたのだ。
事件はこれで一件落着と思われたが、じつは男には一卵性双生児の兄弟がいた。この事件が大きな話題になったのは、警察がどちらが犯人かを特定できず(DNA以外の証拠はなかった)無罪になったことと、この兄弟のどちらにも隣人である10歳と12歳の少女への性的暴行の前科があったことだ。
これは、一卵性双生児がよい意味でも悪い意味でもものすごくよく似ていることを示している。なぜならまったく同じ遺伝子を共有しているから――。
きわめてわかりやすい説明だが、そうなると次のようなケースはどう考えればいいのだろうか。
ドロシーとキャロルは57歳になる一卵性双生児で、身長はどちらも173センチだが、体重には27キロの差がある。40代の頃、キャロルは初期の更年期障害で体重が57キロから70キロに急増したのを機に民間療法の栄養士を訪ね、グルテンフリー(乳製品と小麦製品をいっさい摂らない)食事療法を指導されて体重は60キロまで戻った。一方のドロシーは食事制限の必要を認めず、体重は87キロまで増えた。
この謎を解くのがエピジェネティスクで、後天的に遺伝情報が変化し、表現型(遺伝の現われ方)が異なることをいう。
ここでは、リチャード・C・フランシス『エピジェネティクス 操られる遺伝子』( 野中香方子訳/ダイヤモンド社)とティム・スペクター『双子の遺伝子 「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける』(野中香方子訳/ダイヤモンド社)に拠りながら、遺伝学を大きく変えつつあるエピジェネティクスについてまとめてみたい。なおフランシスは神経生物学と行動学の博士号をもつサイエンス・ライター、スペクターはロンドン大学の遺伝疫学教授で、双生児研究の権威でもある。 続きを読む →
「表現の自由」とは自分が不愉快だと思う表現を受け入れること 週刊プレイボーイ連載(643)
インターネット上に性的な広告があふれるようになって、子どもの保護の観点から規制を求める声が高まっています。料理レシピのサイトを運営する会社が、「子宮」などの表現を含む性的コンテンツが表示されたとして謝罪する事件も起きました。
日本の刑法には「わいせつ物頒布等の罪」の規定があり、なにが「わいせつ物」にあたるかはこれまでも裁判で争われてきました。
1950年代にはイギリスの作家D・H・ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』やマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』がわいせつだとして翻訳者・出版社が起訴され、70年代には永井荷風作とされる『四畳半襖の下張』を雑誌に掲載した有名作家が起訴されたことで、社会的な議論を巻き起こしました(最高裁で罰金刑が確定)。
これらの裁判では、「わいせつ物」は「性欲の興奮・刺激」「性的羞恥心の侵害」「善良な性的道義観念への違反」の三点で判断され、その基準は時代の価値観によって変わり得るとされました。実際、文章表現のわいせつ性は問題とされなくなり、現在はロレンスやサドも無修正版がふつうに流通しています。
ここで押さえておくべきは、国家が「わいせつ物」を取り締まることに強く反対してきたのがリベラルな知識人やメディアだということです。ところが現在は、そのリベラルが国家に表現の規制を求めるという皮肉な事態になっています。
「表現の自由」とは、自分が不愉快だと思う表現を受け入れることです。誰も不快に思わない「表現の自由」なら、北朝鮮にだってあるでしょう。
もちろん、「法に反しないならなにをしてもいい」ということにはなりません。
広告を掲載する側は、どのようなコンテンツなら許可し、どれを許可しないかを決める権限を有しています。どの媒体も、広告収益と社会的評価(読者・視聴者の評判)を天秤にかけて、この判断をしています。
さらには、「エロ本」や「エロビデオ」への批判が高まったことで、業界が自主規制を行なうようになりました。ビデオレンタル店ではアダルビデオのコーナーをカーテンなどで隔離し、エロ本は書店でビニールカバーをかけるか、自販機で売られました。こうしたゾーニングによって、表現の自由と「見たくない権利」はなんとか折り合いをつけてきたのです。
ところが非中央集権的なネットの世界では、海外の業者も含め誰でも広告を出せるため、自主規制の主体となる業界団体が存在しません。また、合法・違法を問わず膨大な量のコンテンツが流入することで、投稿管理(コンテンツ・モデレーション)が機能していないという実態もあります。
このような現実を見れば、国家にできるのはプラットフォーマーに対処を求めることくらいで、法による規制は難しいでしょう。そもそも海外のサイトでは、日本では「わいせつ」として禁じられているコンテンツが簡単に見られるのです。
けっきょく、サイトは不適切な広告が掲載されないように、ユーザーは不愉快な広告が表示されないように、できるかぎりフィルタリングするしかないのではないでしょうか。納得しないひとはたくさんいそうですが。
『週刊プレイボーイ』2025年5月26日発売号 禁・無断転載
娘が親を悪魔崇拝で訴える「記憶回復療法」の災厄
ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2014年7月16日公開の「アメリカでは否定されている「トラウマ理論」 ”わかりやすい説明”ほど危険なものはない」です。(一部改変)

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“こころの病”というのは製薬会社がマーケティングによってつくりだしたものであり、“病のグローバル化”によって、「誰もがアメリカ人と同じように狂わなければならない」時代になったという話を書いた。
今回は、日本でもいまでは“日常語”となったトラウマが「抑圧された記憶」へと”進化”したとき、何がおきたかについて見てみたい。
トラウマから「抑圧された記憶」へ
トラウマ(心的外傷)とは、幼児期の虐待のような“こころの傷”が長期(場合によっては何十年)の潜伏期間を経て、うつ病や自殺衝動、犯罪などの異常行動を引き起こすという精神医学の理論だ。
心理的な衝撃がこころの不調の原因になるというのは、戦争や自然災害、交通事故などの後遺症であるPTSD(心的外傷後ストレス障害)として研究が進められてきた。しかしここでいうトラウマは、(まがりなりにも)科学的な枠組みのなかで議論されてきたPTSDとは異なる概念だ。
「トラウマ」という言葉を有名にしたのはアメリカの心理学者(執筆当時はハーバード大学医学部精神科臨床准教授)でラディカルなフェミニストでもあるジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』(中井久夫/阿部大樹訳/みすず書房)だった。ところがその後、ハーマンの理論を取り入れたセラピストたちが、幼少期のレイプなどのトラウマ体験が“抑圧された記憶”として無意識に刻み込まれており、成人したあともその影響から逃れることはできないと主張するようになる。
この理論が世界じゅうで広く受け入れられたのは、その圧倒的なわかりやすさにある。
幼い頃に父親によって繰り返し性的虐待を受け、こころに深い傷を負った。だが父親から、「このことをけっして口外してはならない」ときびしくいわれ(約束を破れば神の罰が下る、あるいは母親が不幸になる)、その記憶は深く抑圧されてしまった。だが“傷”はいつまでも生々しく残り、それがうずくたびに精神的な混乱に襲われ、やがて社会生活が破綻してしまう……。
いうまでもなくこれは、「人間は性的欲望を無意識に抑圧している」というフロイトの精神分析理論の焼き直しだ。だからこそ、先進国のなかでは例外的に精神分析が大衆化しているアメリカで“トラウマ”は大流行した。
セラピストたちは、幼少期のトラウマによって自責や自殺願望に苦しめられている女性を救うためには、“抑圧された記憶”を回復させることが必要だと説いた(これもフロイト理論そのままだ)。そのために有効だとされたのが催眠療法やグループ療法で、こうした「記憶回復術」によって被害者は失われた記憶とともに“ほんとうの自分”を取り戻すのだ。
この「俗流トラウマ理論」は、1980年代から90年代にかけてアメリカ社会に大混乱を引き起こした。記憶回復療法によって抑圧されたトラウマ体験を思い出した“被害者”が、“加害者”である親を訴えはじめたのだ。 続きを読む →