「日本人」と「韓国人」のやっかいなアイデンティティ 週刊プレイボーイ連載(371)

2021年9月末の任期を見据え、安倍首相は2つの「レガシー」を目指しています。憲法改正と北方領土交渉で、いずれかひとつでも実現すれば日本の現代史に名を残すのは間違いありませんが、どちらも状況はかんばしくありません。

それでも「モリカケ」で足を引っ張られた憲法改正より目がありそうだと、「うまの合う」プーチン大統領との会談を繰り返していますが、クリミア半島併合などでナショナリズムが沸騰するロシアがやすやすと領土の割譲に応じるとは思えません。案の定、ラブロフ外相は日本に対し、「第二次世界大戦の結果を認めよ」と言いたい放題です。

戦争末期、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州と南樺太に侵攻し、日本軍の捕虜約57万5000人を抑留、劣悪な環境で約5万5000人が死亡する悲劇を引き起こしましたが、いまだに謝罪も賠償もしていません。そのうえ「悪いのはぜんぶお前たちだ」という暴言ですから、「愛国者」は激怒してもおかしくありませんが、不思議なことに大きなニュースになることもなく、ほとんど誰も気にも留めていないようです。

さらに奇妙なのは、その「愛国者」が、海上自衛隊の哨戒機が韓国海軍の駆逐艦から火器管制レーダーを照射されたとして大騒ぎしていることです。これも確かに隣国とのやっかいな問題ですが、別の隣国が不法に占拠した領土を返還する気がないと公言したことと、どちらが重大でしょうか。

こうした事情は、じつは韓国も同じです。

2017年、在韓米軍へのTHAAD(地上配備型ミサイル迎撃システム)配備を決めた韓国に中国が激怒し、軍用地を提供したロッテは中国国内の店舗を一時営業停止に追い込まれ、中国の旅行業者は韓国観光の取り扱いをやめました。ところが、こんないやがらせをされたにもかかわらず韓国内で「反中国」の大規模デモが起きるようなことはなく、「逆らったってしょうがない」というあきらめムードが広がりました。

その影響を比較すれば、北方領土返還や中国からの執拗な制裁に比べ、日本の哨戒機にレーダーを当てたとか当てないとかはどうでもいい話です。当事者同士で話し合って、「これから気をつけよう」で済ませればいいだけのことではないでしょうか。

しかし、日本にも韓国にもこれを「ささいな出来事」にできない事情があります。

日本では「嫌韓本」が次々とベストセラーになったことからもわかるように、「韓国ぎらい」が「日本人のアイデンティティ」と結びついています。慰安婦や徴用工問題でさんざん「理不尽」なことをされた「日本人」にとって、レーダー照射問題は留飲を下げる格好の機会なのです。

韓国では、植民地時代を全否定することが「正義」とされており、どんなことであれ日本に頭を下げることは「民主韓国」の否定だと見なされます。韓国側の反論が二転三転しつつもぜったいに非を認めないのはこれが理由でしょう。

日本と韓国は合わせ鏡のような関係で、お互いを否定し合うことで「日本人」「韓国人」のアイデンティティがつくられています。この不幸な状況はとうぶん変わりそうもないので、お互い、それに慣れるしかないのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2019年2月12日発売号 禁・無断転載

よりよい世の中をつくる「暗殺市場」? 週刊プレイボーイ連載(370)

インターネットには、特殊なブラウザを使わなければアクセスできない「闇(ダーク)ネット」と呼ばれる隠された領域があります。そこではドラッグや児童ポルノなど、公序良俗に反し法で禁じられているさまざまなものが取引されていますが、「暗殺」も例外ではありません。

とはいえ「暗殺市場」には、「必殺仕事人」のようにお金を受け取って恨みをはらす業者がいるわけではありません。――そのようなサイトもありますが、ほぼすべて詐欺だといいます。

「暗殺市場」の仕組みは単純で、リストに掲載された人物にみんなが懸賞金を払い、その死亡日を予言するだけです。そして、予言が当たると賞金が支払われます。

これがなぜ「暗殺」になるのか、すこし説明が必要です。

世界でもっとも憎まれている政治家は、おそらくドナルド・トランプでしょう。「あんな奴、この世からいなくなればいいのに」と思っているひとはたくさんいるでしょうが、そんなときは憂さ晴らしにトランプの懸賞金を積み増すことができます。

最初は少額でも、トランプがTwitterでリベラルの神経を逆なでするたびに懸賞金の額は増えていくでしょう。いつのまにかその額は、1億円、あるいは10億円になるかもしれせん。

そうなると、死亡日をぴたりと当てればこの大金が手に入ると思いつく人間が出てきます。でも「デスノート」を持っているわけでもないのに、どうすればそんなことができるのでしょうか。それは……という話になるわけです。

「懸賞金の受取人を調べれば犯人はすぐわかるじゃないか」と思うでしょうが、闇ネットでビットコインをやりとりすれば追跡は困難です。完全犯罪さえ可能なら、一夜にして大金が転がり込んでくるのです。

いったい誰がなんのために、こんなとんでもないことをするのでしょうか? それは、「よりよい世の中」をつくるためです。

ここでまた説明が必要になります。

あなたが政治家で、ある日「暗殺市場」のリストに自分の名前が乗っていることに気づいたとします。懸賞金は1万円か2万円で、たんなる嫌がらせだと無視したのですが、その金額は毎日すこしずつ増えていきます。

けっしていい気分はしないでしょうが、闇ネットは国家権力の立ち入ることのできない「聖域」なので、警察に相談してもなにもしてくれません。だとしたら、あなたにできることはひとつしかありません。みんなが喜ぶような、よい政治をすることです。

こうして「暗殺市場」のある社会では、政治家は暗殺を避けるために、私利私欲を抑え、敵をつくらず、公平で民主的な政策を推し進めるようになるのです……。

シリコンバレーには「サイファーパンク」と呼ばれる変わり者がいて、テクノロジーを使って世界をより効率的に「設計」しようと、本気でこんなことばかり考えています。その理想は、他人への信頼がいっさいなくても(性悪説で)社会がうまく機能するアルゴリズムを見つけることです。

いまはたんなるブラックジョークにしか思えなくても、テクノロジーは驚異的な勢いで進歩していて、いずれ「暗殺市場」を超えるアイデアが出てくるでしょう。人類の運命を変えるXデイは、それほど遠くないかもしれません。

参考:ジェイミー・バートレット『闇(ダーク)ネットの住人たち―― デジタル裏世界の内幕』(CCCメディアハウス)

『週刊プレイボーイ』2019年2月4日発売号 禁・無断転載

第81回 ダウと日経平均、株価に陰謀?(橘玲の世界は損得勘定)

久しぶりに田舎に帰って同窓会に出たのだが、その二次会で、私が金融についての本を書いていることを知っている友人から質問を受けた。日経平均とダウ平均(ニューヨーク株価)で、なぜこれほど株価がちがうのか、というのだ。

日経平均が2万円、ダウ平均が2万ドルとして、1ドル=100円で円換算すると200万円になる。友人の疑問は、アメリカの株価がなぜ日本の100倍にもなるのか、というものだった。

「株式指数を円換算して比較しても意味はないよ」と答えたのだが、「でも日経平均は225社の、ダウ平均は30社の株価の平均でしょ」という。これはたしかにそのとおりだ。

「いまの株価を単純平均してるわけじゃないから」と説明しようとして、はたと困った。株式の分割や合併、銘柄の入れ替えによって指数は繰り返し調整されてきているが、どのような経緯で現在の株価になったのか知らないのだ。

そこで、「株価が高いか安いかは重要な問題ではないよ」と話を変えてみた。株式を10分割すれば株価は10分の1になるが、会社の価値は変わらない。株価1000円の会社より1万円の会社の方が規模が大きいということにはならないのだ。

だがこの作戦も、さしたる効果はないようだった。彼は日本とアメリカの会社を比較して、どちらの株価が高いかを問題にしているのではなく、なぜアメリカ市場の平均株価が日本市場の100倍なのか知りたがっているのだ。

そこで、アメリカと日本の株式市場の時価総額を持ち出して、「米国市場は世界の約半分、日本市場は1割を切っているけど、その差はせいぜい6倍くらいだよ」と答えた。しかしそうなると、株式市場の時価総額が6倍なのに「平均株価」がなぜ100倍なのか訊かれることになり、やはり答えに窮してしまう。

ことここに至って、降参するほかなくなった(うまく説明できるひといますか?)。そこで、なぜそんなことに疑問を持つのか逆に訊いてみた。

私は根本的に勘違いしていた。株価指数についてのテクニカルな質問だと思っていたのだが、彼がいいたかったのは、日本に比べてアメリカの株価が「100倍」も高いのは、なにかの「陰謀」にちがいないということだった。隠された秘密がなければ、こんな極端なことが起きるわけがないというのだ。

世の中には、あらゆるところに「陰謀」を見つけるひとがいる。一時期は「TPP(環太平洋パートナーシップ)協定はアメリカの陰謀」と大合唱していた「知識人」たちがいたが、トランプは「TPPはアメリカにとってなにひとついいことがない」としてさっさと脱退してしまった。なぜこんなことになるかというと、実態が明らかでないなら、どんな陰謀論も(なんとなく)合理化できるからだ。

なるほど、こうして「陰謀論」が生まれるのかと驚いたが、彼が納得するような回答をするのは私の力量では無理だと思い知らされて、あいまいな笑いとともにその場を去るしかなかった。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.81『日経ヴェリタス』2019年1月27日号掲載
禁・無断転載