「善意の支援」が苦しむひとをより傷つける 週刊プレイボーイ連載(467)

新型コロナウイルス禍で孤独や孤立の問題が深刻化していることを受け、政府は内閣官房に「孤独・孤立対策担当室」を設置しました。

ヒトは徹底的に社会化された動物なので、つながりを断たれることで身体的にも精神的にも深刻な負の影響を受けます。孤独に苦しむひとをすこしでも減らすことが社会の目標になるのは当然でしょう。

しかし、ここには難しい問題があります。善意のサポートが、逆に相手を傷つける可能性があるからです。このことは次のような心理実験で確かめられました。

被験者はニューヨークの大学に通う女子学生で、支援者(他の学生)から人前でスピーチするためのサポートを受けます。アドバイスは「あからさまなもの(こうすればいい)」と「間接的なもの(自分だったらこうする)」の2種類で、さらに、サポートする側に優位性がある条件(あなたによい方法を教えてあげる)と、無力さを感じさせる条件(わたしの方がアドバイスを必要としている)に分けられました。

サポートを受けたあとの心理状態を調べると、ディストレス(苦痛)のレベルに大きな差があることがわかりました。

被験者がもっとも大きな心理的苦痛を感じたのは、優位に立つ支援者からあからさまなアドバイスを受けたときでした。支援者に優位性がないときは、アドバイスがあからさまでも間接的でも心理的苦痛のレベルは下がりましたが、それでもサポートがないときより大きな苦痛を感じていました。無力さを感じさせる支援者から間接的なアドバイスを受けたときは、心理的苦痛のレベルが大きく下がりました。

この結果は、「ひとはつねに他者と自分を比較している」ことから説明できます。相手が自分と同じか、より困難な状況にあると思えば、「困った者同士の助け合い」として素直にアドバイスを聞くことができます。それに対して押しつけがましいサポートは、マウンティングされるのと同じで、ものすごく傷つくのです。

だとしたら、支援者は自分を無力に見せればいいのでしょうか。しかし、これもうまくいきそうもありません。サポートには「正当性」が必要だからです。

ある課題について、参加者のなかで成績トップの友人か、平均的な成績の友人からサポートを受ける実験では、正当性の高い(成績のいい友人からの)アドバイスでは課題の成績が上がり、正当性の低い(平均的な成績の友人からの)アドバイスでは逆に成績が下がってしまいました。この場合は、自分と同程度の能力の相手からマウントされたことで心理的な苦痛が生じたのでしょう。

このように考えると、支援を求めている「孤独なひと」を、自尊心を傷つけずに支援するのはものすごく難しいことがわかります。それにもかかわらず、なぜ他人を助けたいひとたちがたくさんいるのでしょうか。

その理由は、この実験の逆を考えればわかります。サポートする側に回ることは、自尊心を引き上げるもっとも簡便な方法なのです。これは「言ってはいけない」でしょうが、みんなうすうす気づいているのではないでしょうか。

参考:Niall Bolger and David Amarel (2007) Effects of Social Support Visibility on Adjustment to Stress: Experimental Evidence, Journal of Personality and Social Psychology
浦光博『排斥と受容の行動科学 社会と心が作り出す孤立』サイエンス社

『週刊プレイボーイ』2021年3月8日発売号 禁・無断転載

女性差別より「先輩に逆らえない」体育会系文化? 週刊プレイボーイ連載(466)

すこし前の話ですが、都内の有名私立大学でバレーボールのサークルに入っている女の子がアルバイトにやってきたので、みんなで歓迎会をすることになりました。

最近の学生事情などを教えてもらいながら楽しくおしゃべりして、私のワイングラスが空くと、その女の子がボトルをもって注ごうとしました。びっくりして「そんなホステスみたいなことしなくていいよ」といったのですが、きょとんとした顔をしています。

話を聞いてみると、大学の体育会系サークルでは後輩が先輩にお酌をする決まりになっていて、どこでもそうするのが当たり前だと思っていたといいます。「それっておかしいと思わないの?」と訊くと、「わたしはヘンだなと思ってたんですけど……」とのことです。

彼女は3年生で、4年生は就活で抜けるので、今年からサークルの最上級生です。そこで、「こんな封建時代みたいなことは自分たちの代でやめようって提案したらどう?」と訊くと、真顔で「そんなことぜったいできません」といいます。同級生はみんな2年間の下積み(召使い扱い)に耐えて、ようやく自分たちが「主人」に昇格できたのに、その既得権を放棄しろなどといったら仲間外れにされ、サークルにいられなくなるというのです。

サークルの飲み会は男女一緒のことも多いというので、「だったら男の先輩にもお酌するの?」と訊いたら、「それはないです」とのことで、男子サークルでは男の後輩が先輩の世話をするのだそうです。さすがに「一流大学」では、この程度まで男女平等が浸透してきたのでしょう。

そのとき思ったのは、日本社会の問題は「男性中心主義」というより(もちろんその影響が根強く残っているのはたしかですが)、「先輩―後輩の身分制」ではないかということです。

「リベラル」とされる新聞社や出版社のひとたちと話をする機会がたまにありますが、そんなときいつも不思議に思うのは、「彼/彼女とは同期で」とか、「2コ上/下で」という会話が当たり前のように出てくることです。

リベラリズムの原則は、「人種や性別、性的志向のような(本人には変えることのできない)属性で評価してはならない」です。年齢ももちろん、毎年1歳ずつ“強制的に”増えていく属性です。そのため欧米では、年齢での人事評価は「差別」とされ、応募書類には顔写真を貼るところも生年月日を記載する欄もありません。会社では、職階が同じなら20歳と若者と40代、50代のシニアは対等です(それが行き過ぎて、上司と部下も友だち言葉で話すようになりました)。

「同期の桜」という軍歌があるように、先輩―後輩の厳格な身分制は軍隊の階層社会の根幹でした。それにもかかわらず日本では、「軍国主義に反対する」はずのリベラルなひとたちですら、自分たちの組織の「軍国主義」を当然のように受け入れています。

オリンピック組織委員会の会長問題で日本社会のジェンダーギャップの大きさがあらためて浮き彫りにされましたが、その背景には、「先輩に逆らえない」という強固な体育会系文化があるのではないでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2021年3月1日発売号 禁・無断転載

格差問題を語る前に「公平」と「平等」を再定義しよう 週刊プレイボーイ連載(465)

新型コロナウイルスの感染拡大で世界的に失業率が上昇しているにもかかわらず、金融市場は大賑わいで、GAFAなどプラットフォーマーが軒並み最高益を更新し、新興ゲーム会社の株価がSNSの投稿で乱高下し、イーロン・マスクのテスラが購入したビットコインなど仮想通貨の価格も上昇しています。その結果、経済格差はさらに拡大しており、今後、政治的な争点になるのは間違いありません。

ところで、格差の問題を考えるとき、いたずらに議論を混乱させるのは「公平(機会平等)」と「平等(結果平等)」がごっちゃになっていることです。ここではそれを50m競走で説明してみましょう。

「公平」とは、子どもたちが全員同じスタートラインに立ち、同時に走り始めることです。しかし足の速さには違いがあるので、順位がついて結果は「平等」になりません。

それに対して、足の遅い子どもを前から、速い子どもを後ろからスタートさせて全員が同時にゴールすれば結果は「平等」になりますが、「公平」ではなくなります。

ここからわかるように、能力(足の速さ)に差がある場合、「公平」と「平等」は原理的に両立しません。

このようなとき、5歳の子どもであっても、(足の速い子が1等になる)不平等を容認するのに対し、(足の遅い子が優遇される)不公平は「ずるい」と感じることがわかっています。人が理不尽だと思うのは「不平等」ではなく「不公平」なのです。

もしひとびとが富の分布の不均衡に反発しているのなら、20兆円を超える資産を持つイーロン・マスクは世界中から罵詈雑言を浴びているはずですが、4500万人を超えるツイッターのフォロワーの反応は圧倒的に賞賛と応援です。

これはひとびとが、「グローバル資本主義」の不平等を受け入れていることを示しています。だったら、格差の何が問題なのでしょうか。

ひとつは、競争の条件が公平ではないと感じているひとがいることです。

アメリカでは、奴隷制の負の遺産によって黒人に不公平な機会しか与えられていないとされる一方で、それを是正するためのアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)によって、白人労働者が不公平な競争を強いられていると主張するひとたちもいます。両者の意見は折り合わないでしょうが、自分たちが不公平の「犠牲者」ということでは一致しています。

もうひとつは、競争の結果は受け入れるとしても、その競争を強いられるのは理不尽だと考えるひとが声を上げはじめたこと。

私がテニスで錦織圭と、将棋で藤井聡太と競えば、100回やって100回とも負けるでしょう。私はその結果を不公平とは思いませんが、そのようなゲームを強いられたことはとてつもなく理不尽だと感じるでしょう。

このようにして、「資本主義」というゲームに同意なく参加させられることを不公平だとするひとたちが現われました。これが「レフト(左翼)」とか「ラディカルレフト(過激派)」と呼ばれるひとたちで、資本主義ではない「より人間らしい」経済制度を求めています。

このように整理すると、すくなくとも議論の第一歩にはなるのではないでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2021年2月22日発売号 禁・無断転載