ロシアへの経済制裁はどれほど効果があるのか? 週刊プレイボーイ連載(514)

【3月10日執筆のコラムです。状況は刻々と変わっていますが、記録のためアップします】

ロシアがウクライナに侵攻してから2週間がたちましたが(3月10日現在)、いまだに状況は混沌としたままです。欧米の軍事専門家は当初、ロシア軍は短期間でキエフを攻略し傀儡政権を樹立すると想定していましたが、いまは「(プーチンは)全ての点で間違っていた」と考えています。

ロシア軍が占領した都市では市民のはげしい抗議行動が続き、それが撮影されてSNSで世界じゅうに配信されています。仮にキエフが陥落し、ロシアがウクライナ全土を掌握したとしても、安定した統治を長期にわたって維持するのは不可能でしょう。問題は、それにもかかわらず、どこに落としどころがあるのか誰にもわからないことです。

米欧はきびしい経済制裁で対抗していますが、もうひとつの問題は、これがどこまで効果があるのかわからないことです。「このままではロシアはいずれ経済破綻する」と識者はいいますが、同様の経済制裁の対象となったイランや北朝鮮は破綻していないし、ベネズエラはたしかに経済が崩壊しましたが、それでも政権は倒れませんでした。――産油国のイランとベネズエラは、ロシア産原油の輸入禁止措置にともなって、国際社会への復帰の可能性が取り沙汰されています。

ロシアは2014年のクリミア編入で、地域限定の経済制裁をすでに経験しています。私は18年のロシアワールドカップのときにクリミアを訪れましたが、VISAやマスターなどのクレジットカードが使えないばかりか、ATMから現金を下ろすこともできず、国際SIMにつながらないため携帯通話もネットへのアクセスもできませんでした。

ところが不思議なことに、ロシア各地からやってくる観光客は、みんなスマホで楽しそうにおしゃべりし、レストランの食事代金をクレジットカードで支払っています。経済制裁に対抗して国内の金融決済網や通信ネットワークを整備したからで、「クリミアの暮らしに不便はなく、ヒドい目にあうのは外国人観光客だけ」と説明されました。

19年には同じ経済制裁下のイランを旅しました。通貨リアルのレートは暴落し、100ドル(約1万2000円)を両替すると5000万リアルを渡されます。一般に使われる高額紙幣は10万リアルなので、10万円を両替すると5000枚のリアル紙幣が返ってきて、レンガ2、3個分の厚さになります。

とはいえ、通貨が大きく下落してもハイパーインフレになるわけではなく、ひとびとは「経済制裁で生活が苦しい」と訴えますが、それでも市場は賑わい日々の生活は続いていました。分厚い札束を持っておろおろしているのは外国人観光客だけで、イランでは個人商店にもカード端末があり、地元のひとはクレジットカードやデビットカードで支払いをしていました。

核戦争につながる武力行使ができない以上、経済制裁でロシアに対抗するしかないことは間違いありません。ただ気になるのは、私がイランで出会った(海外で暮らした経験がある)ひとたちがみな、「この国の政治はヒドいけれど、アメリカがやったことはもっとヒドい」と口々にいっていたことです。

『週刊プレイボーイ』2022年3月21日発売号 禁・無断転載

プーチンは「狂人戦略」なのか、それとも… 週刊プレイボーイ連載(512)

【3月3日執筆のコラムです。状況は刻々と変わっていますが、記録のためアップします】

1955年のアメリカ映画『理由なき反抗』には、ジェームズ・デーィン扮する17歳の主人公が、地元の不良とチキンレースを行なう有名なシーンがあります。盗んだ中古車を崖に向かってフルスピードで走らせ、先に運転席から飛び出した方が「チキン(臆病者)」の屈辱に甘んじるのです。

チキンレースは一般に、2台の車が相手に向かって直進し、最初にハンドル切って衝突を避けた方が負けとされます。この不良の遊びはゲーム理論で検討されていて、どちらか一方が譲歩(チキンになる)しないかぎり、衝突という最悪の結果が避けられないことが証明されています。

チキンレースで確実に勝つ方法はないのでしょうか。ここで経済学者が提案するのが、走行中に車のハンドルをもぎとり、相手に見えるように投げ捨てるという意表をついた作戦です。これによってあなたはもはやハンドルを切ることができないのですから、相手はチキンになる以外に死を避ける方法がありません。これは「狂人戦略」とも呼ばれ、なにをするかわからない相手には、合理的な人間は屈服するしかないのです。

国際政治学者や軍事専門家の多くが、ロシアのウクライナ侵攻を予想できなかったと批判されています。しかしこれは、専門家が愚かというよりも、この作戦になんの合理性も見いだせなかったからでしょう。

「いくらなんでも、そんなバカなことはしないだろう」という楽観論は、欧米の専門家だけではありませんでした。

モスクワに拠点のあるヘッジファンドは、2月半ばの取材に対して「戦争にはならないと確信している」と言い切り、政府系銀行ズベルバンクなどロシアの大手企業の株を大量に買っていました。そのズベルバンクは、経済制裁で欧米拠点から大量の預金が流出、撤退を余儀なくされました。軍事作戦が始まったあとも、プーチン支持のロシアの政治学者までが、ウクライナ東部の親ロ派地域の確保が目的で、「キエフの占領などはなく、戦闘は数日で終わるだろう」と述べていました。

しかし現実には、(ほとんど)誰も予想していなかった全面侵略が行なわれ、しかも戦況が膠着してウクライナ市民の犠牲が増え、事態をどう収拾するのかわからないまま混乱が広がっています(3月3日現在)。欧米が主導する経済制裁も市場の予想を大幅に上回るきびしさで、ロシアは国際決済網から排除されただけでなく、中央銀行が保有するドル資産が凍結されたことで、外貨準備を使って通貨を買い支えられなくなくなりました。これによってルーブルは急落、金利は高騰し、ロシア市民の生活にも大きな影響が出ています。

ロシア軍が首都キエフを占領しても、ウクライナ政権はポーランドとの国境に近いリヴィウなどに移ることで徹底抗戦を続けるでしょう。傀儡政権を樹立できたとしても、それを安定して維持するのは莫大なコストがかかりますから、プーチンはなんとしても欧米の経済制裁をやめさせなくてはなりません。このようにして、「核の使用」に言及するようになったのでしょう。

問題は、これが「狂人」の振りをした合理的戦略なのか、ほんとうに狂人になってしまったのかがわからないことです。

『週刊プレイボーイ』2022年3月14日発売号 禁・無断転載

ハックされるな、ハックせよ(『不条理な会社人生から自由になる方法』あとがき)

3月19日発売の文庫『不条理な会社人生から自由になる方法 働き方2.0vs4.0』(親本は『働き方2.0vs4.0 不条理な会社人生から自由になれる』)の文庫版あとがきを、出版社の許可を得てアップします。電子版は23~25日の配信開始です。

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近年、欧米を中心にミレニアル世代のあいだで影響力を増しているのが、ミニマリズムとFIRE(経済的に独立し早期リタイアする)です。アメリカ西海岸などのリベラルな富裕層のライフスタイルは、BOBOS(ブルジョア:Bourgeois+ボヘミアン:Bohemians)と呼ばれることもあります。

FIREが目指す経済的独立(FI)は、会社に依存しなくてもいいだけの金融資産をできるだけ早く貯めることで、その目標はだいたい100万ドル(約1億円)です。“億り人”になれば、パワハラの上司や足を引っ張ろうとする同僚、責任を押しつけてくる無能な部下に煩わされることなく、自由な人生を生きることができると考えているのです。

とはいえ近年は、早期リタイア(RE)は仕事からの引退ではなく、好きな仕事で長く働くことに変わってきました。現代社会において、もっとも確実に「自己実現」する方法は職業的達成です。大人になってからの人間関係はほとんどが
仕事を介したものですから、いったん「リタイア」してしまうと、金融資本は持っていても、人的資本も社会資本もすべて失ってしまいます。貯蓄を食いつぶすだけで誰からも評価されないのでは、有意義な人生を送るのは難しいでしょう。

「生涯現役」や「生涯共働き」という言葉も当たり前に使われるようになりました。「なにを机上の空論をいっているのか」と批判された頃に比べれば、日本社会も確実に変わりつつあります。

専門的なスキルを使って「生涯現役」で働けば、年収300万円としても、60歳から80歳までの20年間で6000万円、「生涯共働き」なら総世帯収入は2人で1億円を超えます。一方、定年退職者は年金以外の収入はゼロです。日本でも経済格差が社会問題になっていますが、ほんとうの「格差」は65 歳以降に生じるという当たり前の事実(ファクト)に、これから誰もが気づくことになるでしょう。

ミニマリズムは必要最小限のモノだけのシンプルな暮らしで、FIREは必然的にミニマリストでもあります。なぜなら、お金を使うとお金は貯まらないから。デジタル・ミニマリズムというのもあって、こちらは「スマホ断ち」などでSNSなどから距離を取ることをいいます。

ミニマリズムの背景にあるのは、大衆消費文化(モノ)やデジタル化(情報)によって脳の報酬系をハックされているという恐怖感でしょう。企業にとっては、いったん報酬系をロックインしてしまえば、消費者を自社の商品・サービスの「依存症」にできます。どんなに倫理的な企業でもこの誘惑を拒否できるはずはなく、AI(人工知能)とビッグデータを使って収益を最大化しようとすれば、必然的に脳をハッキングするビジネスモデルができ上がるのです。

テクノロジーの最先端を行くシリコンバレーで、ミニマリズムと並んでストア哲学やマインドフルネス(仏教)が流行しているのは、自分の脳が日常的にハックされていることに気づいている(あるいは自ら開発している)からでしょう。

ミニマリストの生活をしながらFI(経済的独立)を実現し、それでもカジュアルな暮らしを続けるとBOBOSになります。彼ら/彼女たちは、フリーエージェントとして働く「成功したミニマリスト」です。

AI(人工知能)が囲碁や将棋で人間を超えたと大きな話題になりましたが、シンギュラリティ大学の創設者の一人であるピーター・ディアマンディスは、AIのような単独の技術が世界を変えるのではなく、驚異的なイノベーションは、さまざまな分野で開発されたテクノロジーが「融合(コンヴァージェンス)」することで生まれるといいます。

テクノロジーが指数関数的に進歩し、さまざまな分野で融合することで、これからの10年で世界は大きく変わっていくでしょう。そんななか、旧来と同じルールに従っていては脱落するだけだとの不安が広がるのは当然です。こうして、システムをハックすることでFIを実現しようとする若者が増えています。

これらの社会現象は、すべてつながっています。それをひと言でいうならば、「ハックされるな、ハックせよ」になるでしょう。ますます高度化する一方の知識社会で「自分らしく生きたい」と思えば、世界の若者たちの人生戦略はひとつに収斂していくようです。

2022年2月  橘 玲