同性婚を「類似の制度」で認めることは「不当な人権侵害」なのか 週刊プレイボーイ連載(528)

同性婚を認めない民法や戸籍法の規定が憲法に違反するとして、3組の同性カップルが国に損害賠償を求めた訴訟で、大阪地裁は「違憲とはいえない」と原告の訴えを退けました。

この判決で興味深いのは、「婚姻は、両性の合意のみに基づいていて成立」とする憲法24条1項が、「明治民法下の封建的な家制度を否定し、婚姻は当事者間の合意だけに委ねられるとした」ものだと述べながらも、「両性」とは英語原案の「both sexes」の翻訳で、「(婚姻が)異性間でするものであることが当然の前提」だったとしたことです。この英語原案はGHQがつくったものなので、日本国憲法がアメリカから敗戦国の日本に与えられたものであることを認めたという意味で「画期的」かもしれません。

判決では、同性カップルが法制度の保護を受けられないことで不利益を被っていると認定しつつも、「婚姻類似の制度やその他の個別的な立法」で解消可能で、どのような制度が適切かは民主的な議論で決めるべきだとしました。これについて原告らは「『類似の制度』では差別と同じ」「不当な人権侵害で、本当に悔しい」などと述べ、多くのメディアも「不当判決」という論調です。しかし、「類似の制度」というのはそんなに悪いアイデアでしょうか。

日本における婚姻とは、戸主(筆頭者)の戸籍に配偶者(ほとんどは女)が入って新たにイエを構え、「天皇の臣民」として登録されることです。これは明らかに天皇を頂点とする身分制社会の遺制で、だからこそ「日本人=天皇の臣民」とする保守派・伝統主義者は、どんなことをしてでも戸籍制度を守ろうとするのです。

保守派が同性婚に反対する真の理由は、戸籍の「配偶者」欄に同性の者が記載されると「イエ制度」が崩壊すると恐れているからでしょう。夫婦別姓(別氏)では、戸籍の「氏(うじ)」は血縁集団の名称で、そこに異なる「氏」が入ってくることは制度上、あり得ないとされます。

共同親権も同じで、子どもがどちらかの戸籍に入ったまま両親に「親権」を認めれば、「ほんとうの(戸籍上の)親」と「形式上の親」とのあいだで差別が生じることは避けられないでしょう。

このように日本の場合、夫婦や親子など家族にかかわる問題にはつねに「戸籍」がかかわってきます。それにもかかわらず「夫婦別姓/同性婚は当然だ」と主張するリベラルなメディアは、天皇制の話になる面倒だという理由から、意図的にこの本質から目を逸らせ「きれいごと」だけをいっているのです。

戸籍は世界には日本にしかありませんが、市民社会を個人ではなくイエによって管理しようとするこの古い制度をどのようにリベラルな価値観に合わせていけばいいのでしょうか。ひとつの試案として、相続や子どもの権利などは婚姻と同等の法的保護を保証され、その一方で夫婦別姓や同性婚を許容する、戸籍制度とは別の「カジュアルな事実婚(パートナーシップ)制度」をつくるのはどうでしょう。

この「類似の制度」が婚姻より便利なら、異性愛者のカップルもこちらの方を使うようになり、戸籍制度は形骸化して、たんなる「伝統」になっていくのではないでしょうか。

参考:「同性婚認めぬ法律「合憲」」朝日新聞2022年6月21日

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