30年前に予告されていた戦争

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトでロシアのウクライナ侵攻について書いたものを、全6回で再掲載しています。最終回は1998年に刊行され、今年「緊急復刊」された中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会)の紹介です。(公開は2022年6月2日。一部改変)

キーウの独立広場に展示された、ドンバス地域で戦うウクライナ兵の写真(2015年9月@Alt Invest Com)

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ロシアによるウクライナ侵攻から3カ月がたったが、いまだに戦争終結のシナリオは描けない。プーチンは当初、数日で首都キーウを占領し、ゼレンスキー大統領を逮捕したうえで傀儡政権を樹立できると考えていたとされる。これが戦略的な大失態であることが明らかになって、いまは東部のドンバス地方に兵力を集め、支配地域の拡大を狙っているようだ。

もちろん、ウクライナが国土の割譲を受け入れるはずもなく、停戦の条件は少なくとも2月24日時点の境界線まで戻すことだろう。だがこれでは、プーチンにとって、これだけの犠牲を払ってなにも得られないことになり、権力の維持が困難になるのではないか。

ロシアへの経済制裁にともなう石油・ガスなどのエネルギー資源の高騰や、世界的な穀物不足により、中東・アフリカなど脆弱な国々の政治・社会が不安定化している。ドイツやフランスは早期に落としどころを見つけたいようだが、この状況を収拾する道はまだ見えない。

両国の関係はなぜこんなにこじれてしまったのだろうか。

ウクライナ問題はロシアのアイデンティティ問題

中井和夫氏はウクライナを含む旧ソ連圏の民族史・現代史の専門家で、1998年に刊行された『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会)が今回のウクライナ侵攻を受けて「緊急復刊」された。

本書は、1991年のソ連崩壊からウクライナの独立、ロシア・ベラルーシ・ロシアによるCIS(独立国家共同体)結成に至る時期に書かれたものを中心に、不安定なこの地域が今後、どうなるのかを論じている。

一読して思ったのは「ウクライナ問題とはロシアのアイデンティティ問題」であることと、現在の紛争は30年ちかく前にすでに予想されていたことだ。私は「構造的な問題はいずれ現実化する」と考えているが、これはその不幸な事例ともいえる。

本書の「おわりに」で中井氏は、「旧ソ連圏が抱えている民族問題で最も深刻なのは、ロシア連邦の外に住むロシア人の問題である」として、ウクライナには1200万人の「残留ロシア人」がいることを指摘している。そのうえでこう書いているが、現在のウクライナ侵攻を評したものだとしてもなんの不思議もない。

ロシア人の多くがソ連解体後、ロシアが不当に小さくされてしまった、大国としてのプライドが傷つけられた、と感じはじめている、彼らのナショナリズムは傷つけられたのである。「傷ついたナショナリズム」は、失われたものを、民族の誇りを取り戻そうとする。「帝国復活」を叫ぶ排外主義的保守派が選挙で躍進するのにはこのような理由があり、基盤があるのである。

ロシア・ナショナリズムが強まり、帝国の復活が主張されると、すぐに問題にならざるを得ないのがロシア以外の地に「差別」を受けながら暮らしているロシア人の問題である。不当に苦しめられている在外同胞を救出せよという声がロシア・ナショナリストからあがるのは当然ともいえよう。そしてこの在外同胞救援は「イレデンティズム(本来ロシアの領土であるべき外国の領地を回収しようとする運動)」にすぐに転化する可能性が高いので、ロシア人の多く住んでいる近隣諸国との国境紛争になる可能性が充分にある。

ソルジェニーツィンが夢見た「聖なるロシア」の復活

1990年秋、在米ロシア人作家ソルジェニーツィンがソ連の2つの新聞(合計2650万部)に『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を発表して大きな議論を巻き起こした。

1918年生まれのソルジェニーツィンは、スターリンを批判したとして1945年に逮捕され、強制収容所で8年の刑期を終えたあとカザフスタンに永久流刑された。フルシチョフの「雪解け」後に発表した『イワン・デニーソヴィチの一日』が国内でベストセラーになったものの、ブレジネフの時代になるとふたたび迫害され、1970年のノーベル文学賞受賞のあと、74年に国外追放された。ソ連体制下の強制収容所(グラーグ)の実態を告発した大作『収容所群島』はこの時期に書き継がれた。

ドイツ、スイスを経てアメリカに移り住んだソルジェニーツィンは、やがて西側の物質主義を批判するようになり、正教による「聖なるロシアの復活」というヴィジョンを語りはじめた。

ソルジェニーツィンの「提言」を中井氏は、「ソ連という国に未来はなく、ソ連を解体することでロシアを救わなければならない」として「帝国維持派」を批判、「ロシア建設派」を支持したものだと述べる。「植民地を失った日本が戦後発展したように、また帝政ロシア時代の領土であるポーランドとフィンランドを失ってロシアが以前より強国となったようにロシアは今非ロシアの11の民族共和国を彼らが欲しようと欲しまいとロシアから切り離さなければならない」とこの老作家は述べた。

ソルジェニーツィンの構想する「新しいロシア」の建設にとって鍵となるのは「スラヴの兄弟」たち、すなわちウクライナとベラルーシだった。「ロシア、ウクライナ、ベラルーシの全員が、キエフ・ルーシという共通の出自をもっており、キエフ・ルーシの民族がそのままモスクワ公国を創ったのだ」とするソルジェニーツィンは、「血のつながっているウクライナを切り離そうとするのは不当な要求であり、残酷な仕業である」とウクライナの兄弟たちに「同胞」として呼びかけた。ロシアとウクライナとベラルーシのスラヴ三民族で「汎ロシア連邦」を形成すべきだとしたのだ。

それに対してユーラシア主義は、「ロシアがヨーロッパとアジアからなっており、スラヴ系諸民族とトルコ系諸民族、キリスト教徒とイスラム教徒から構成されている」とする。このロシア二元論では、ロシア帝国はかつてのモンゴル帝国の再現であり、ソ連時代の公式見解では、1917年2月のボリシェヴィキ革命によって解体に瀕していたロシア帝国がふたたびユーラシアの帝国として統合されたことになっていた。

ソ連が解体の危機に瀕していた1990年前後には、大ロシア主義と小ロシア主義が対立した。小ロシア主義者は、「ロシアは周辺の諸共和国に恩恵を施しすぎている、ロシアがロシアのためにその人的・物的資源を活用すればロシアはもっと豊かな国となる。ロシアは「帝国」から普通の「ロシア」に回帰すべきである」と主張した。だがこの現実主義は、93年にはロシアの歴史的使命を唱える「大ロシア主義」へと転換していた。「ロシアは本来大国であり、小さくなりすぎた。大国としての威信を傷つけられた」と感じるナショナリズムが、帝国再建の願望や独立した周辺諸国に対する「侮蔑と怒りの感情」とともに復活したのだ。

その意味でソルジェニーツィンの提言は、汎ロシア連邦からユーラシア主義につながるその後のロシアを予見したものといえるだろう。だがここで中井氏は、ユーラシア主義が成り立つためには「ロシア人もタタール人などアジア系民族もともに「ユーラシア人」としてのアイデンティを受け入れる必要がある」と述べ、それが虚構(空理空論)であることを指摘している。

ロシアの外側に取り残されたロシア人

ソ連は100以上の民族からなる多民族国家だったが、民族間には明らかなヒエラルキー(序列)があった。ロシアを筆頭にウクライナなど15の民族共和国があり、1977年憲法ではその下に20の自治共和国、8の自治州、10の自治管区がつくられたが、これらを合計しても53にしかならず、半数の民族にはそもそも自治権が認められていなかった。

ロシア人はソ連では経済的な特権階層ではなかったが、ソ連邦を支え維持していくという「帝国意識」をもった「主導民族」とされた。ロシア共和国のいちばんの特徴は、ソ連時代に「ロシア共産党」がなかったことだ。同様に、民族共和国や自治共和国ごとに設立された内務省や国家安全保安委員会(KGB)も存在しなかった。「ロシア」と「ソ連」は一体化していたのだ。

そのことがよくわかるのが、ロシア人の周辺諸地域への大量移住だ。たとえばエストニアでは、1945年に2万3000人だったロシア人が89年には47万5000人になっている。この移住政策には、「民族・文化的に入り交じったロシア語を話す超民族的「ソヴェト人」の形成を促す目的があった」とされる。だがその結果は大きな社会的混乱で、エストアでも隣国ラトヴィアでも、この時期に移住してきたロシア人に国籍を付与せず、膨大な無国籍者を生み出したことが政治・社会問題になっている。

中井氏によれば、「ロシアのソ連への拡大」は1970年代半ばには逆転し、中央アジアではロシア系住民のロシアへの帰還が顕著になった。「ロシア人の「帝国意志」がしだいに失われるのに伴い、ロシア人の「辺境」進出も終わり、ロシア人は広義の「ソ連」から「ロシア」へ帰還しはじめた」のだ。

こうした人口動態の変化と、民族共和国や自治共和国における民族意識の高まりのなかで、その地域に暮らすロシア人たちは、自分たちが「外国人(Foreigners)」であることを意識させられるようになった。これが「残留ロシア人」で、ウクライナ東部のドンバス地方はその典型だ。ソ連崩壊はロシア人をソ連から「解放」したが、その代償として、ロシアの外に住むロシア人を「外国人」にしたのだ。

ドンバスにはドネツクとルハンスクの2つの州があるが、1990年時点で、ドネツクの44%、ルハンスクの45%がロシア人で、それに加えてドンバスのウクライナ人の34%がロシア語を母語だと答えた。この地域ではウクライナ独立を目指す民族運動は強い支持を得ていたわけではなく、かえってウクライナの「連邦化」を目指す動きが活発化した。これらの組織はドンバスの自治、独自の民警組織、ロシア語をドンバスの国家語とすることなどを要求した。

その背景には、独立後のウクライナにおけるウクライナ語公用化への反発がある。ソ連時代はロシア語が行政機関などで使われる第一言語とされていたのだが、それが「公務員はウクライナ語とロシア語の両方ができなければならない」とされ、一定期間内にウクライナ語とロシア語の両言語の習熟に失敗すると解雇されることになった。とはいえ、行政機関にいるウクライナ人は誰もがロシア語を話せたから、この政策がロシア語しかできないロシア人の排除を目的とするものなのは明らかだった。

ドンバスに住むロシア人はこれを「強制的なウクライナ化」であり、自分たちの(ロシア人としての)アイデンティティを否定するものだと反発し、ロシア語とウクライナ語に同じ地位を付与する「ニ言語政策」を要求した。94年にはドンバスでロシア語を公用語とすることに賛成か反対かを問う住民投票が行なわれ、90%以上の圧倒的賛成で「二言語政策」が支持されたが、当時のクチマ大統領はこの住民投票を無効として拒否した。

スターリンの民族浄化

ドンバスよりさらにやっかいなのは、2014年にロシアが一方的に占拠・実効支配したクリミアだ。そもそも、黒海に突き出たこの半島はどこに帰属するのだろうか。

クリミアは古来、黒海貿易の要衝で、紀元前からギリシア人が多くの植民都市を建設した。セバストポリ郊外のヘルネソス遺跡はその代表的なものだ。

キーウ・ルーシが衰退すると、クリミア半島はステップ地帯の遊牧民が支配し、モンゴルによるキプチャク汗国が衰えたあとはクリミア・タタールの建てたクリミア汗国の祖地となった。「タタール」はモンゴル系やテュルク系などさまざまな遊牧民の総称だ。

クリミア・タタールの支配は14世紀から18世紀末まで長期にわたるが、それとは別に、14世紀にクルミア半島北部のステップ地帯にコサック集団が成立した。コサックは「群れを離れた者」を意味するトルコ系の言葉で、最初のコサックは、本来所属しているクリミア汗国から離れてステップ地帯で自由に活動するようになったトルコ系クリミア・タタールの集団だった。

このステップ地帯に15世紀末、主に逃亡奴隷からなるスラヴ人コサックが南下してきて、16世紀末にはドニエプル川中流のザポロージェを中心に強大なコサック共和国を築いた。17世紀半ばにモスクワの支配に服し、コサック自治共和国として100年ほど維持されたものの、1776年、エカチェリーナ二世によって自治は廃され、ザポロージェの本営も破壊された。10年後、クリミア汗国もロシア帝国に併合され、ロシア帝国は黒海艦隊を有することになった。

この歴史からわかるように、クリミアはもともとタタール人の国で、その北部にスラヴ系のコサックの国があった。ロシア革命後の1920年代にはクリミア・タタール人を中心としたクリミア自治共和国が形成されたが、独ソ戦の末期、クリミア・タタール人が「対独協力」の罪で中央アジアに流刑に処され、自治共和国は消滅しロシア共和国のひとつの州にされた。

1793年の人口調査ではクリミアのタタール人は83%を占めたが、1939年(強制移住前)はロシア人が半分、タタール人が19.4%、ウクライナ人が13.7%となっている。ところが1959年の調査では、クリミア・タタール人は民族名の項目にすらあげられていない。

1944年5月17日の深夜から翌8日の未明にかけて、クリミア半島に住むタタール人はソ連秘密警察部隊によって村の広場や駅に着の身着のままで集められ、家畜運搬用の列車あるいは無蓋貨物列車に乗せられ、行先も告げられないまま強制移住させられた。25万人のひとびとが一夜にして消えてしまうというエスニック・クレンジング(民族浄化)だった。

ちなみに北コーカサスでも、1944年1月23日、スターリンによる強制移住が行なわれ、30万人以上のチェチェン人と9万3000人のイングーシ人が中央アジアに1日で強制移住させられた。のちのフルシチョフの証言によれば、スターリンはウクライナ全土からウクライナ人を移送することも考えたが、数千万の規模の強制移住は非現実的で、断念したという。

クリミア・タタール人のなかに、ドイツ占領下でドイツ軍に協力した者がいたことは確かだが、大部分は赤軍の側に立ってドイツ軍と戦った。だが戦後、共産党はドイツ軍に対抗したパルチザン地下抵抗運動の記録を隠蔽し、クリミア・タタール人全体が祖国を裏切ったという印象をつくりだした。ヒトラーの「東方部隊」に加わったクリミア・タタール人はおよそ2万人と考えられているが、そのほとんどは戦死するか、ドイツの収容所で死亡するかしたため、強制移住された25万のなかに実際に対独協力した者はほとんど含まれていなかったという。

ロシア共和国に編入されたクリミアは、1954年にフルシチョフによってウクラナ共和国に移管された。その背景には諸説あるが、当時、フルシチョフとベリヤのあいだでスターリン死後の権力争いが行なわれており、有力な地方支部であるウクライナ共産党の支持を取り付けようとしたからではないかと中井氏はいう。もちろんこのとき、将来、ウクライナが独立するなどということはまったく想定されていなかった。

クリミア・タタール人は1967年に名誉回復されたものの、クリミア半島への帰還は許されなかった。90年以降、ようやく帰還が認められ、およそ25万人がクリミア半島に住み着いたが、これがロシア系やウクライナ系の住民とのあいだに強い軋轢を生じさせた。このときのクリミアの民族構成はロシア人が67.0%、ウクライナ人が25.8%で、ほとんどがロシア語を第一言語としていた。

このような歴史を顧みれば、クリミア半島の支配を正当化できる理由はロシアにもウクライナにもない。

「新東欧」の誕生と西欧によるロシアの「新封じ込め」

ソ連時代は、オーストリアとチェコスロバキアが「中欧」、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが「東欧」とされていた。だがソ連が解体すると、「東欧」の東にエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国と、ベラルーシ、ウクライナ、モルドヴァという新しい国が誕生した。

中井氏はこれを「新東欧」と名づけ、「旧東欧」は中欧に含まれることになったという。「概念としての東欧は東に移動した」のだ。

「(今後)旧東欧地域が明確にNATO、EU加盟をめざすことになれば、ロシアとしてはさらなるNATO、EUの東への拡大を阻止するために「新東欧」をバッファ(緩衝地帯)としてロシアの勢力圏に確実に組み込むことが政策の優先順位になる」と20年以上前に中井氏は書いたが、その後の経過はこの予想を正確になぞることになった。

NATOには、1999年にチェコ、ハンガリー、ポーランド、2004年にエストニア、ラトビア、リトアニア、スロバキア、ルーマニア、ブルガリア、スロベニアが加入、EUには2004年にチェコ、スロバキア、エストニア、ラトビア、リトアニア、スロベニア、07年にブルガリアとルーマニアが加盟した。こうして、西欧による対ロシアの「新封じ込め」が完成した。

この動向をロシアは、「冷戦終結で旧ソ連の軍事ブロックは解消したのに、NATOは肥大化して“前進”を進め、ロシアを孤立化させようとしているのではないか」と警戒した。95年にブルガリアを訪問したロシア首相チェルノムイジンは、「NATOの急速な拡大は欧州を2つの陣営に分裂させ、新たな冷戦を引き起こす危険がある」と述べている。

旧東欧とバルト三国がEUとNATOのメンバーになった以上、ロシアにとって安全保障上、死活的に重要なのは、これ以上の「西欧の東進」を阻止し、ベラルーシとウクライナの「新東欧」を自らの勢力圏にとどめておくことだった。

そのウクライナでは、独立以降、スターリン治下のホモドロール(大飢饉)など歴史の見直しが進められた。

東方正教会(ユニエイト)は16世紀後半、ガリツィア(ウクライナ西部で、当時はハプスブルク帝国のポーランド領)で生まれたウクライナ人の宗教だ。カトリック(イエズス会)の活発な布教活動に対抗するため、正教の典礼を用いつつカトリックの教義とローマ教皇の首位権を受け入れる「折衷」宗派がつくられたのだ。ソ連統治下では東方正教会はロシア正教に「合流」させられ、教会財産も移管された。独立後はこれが問題となり、ユニエイト教会の名誉回復、完全な合法化、教会財産の返還、ロシア正教会の謝罪などが要求されるようになった。

それに対してウクライナにおけるロシア正教の代表は、「ウクライナ・カトリック教会の再建を叫んでいる者はごくわずかな狂信者で、その数は数千人にすぎない。彼らは外国勢力と手を結ぶファシストたちである」と反論している(それに対してユニエイトたちは、教会再建を要求する署名を1カ月のあいだに10万通集めて対抗した)。これはペレストロイカ下の1989年のことだが、当時からウクライナの「反ロシア」運動が“ファシスト”と呼ばれていたことがわかる。

5月8日の大祖国戦争(第二次世界大戦)戦勝記念日の演説で、プーチンは「昨年(2021年)12月、われわれは安全保障条約の締結を提案した。ロシアは西側諸国に対し、誠実な対話を行ない、賢明な妥協策を模索し、互いの国益を考慮するよう促した。しかし、すべては無駄だった。NATO加盟国は、われわれの話を聞く耳を持たなかった」「NATO加盟国は、わが国に隣接する地域の積極的な軍事開発を始めた。(略)アメリカとその取り巻きの息がかかったネオナチ、バンデラ主義者との衝突は避けられないと、あらゆることが示唆していた。繰り返すが、軍事インフラが配備され、何百人もの外国人顧問が動き始め、NATO加盟国から最新鋭の兵器が定期的に届けられる様子を、われわれは目の当たりにしていた」などと述べて、ウクライナへの侵攻を正当化した。

四半世紀前に刊行されたこの本を読むと、ソ連崩壊以降、すべてが予定調和のように進んでいったように思えるのだ。

第1回 ロシアは巨大なカルト国家なのか?
第2回 陰謀論とフェイクニュースにまみれた国
第3回 「プーチンの演出家」が書いた奇妙な小説を読んでみた
第4回 「共産主義の犯罪」をめぐる歴史戦の末路
第5回 ロシアはファシズムではなく「反リベラリズム」

禁・無断転載

分断が深まるとうまくいく場合 週刊プレイボーイ連載(533) 

日本でも海の向こうでも、SNSが社会を分断させているとの声が強まっています。しかしこれには異論もあり、「特定の政治課題で意見が分かれているだけで、有権者の多数派はむかしもいまも中道だ」との調査もあります。とはいえ、SNSの内部では分断(というより罵り合い)がますます強まっていることは間違いないでしょう。

興味深いことに、「分断が深まれば深まるほどものごとがうまくいく」ということがあり得ます。

アメリカでは、黒人が警官に射殺されるたびに大規模な抗議デモが起きています。人種問題はもっともひとびとの感情を煽るので、こうした事件を記述したWikipediaのページは大混乱になると思うでしょう。ところが専門家によると、政治的に敏感なトピックほど説明は詳細かつ正確になり、政府や司法機関の報告書に匹敵するものもあるといいます。

2014年、ミズーリ州ファーガソンで18歳の黒人青年が白人警官に射殺された事件では、警官が無罪になったことへの抗議デモが暴動に発展し、夜間外出禁止令が発令される事態になりました。この事件についての英文のWikipediaの記述は、事件の背景、分単位の事件経過と発砲時の位置関係の図解、現場検証や検視結果、警官・目撃者の証言、裁判の経緯やその後の民事訴訟まで、A4判で30ページ以上にもわたって記述されています。

なぜこんな詳細なページが実現したのでしょうか。それは、執筆者が政治イデオロギーによって対立しているからです。

民主党寄りの執筆者は、「警察=悪/黒人=被害者」という構図を描きがちです。それに対して共和党寄りの執筆者は、「警察官は(犯罪者を取り締まるという)職務を執行しただけだ」と考えるでしょう。この時点で、双方に妥協の余地はどこにもありません。

ところが両者が同じ事件について書こうとすると、厳密なルールに拘束されていることに気づきます。「発砲した警官はレイシストに決まっている」とか、「相手は犯罪者だったにちがいない」などの記述は、たちまち相手側に削除されてしまうのです。Wikipediaでは、「いかなる記述も証拠(エビデンス)に基づいていなければならない」と決められているからです。

そうなるとどちら側も、相手の主張を打ち破ろうとすれば、それを上回る証拠を探し出してこなければなりません。このようにして報道だけでなく、警察発表や裁判で提出された資料まで徹底的に調べつくされ、専門家を驚かすようなレベルに到達するのでしょう。執筆・編集のガイドラインが、いわば党派対立をスポーツ(一定のルールの下でお互いが全力でぶつかり合い、相手を叩きのめす闘い)にするように巧妙につくられているのです。

ここまでは素晴らしいことですが、すでにお気づきのように、この仕組みを普遍化して、SNS全体を“闘議のアリーナ”に設計することはほぼ不可能です。その結果、今日も、明日も、さまざまな政治的トピックをめぐって、なんの生産性もない罵詈雑言でSNSの言論空間が埋め尽くされることになるのでしょう。

参考:イアン・レズリー『Conflicted(コンフリクテッド) 衝突を成功に変える方法』橋本篤史訳、光文社

『週刊プレイボーイ』2022年8月22日発売号 禁・無断転載

時代革命と陰謀論

2019年から香港で始まった大規模な民主化運動を描くドキュメンタリー映画『時代革命』が公開されたので、それに合わせて、19年8月に香港を訪れたときの記事を再公開します。映画では7月の立法会(香港の議会議事堂)占拠事件と、11月の香港中文大学、香港理工大学の籠城が描かれていますが、私が訪れたのはこの2つの大きな出来事の間で、デモ参加者による香港国際空港の占拠で大きな混乱が起きた直後でした(「海外投資の歩き方」のサイトで2019年8月30日公開。一部加筆修正)。

通行止めとなった車道を歩いて駅に向かう8.18デモの参加者 (ⒸAlt Invest Com)

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香港の国際空港が民主化運動のデモ隊に占拠され、空の便が大混乱となった4日後の2019年8月18日から21日まで、3泊4日で香港を訪れた。

私はジャーナリストではないのでデモの渦中に飛び込んで取材するのが目的ではなく、香港の友人と久しぶりに広東料理でも食べながら飲もうと約束して航空券を予約したら、たまたまこの時期になってしまった。前日までは香港便が飛ぶかどうかわからなかったが、空港の混乱が収束したようなので予定通り出かけることにした。

飛行機の座席はそれなりに埋まっていたものの、いつもなら混みあっている入国審査場にいるのはほとんどが帰国する香港市民で、外国人用のカウンターはがらがらだった。

現在は、空港の出発ロビーに入るにはパスポートなどのIDと搭乗証明書類が必要で、デモ隊が占拠することはできなくなった。ただし、市内と空港を結ぶエアポートエクスプレスのホームから出国ロビーへの入口は1カ所しか開いておらず、いまは旅行者が少ないから問題ないものの、大量の出国者をスムーズに処理するのは難しそうだ。そのためか、ホテルでは出発時間の3時間前には空港に着くようにアドバイスされた。

「正常化」した香港国際空港の出発ロビー (ⒸAlt Invest Com)

民主化デモに参加する中学生や高校生

香港に着いた8月18日(日)は大規模な集会が行なわれており、午後6時半頃に香港駅でエアポートエクスプレスを降りると、家路に向かうらしい黒シャツ姿の若者たちとすれちがった。

中環(セントラル)のホテルにチェックインし(フロントのスタッフはいっさいデモについて触れなかった)、午後7時過ぎに金融機関や行政施設が集まる中心部まで様子を見に出かけた。

この日の集会は銅鑼湾(コーズウェイベイ)にあるヴィクトリアパークで行なわれ、その後、警察の許可を受けないまま中環に向けて行進したが、大きな混乱は起きなかった。主催者発表の参加者は170万人で、6月の約200万人に次ぐ大規模なデモとなり、抗議行動が衰えていないことを内外に示した。一方、警察発表は12万人で主催者発表と10倍以上のちがいがあり実数は不明だが、メインストリートを埋め尽くす群衆の映像を見ても100万人以上の市民が参加したことは間違いないだろう。

夕方からはげしい雨になったようで、夜になって小降りになってきたものの、駅に向かう黒シャツ姿の参加者はみな傘をさしていた。若者が圧倒的に多いが、中高年の男女の姿も少なくなく、デモが香港市民の広範な支持を受けていることがわかる。海外の報道関係者に混じって、デモに参加したらしい黒いシャツを着た欧米人の若い男も何人か見かけた。

雨のなか傘をさして帰路につくデモ参加者。若者だけでなく中高年の姿も少なくなかった(ⒸAlt Invest Com)

黒シャツの若者たちは地下鉄駅の構内や歩道橋などに友だち同士で集まって、撮影したデモの写真や動画を見せあっていた。それを編集して、SNSなどにアップするのだろう。そうすると、世界じゅうから応援のメッセージが送られてくる。この達成感が、デモに参加する大きなモチベーションになっているようだ。そのなかには高校生というより中学生にしか見えない女の子のグループもいた。

下の写真は、地下鉄香港駅に隣接する国際金融中心の高級ショッピングモールで見かけた光景。ファストフードのヌードルショップだがけっして安くはなく、1人1000~1500円はするだろう。そんな店で、デモに参加した若者が友人たちと、あるいは恋人同士で食事をしていた。裕福な家庭で育った高校生・大学生たちも積極的にデモに参加しているようだ。

デモのあとグループやカップルで食事をする若者たち(ⒸAlt Invest Com)

この日の大規模デモは平和的に行なわれたが、その後、ふたたび警察と衝突し、放水車や催涙ガスが使われる事態になった。とはいえ地下鉄などの公共交通機関は通常どおり運行しており、デモのない平日の金融街や繁華街は拍子抜けするくらいふつうだった。ホテル代は大幅に値下がりしており、高級ホテルも通常の半額程度で泊まれる。

香港の知人からは、デモの参加者に間違えられやすい黒いシャツや、親中国の武闘派と見なされる白いシャツは避け、デモの標的になりやすい警察署や政府施設には近づかないように強くいわれていた。実際には、平日でも黒や白のTシャツ姿の一般人はたくさんいた。下の写真はデモの翌日の繁華街だが、揃いの黒シャツ姿のグループは民主派への支持を表わしているのだろう。

8.18デモの翌日、繁華街の蘭桂坊(ランカイフォン)を歩く黒シャツ姿のグループ (ⒸAlt Invest Com)

「中国の悪口をいったら、ある日突然拘束され、そのまま本土に連れて行かれるかもしれない」

香港特別行政区政府による逃亡犯条例の改正がデモのきっかけとなったことはすでに多く報じられており、ここで説明を繰り返すことはしないが(Wikipediaの「2019年逃亡犯条例改正案」の項目が詳しい)、ポイントは中国本土にも刑事事件の容疑者を引き渡すことができるようになることと、条約締結国からの要請を受けて香港内の資産凍結や差押えを行なえるようになることだ。

民主派や人権派弁護士などがこれを問題視したのは、2016年に銅鑼湾の書店主など出版関係者が中国国内で半年ちかくも拘束される事件があったからだろう。関係者が沈黙を守っているため真相は明らかではないが、拘束の理由は習近平のスキャンダル本を企画したからで、そのうちの1人は中国当局者によって香港から連れ去られたとされる。逃亡犯条例が改正されれば、こうしたことが秘密裏ではなく堂々と行なえるようになる。「人権派」だけでなくビジネスパーソンや一般市民までが不安に思ったのは当然だ。

知人の一人は、「中国の悪口をいったら、ある日突然拘束され、そのまま本土に連れて行かれるかもしれない」といったが、これは大げさではなく、香港人のリアルな恐怖なのだろう。

民主派・人権派からの批判に対して林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は当初、香港市民への説明を拒否し、改正案成立を数で押し切ろうとした。その結果、それまで散発的に行なわれていたデモの規模が拡大して世界を驚かせた6月9日の「200万人デモ」に発展し、7月には立法会(香港の議会議事堂)が一時的に占拠されるに至った。

今回、金融関係者を中心に何人かの知人・友人の話を聞いた。全員が逃亡犯条例改正には反対だが、デモには参加せず一定の距離を置いており、「心情的には理解できる」から、(行政長官が「逃亡犯条例は事実上の廃案」と言明したことを受けて)「そろそろ終結させるべきだ」とする者まで立場はさまざまだった。

しかしそれでも、「これは個人的な意見なんだけど」とか、「ネットに流れているたんなる噂だけど」などの前置きをつけて、全員が同じような話をした。なんの証拠もないとはいえ、なかには金融機関の役員クラスもいるから、いい加減な与太話というわけでもない。

そんな「噂」のひとつを紹介しよう。それは、「デモ鎮圧の警察官を怪我させれば8000香港ドル(約10万円)、死亡させれば5万香港ドル(約70万円)の懸賞が出ている」というものだ。

にわかには信じられないが、これは私の友人が香港警察の知り合いから聞いた話だ。懸賞の真偽は別として、このような噂が香港の警察官のあいだに流れていることは「事実」のようだ。

これから一般のニュースには流れない「噂」を紹介したいと思うのだが、そこから、香港の警察内部になぜこのような「陰謀論」が生まれるのかもわかるだろう。

民主化デモについて、香港人のあいだで語られている「噂」

今回のデモの大きな特徴は「リーダー不在」だとされる。デモを主催する民主派団体はいくつかあるが、2014年の香港反政府デモ(雨傘運動)のときのようなリーダーがいるわけではなく、交渉相手がいないことが香港政府の対応を難しくしている。これはジレジョーヌ(黄色ベスト)デモに苦慮するフランス政府と同じで、SNSを駆使した新しいタイプの「リーダー不在の抗議行動」といえるかもしれない。

しかし、私が話を聞いた知人たちはいちようにこうした見解を否定した。そして、次のような「噂」を教えてくれた。

「それなりに統制のとれていた雨傘運動のデモだって、1カ月くらいしか続かなかった。ところが今回は、2カ月以上たってもまだ大規模なデモを組織することができる。SNSで烏合の衆があれこれいうだけで、これだけのエネルギーを維持できるだろうか」

「空港を占拠するなんて、これまで誰も思いつかなかった戦術が、なんの指示もなく自然発生的に始まった、なんてことがあるだろうか。建物内には外国人旅行者もたくさんいるから、催涙弾を使ってデモ隊を強制排除することはできない。そのうえ、世界へのアピール効果は抜群だ」

「地下鉄のドアが閉じないようにする戦術を、一般の学生が自主的に一斉に始めるなんてことがあると思うかい? 乗客から罵声を浴びるかもしれないし、トラブルになって逮捕されるかもしれないんだよ」

そして「噂」は、デモの最前列にいる若者たちの「装備」に焦点を移す。映像で見たことがあるかもしれないが、彼らはゴーグルと防毒マスクで催涙ガスを防ぎ、高性能のレーザーポインターで警察官を挑発し、警察署や政府機関を「攻撃」する。参加者へのインタビューでは、こうした装備は「もらった」のだと答えている。

「もらった、ということは、配った人間がいるということだろ」と「噂」はいう。「そのためには装備を調達するだけでなく、それを効率的に配布する多くのスタッフも必要だ。装備一式を500香港ドル(約8000円)としても、1000人分なら50万香港ドル(約800万円)、1万人分なら500万香港ドル(約8000万円)だ。そんなことを2カ月もつづけてるんだから、巨額の資金が投じられていても不思議じゃない」

「デモの参加者の大半がSNSなどで自主的に集まったのは間違いないよ。でも警官隊とぶつかる最前列は危険だから、活動家には1日1000香港ドル(約1万5000円)の日当が払われているという噂がある。あくまでもネット情報だけどね」

私が話を聞いたなかで、デモが「自生的に」行なわれていると考える者は1人もいなかった。大きな資金力をもつきわめて有能な「組織者(オーガナイザー)」がいなければあり得ないほど、今回のデモは高度に戦略的に展開されているのだ。

デモを応援する寄せ書きが貼られた掲示板(ⒸAlt Invest Com)

民主化デモを裏で操っているのは誰?

デモを裏側で操る「組織者」とは誰だろうか? これについては、大きく3つの説に分かれた。

第1は「アメリカ陰謀論」で、中国政府が主張しているものと同じだ。だがこれについては、金融関係者の多くは、「そんなことをしてもアメリカにメリットはない」と懐疑的だった。

CIAが工作しているとすると、それは大統領の承認を受けているはずだ。だがトランプは、香港情勢について習近平と会談し、仲介役になってもいいとTweetしている。そんなときにアメリカが裏で民主活動家を支援していることが暴露されればトランプの面目は丸つぶれで、来年の大統領選挙にもダメージを与えるだろう。だとすれば、そんなリスクの大きな計画を承認するわけはない、というのだ。

もっとも香港の民主派がアメリカの反共保守の政治家とつながっていることは公然の秘密で、そのルートから資金が流れているということはあるかもしれない。

第2は「中国共産党権力闘争説」で、共産党内部で習近平と敵対する勢力が後ろ盾となってデモを行なわせている、というものだ。習近平が強力に推し進める「反腐敗運動」では多くの有力者が失脚し、「敵」をつくったことは間違いない。それを考えればこの説は魅力的ではあるものの、共産党内部はブラックボックスで、いったい誰(どの勢力)がデモを操っているのか具体的に説明できないのが難点だ。

第3が「香港大富豪黒幕説」で、金融関係者にはこれがいちばん支持者が多い。この説は、逃亡犯条例が成立すると香港内の資産凍結や差押えを行なえるようになることに注目する。

香港の大富豪で、中国で大きな商売をしていない人間はいない。中国側には必ず、ビジネスパートナーがいる。その相手が、習近平の政敵として粛清されたとしたらどうだろう。香港の大富豪であっても、共産党は容赦なく中国に連行し、不動産など香港の資産を差し押さえるかもしれない」

「そもそも、こんなに評判の悪い逃亡犯条例を無理矢理成立させようとしたことが怪しいんだ。そこに中国政府の強い意志があるとするなら、「将来のため」というような漠然とした理由ではなく、すでに明確な標的がいるのかもしれない。大富豪がそのことに気づいていれば、どんな手段を使ってでも、どれだけ金をかけても、逃亡犯条例を廃案にしようとするんじゃないのかい」

そのように語るとき、特定の人物が(おそらく)念頭にあるのだろうが、私にはその名前まで教えてはくれなかった。

この変種として、「中国大富豪黒幕説」もある。中国で経済的に成功した者は、香港を通じて資金を海外に逃避させたり、香港の不動産に投資したりしている。逃亡犯条例ができれば、香港で暮らす家族を拘束したり、香港の資産を差し押さえることができるようになるというのだ。

 楽観論と悲観論

もちろんデモを操る「黒幕」などおらず、「陰謀論」は根も葉もないものばかりかもしれないが、それでも活動家には「組織者」から相当な額の資金が渡されていると考えている香港人は多い。だとすれば、香港警察が疑心暗鬼になって、「警察官に懸賞がかけられている」という「噂」を信じるようになっても不思議はないだろう。

当然のことながら、香港の行政当局や中国共産党も、何者かが裏でデモを操っているにちがいないと考えており、それが対処を難しくしている。

だとすれば、これから香港はどうなるのだろうか? これは楽観論と悲観論に分かれた。

楽観論は、「中国は武力で香港を征圧することはしないし、9月になればデモも徐々に収束する」というものだ。

「活動家の狙いは香港を「第二の天安門」にすることで、その瞬間を報道しようと世界じゅうからジャーナリストやカメラマンが集まっている。それがわかっていて、香港に軍や武装警察を送り込むほど共産党はバカじゃないよ」というのが典型的な意見で、ビジネスパーソンのあいだでは主流だ。そこには、香港が大混乱に陥れば自分たちのビジネスも立ち行かなくなるという事情もあるだろうが。

9月収束説は、学校が始まればデモの主体である大学生や高校生がこれまでのように参加できなくなるだろう、というものだ。目下のところ、香港の行政当局の唯一の戦略が「新学期の開始を待つ」ことだという。

だがもし香港の大富豪が黒幕なら、「(逃亡犯条例は)来年7月には自然に廃案になる」という行政当局の説明に納得するはずはない。デモが収束したあとで、いつでも「状況が変わった」として再審理にかけることができるのだから。

そこで悲観論は、10月1日の国慶節をデッドラインとする。毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したこの記念日に香港で大規模デモが行なわれることになれば、共産党内での習近平の威信は大きく傷つく。だとすれば、武力を投入してでもそれまでにデモを鎮圧しようとするにちがいない、というのだ。

そのうえで、私が話をした知人たちの誰一人として、「香港独立」はもちろん「民主化(普通選挙)」が実現すると述べる者はいなかった。香港は中国(共産党)の統治下にあり、自分たちではなにひとつ決められないというのだ。

西欧化した価値観のなかで育った香港の若者たちが求めているのは、言論・表現の自由や民主的な選挙など、グローバルスタンダードのリベラリズム(自由主義)だ。そしてこれが、リベラルな社会をあきらめざるをえない中国国内で、香港のデモがなんの共感も呼ばない理由になっている。習近平(共産党)は「独裁」ではなく、14億の人民の「なぜ香港だけを特別扱いするのか」との不満に押され、引くに引けなくなっているのだ。

雨のなか帰路につくデモ参加者は口々に、「光復香港、時代革命(香港を取り戻せ、革命の時代だ)」と叫んでいた。

香港のあちこちで見かけた「光復香港、時代革命」の標語(ⒸAlt Invest Com)

【後記】

その後、9月にキャリー・ラム行政長官が「逃亡犯条例改正案」の撤回を表明したが抗議行動の勢いは収まらず、10月に香港政府によって「覆面禁止令」が施行。11月には名門大学である香港中文大学と香港理工大学で学生たちによる籠城が起きたが、警察によって包囲・制圧された。

2020年に入ると新型コロナの影響で、公共の場に5人以上で集まることが禁止されるなど、抗議行動が不可能になった。5月に中国全人代で「国家安全法」の香港への適用が採択、6月に施行されたことで、「一国二制度」は事実上崩壊した。