ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
トランプ政権によるベネズエラ大統領の拘束という大きな事件があったので、2021年6月の記事をアップします。(一部改変)

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2019年に『ダリエン地峡決死行』(産業編集センター)で衝撃のデビューを果たした北澤豊雄氏は、いまでは“絶滅危惧種”となった冒険作家だ。ダリエン地峡はコロンビアとパナマの国境地帯で、アラスカからアルゼンチンまで続くパン・アメリカン・ハイウェイが唯一、分断されている「世界で最も過酷な国境」だ。
なぜ道路がつくれないかというと、「熱帯雨林の湿地帯が建設を困難にしている」というのが公式の理由だが、ゲリラや右派民兵組織が戦闘を繰り返し、マフィアの武器・麻薬の密売ルートになっているからのようだ。
北澤氏は29歳で南米に渡り、コロンビアでスペイン語を学んだのち、1年かけて南米大陸を回ったり、ガルシア・マルケスなど南米文学の舞台となる先住民族地域を訪れたりした。そんな日々にも飽きてきた頃、世話になっている日本料理店の社長から勧められたのがダリエン地峡を徒歩で横断する“冒険”だった。
最初の挑戦は国境を越える前にコロンビア軍に拘束され、2度目の挑戦は案内役の都合がつかずにあきらめた。3度目の挑戦でようやく徒歩で国境を越えたが、グループからはぐれて道に迷い、獣から身を守るために木の上で眠る羽目になる。ようやく救出されたものの、こんどはパナマの国境警備隊に拘束されて……という波乱万丈の“冒険”の顛末はぜひ本を読んでいただくとして、今回は第2作『混迷の国ベネズエラ潜入記』(産業編集センター)を取り上げたい。ここでは北澤氏は、コロンビアから国境を越えて「国家破産」したベネズエラを目指す。
「268万%」のハイパーインフレでも、ひとびとはふつうに暮らしていた
2019年当時のベネズエラは「268万%」というハイパーインフレに見舞われ、電気も水道もストップし、国民は続々と隣国に逃げていると報じられていた。凶悪犯罪も多発し、日本での報道を見ている限り、まるで映画『マッドマックス2』や『北斗の拳』の世界だ。
ベネズエラの隣国で大量の難民が押し寄せているコロンビアでもこうした認識は同じで、北澤氏に同行することになった地元のジャーナリストも、「僕らもベネズエラに興味があるんだ。人々は食料がなくゴミ箱を漁り、インフラは度々ストップする。子どもは飢えてろくに教育も受けられない。最低賃金は月額7ドルや8ドルで生活は苦しくコロンビアを筆頭に国外に脱出している」と語っている。
ところが、無事に国境を越えてベネズエラ西部の中都市メリダに到着した北澤氏らは、奇妙な光景に面食らうことになる。人口30万人の街には乗客をたくさん乗せたローカルバスが走り、会社帰りのサラリーマンやOLがふつうに信号待ちをし、八百屋には野菜や果物もたくさんあったのだ。
宿泊したホテルは1泊約650円で、停電は多いがふつうにWi-Fiが使えた。ショッピングセンター内のレストランに食事に行くと、1階の酒屋には4~5人の着飾った若者たちがたむろしていた。聞けば、ディスコテカ(クラブ)が開くのを飲みながら待っているのだという。「そこら中に飢え死に寸前の人々が転がっていると思っていた」のに、最初に出会ったのが「享楽にふける若者」だったのだ。
翌日、タクシーで街を回り、スーパーに立ち寄ると疑念はさらに膨らんだ。「自動ドアの近くには12個入りのトイレットペーパーが7段、その向こうには3キロ袋の米が30段ほど積まれ、飲み物の陳列の一画には1.5リットルのペプシコーラだけがこれみよがしに4段分、およそ200本がぎゅうぎゅうと詰まっていた」驚いたことに、メリダには食料も日用品も薬もたっぷりあったのだ。
値段はトマト1キロ110円、米1キロ80円、トイレットペーパー2個で130円で、ハイパーインフレというわりには手ごろな価格だ。ガソリンは1ガロン8円、大衆食堂のランチは200円ぐらいが相場だった。北澤氏が話を聞いた雑貨店のオーナーは、ヨーロッパに住む息子から「お父さん、食べるものは大丈夫なの? 送ろうか」といわれているが、「この国の本質はそのことじゃないんだ。国がやりたい放題でガバナンスが効いていない。腐っている」と述べた。
これはいったいどういうことだろう? だが1回目の取材では、それを知ることはできなかった。その夜、北澤氏は体調を崩してホテルで休んでいたのだが、歩いて300メートルほどのところにあるバルとディスコテカに出かけ、午前4時まで遊んでいた同行者2人が、帰り路で銃をつきつけられ、財布や携帯電話、パスポートに加えて靴と靴下まで取られてしまったのだ。
こうして、北澤氏の最初のベネズエラ取材はたった2日で終わった。
最低賃金が7年で100分の1に
「268万%のハイパーインフレ」でも、なぜディスコテカで若者たちが踊り騒ぎ、スーパーには商品が並んでいるのか。それにもかかわらずなぜ、膨大なひとびとが国を捨てて出て行くのか。
その理由は、北澤氏の2度目のベネズエラ訪問でようやくわかった。今回は空路で首都カラカスを訪れ、休校になった日本人学校の管理人をしている男性などからベネズエラの生活を聞くことができた。下の表は、こうした取材から北澤氏が作成したベネズエラの月額最低賃金の推移だ。
| ベネズエラの月額最低賃金 | |
| 2012年5月 | 30000円 |
| 2013年5月 | 13000円 |
| 2014年1月 | 5700円 |
| 2015年2月 | 3500円 |
| 2016年5月 | 1300円 |
| 2017年9月 | 600円 |
| 2018年3月 | 600円 |
| 2019年9月 | 200円 |
| 2019年11月 | 400円 |
| 2020年1月 | 400円 |
これを見ればわかるように、2012年には月額3万円だった最低賃金は、翌年には1万3000円、その1年後には5700円と半額以下のすさまじいペースで下がっている。北澤氏がカラカスを訪れた2019年には200~400円と7年前の100分の1になってしまった。
これは、物価のすさまじい上昇に賃金の上昇が追いつかず、現地通貨であるボリバル建ての実質賃金が大きく下落したことを示している。モノの値段が上がるのは通貨ボリバルの価値が暴落したからだが、これは外貨(ドル)建てならモノの値段は変わらないということでもある。メリダでもカラカスでも、日本円に換算すると商品の価格がとくに高いわけではないのはこれが理由だ。
ハイパーインフレでは、現地通貨(ボリバル)建てではモノの値段が急激に上がっていくが、外貨(ドル)建てでは物価は安定している。この状況を現地のひとたちは、「給料がすさまじい勢いで下がっていく」と感じるのだ。
そう考えれば、ひとびとが雪崩を打つように近隣諸国に出国する理由がわかる。コロンビアやブラジルなどで働いて海外の通貨で収入を得れば、同じ仕事でもベネズエラ(月収300円)の数十倍から100倍以上の価値になるのだ。
しかしこれは、現地通貨でしか収入を得られないひとの話で、アメリカなど海外にいる家族から外貨建ての送金を受けたり、資産を外貨建てで保有している富裕層の生活は、(物価上昇の影響を受けないのだから)以前とさして変わらない。高級住宅街で暮らす彼ら/彼女たちは、高級スーパーで買い物をし、レストランで食事を楽しみ、夜はディスコテカに踊りに行くことができる。
しかしそれでも、すべての庶民が国を捨てるわけではない。このひとたちは月収300円でどうやって生きているのだろうか。
9カ月後に再度カラカスを訪れた北澤氏は、ディナという女性の世話になった。コックの夫はコロンビアに単身で移住したが、彼女はカラカスに残って路上でジュースを販売している。
北澤氏によると、ディナがカラカスに残っている理由は2つある。1つはジュース販売がそれなりの利益になるからで、北澤が同行した日の売上は1日390円、天気のよい日は1日1000円を稼ぐときもある。月収300円ではとうてい生活できないが、インフォーマル経済はそれなりに成り立っており、なんとか生きていくことができるのだ。
もう1つの理由は、好立地にある5階建てマンションの部屋の権利を守るためだ。95年に賃貸契約したが、2014~15年に政府が買い上げて分譲になることに決まった。だが政府がビルのオーナーに資金を払っていないため、不動産の権利があいまいになっている。
こうした場合、家を空けているあいだに誰かに占有されると、その部屋に住む権利が奪われてしまう。そのため夫が海外で働き、妻がカラカスで家を守ることになったのだという。
「国家破産」したベネズエラではさまざまな異常なことが起きているが、その環境のなかで、ひとびとはせいいっぱい合理的な選択をしている。その結果、国を出るひともいれば残る者もいることになるようだ。
かつては「南米でもっともゆたか」な国だった
豊富な石油資源に恵まれ、かつては「南米でもっともゆたか」といわれたベネズエラは、なぜこんなことになってしまったのか。そんな疑問にこたえてくれるのが、坂口安紀氏の『ベネズエラ 溶解する民主主義、破綻する経済』(中公選書)だ。坂口氏は日本には数少ないベネズエラの専門家で、チャベス政権下の2009~2011年にカラカスで生活した経験もある。
これも詳しくは本を読んでいただくとして、ベネズエラが崩壊する経緯を私なりにまとめると次のようになる。
1990年はじめまでは「ラテンアメリカの民主主義の模範国」とされていたベネズエラだが、政官財が二大政党を政権交代させながら既得権を守ることが常態化し、国民の反発と政治変革への期待が高まっていた。
ウーゴ・チャベスは1992年の失敗した軍クーデターの首謀者として名を知られてはいたものの、1998年の大統領選では支持率9%の泡沫候補でしかなかった。ところが有力な独立系候補を既成政党が支持したことで人気が急落し、どの政党からも支持されなかったチャベスが当選してしまった。有権者は「独立派」なら誰でもよかったのだ。
大統領就任後、チャベスは英雄シモン・ボリバルの名を冠した「ボリバル革命」を実現するとして、国名を「ベネズエラ共和国」から「ベネズエラ・ボリバル共和国」へと改名し、「各種NGOと住民組織など多様な市民社会組織や住民が政治に直接参加する仕組み」の導入による「国民が主人公の参加民主主義」をめざすと宣言。憲法移行体制の名目で、国会、最高裁、国家選挙管理委員会、州議会など、旧憲法で任命されたすべての国家権力を解散、あるいは無効にした。
新憲法の下での大統領選挙と国会議員選挙にはなんとか勝利したものの、その後の経済状況の悪化もあってチャベスの支持率は急速に下がった。この急進的な改革に主流派(政官財界)は強く反発し、2002年4月11日、市民の反政権デモの鎮圧に国軍の投入を命じたことをきっかけに、それを拒否する軍高官がチャベスに辞任を求める事態に至った。
この政変でチャベスはカリブ海の島に移送されたが、暫定大統領となった財界人が軍の信認を得られずわずか2日で政権を放棄。島からヘリコプターで救出され、支持者らが待つ大統領府に降り立ったチャベスは熱狂的に迎えられた。
この「クーデター」をアメリカが支持したことで、チャベスは「反米」を明確にし、キューバのカストロやリビアのカダフィ大佐に急速に接近した。さらに、二度と政権の座を追われないよう極端な政策を矢継ぎ早に導入していく。
まず、選挙管理委員会を支配し、大統領不信任の署名から反チャベス派を特定した。「タスコン・リスト」と呼ばれる名簿に名前が載っていると、公務員は解雇され、パスポートの申請や国営銀行からの融資を拒否されるなどの社会経済的差別を受けた。
次いで、「バリオ」や「ランチョ」と呼ばれる貧困層居住地域の支持を固めるために、「ミシオン(任務)」と名づけられた大胆な貧困対策を実施した。原油価格の上昇を追い風にして、ミシオンは低価格での食糧販売、無料の医療、教育、貧困層向け住宅建設などを次々と実施し、貧困世帯率は大幅に改善した。市予算のうち、コミュニティ開発にかかわる部分の意思決定に住民代表が参加する「公共政策企画地方評議会(CLPP)」や地域住民委員会も創設されたが、その高い理念とは裏腹に、反チャベス派市民による同委員会の登録は事実上閉ざされていた。
人口の1割を超す国民が海外に脱出
チャベスが2013年にがんで死亡し、副大統領のニコラス・マドゥロが跡を継ぐと、ベネズエラの状況はさらに混迷の度を増していく。
2015年の国会議員選挙で大敗を喫したチャベス派(マドゥロ政権)は、最高裁を使って違憲判断を乱発し国会の立法権を否定した。国会が判決を拒否すると、最高裁の決定を遵守しないのは「不敬」だとして国会全体の権限を無効化した。
「権力分立は国家を弱体化させる」を名目に、毎週金曜日に最高裁裁判長、検察庁長官、国会議長などが副大統領府に集まり、裁判の方向性が決められた。それを批判した裁判官は、法的根拠がないにもかからず10年間拘留され、「精神的汚職」という法律にない罪状で有罪判決を受けた。
2017年、マドゥロ大統領は突如として新憲法制定のための制憲議会の設置と、そのメンバーを選出するための選挙を行なうと発表した。これに反政府派が反発し、選挙をボイコットしたため、すべてがチャベス派で占められる制憲議会と、反政府派が多数を握る国会が併存することになった。2019年、国会が暫定大統領にフアン・グアイドを選んだとことで、2人の大統領が並び立つことになった。
この間、ベネズエラ経済は急速に悪化していた。チャベスはベネズエラ国営石油会社(PDVSA)を私物化し、中央銀行に無制限に資金を出させたため、石油価格の高騰にもかかわらず国家債務は急速に膨張した。
食料不足や住宅不足で国民の不満が高まると、チャベスはわずか3年で1000件近い企業を国有化・接収して増産を命じた。だが現実には、電力部門の国有化と過少投資で電力不足が常態化し、製鉄やアルミ精錬の生産は壊滅的レベルに落ち込んだ。
食料が不足するとチャベスは同じように農地を国有化して接収したが、これによってさらに食糧生産が減ることになった。インフレが進行すると、2012年には価格統制が実施され、農家や企業は損をする生産や販売を控えるようになり、経済はさらに落ち込んだ。
チャベス政権の末期は、(「ネオリベ」と批判されることもある)標準的な経済学が否定する政策をすべて実行する社会実験だった。ベネズエラが「国家破産」に突き進んだことで、経済学の正しさは証明された。
チャベスの死でマドゥロ政権に変わると、経済成長率は2014年以降7年連続でマイナス、2017年以降は4年連続してマイナス幅が2桁となった。戦争や内乱、革命が起きたわけでもないのに、わずか3年でGDPが半減する異常事態だった。
チャベス政権誕生前に1日300万バレルを超えていた産油量は5分の1まで落ち込み、産油国であるにもかかわらずガソリンが欠乏し、ガソリンスタンドには給油を待つ車が数日間の行列をつくった。国民の64%が平均11キロやせ、「マドゥロ・ダイエット」という言葉まで生まれた。いったんは改善した貧困率は9割を超えたとされる。
チャベル、マドゥロ両政権で2回のデノミが行なわれ、通貨は「ボリバル」から「ボリバル・フエルテ(強いボリバル)」「ボリバル・ソベラノ(国家主権のボリバル)」に変わり、(1億円が1円になる)8桁のデノミが行なわれた。原油、金、鉄鋼石、ダイヤモンドで裏付けされた(と投資説明書に書かれている)仮想通貨の「ペトロ」まで登場したが、国民にはまったく信用されなかった。
こうした事態を改善させたのは、皮肉なことに「事実上のドル化」だった。通貨の信認が失われ国内でドル決済が当たり前になったことで、2019年半ば以降、海外から食料が流入しはじめた。北澤氏がベネズエラで商品の並ぶスーパーを目にしたのは、こうした背景があった。
国民をさらに苦しめたのは、犯罪の多発だった。1990年までは、ベネズエラはラテンアメリカでは治安のよい国とされていたが、いまや「世界でもっとも危険な国のひとつ」とされる。坂口氏がカラカスで暮らした2009年ですら、「夜間車で出かけざるをえないときは、襲われないように赤信号は止まらないのが鉄則である。スマートフォンを狙った強盗も多く、道端で使うのは危険だ。手っ取り早く稼ぐための「エクスプレス誘拐」も頻発する」という状況だった。いまでは治安はさらに悪化し、警察の機能が低下して、「罪を犯してもつかまらない、またはつかまっても有罪にならない」状況になった。
このようにしてベネズエラは、総人口約3000万人の1割を超す500万人以上の国民が海外に脱出し、シリアに次いで世界で2番目に多い難民を出す国になり果てたのだ。
「左派ポピュリズム」のなれの果て
収入が100分の1になってしまったにもかかわらず国民がなんとか生きていいける理由のひとつは、マドゥロ政権がCLAPと呼ばれる食料配給制度を実施しているからだ。
トウモロコシ、米、食用油などの輸入食料を箱や袋に詰めて市民に配給する制度で、人口の半分近くが受け取っているが、「愛国カード」と呼ばれる電子カードの登録が必要になる。最低限の食料を受け取るために、国民はマドゥロ政権を支持せざるを得なくなっている。
チャベスからマドゥロに引き継がれた非民主的・独裁的政権はアメリカから制裁を受け、欧米や日本などの承認も得られていないが、それでも存続できているのは中国とロシアが支持しているからでもある。
中国は「チャイナ・ファンド」で、石油を担保にチャベス政権に600億ドルを超える資金を貸し付けた。中国がベネズエラから距離を置くようになると、アメリカと対抗するロシアが融資に応じるようになった。だが、両国の本音は別のところにあると坂口氏は指摘する。過去の融資が国会の正式な承認を受けたものではないため、政権交代で「民主化」すると、チャベス・マドゥロ時代の債務を「合法的」に放棄にされる恐れがあり、中国とロシアはそれを避けるために政権交代を阻止せざるを得なくなっているのだという。
チャベスとちがって軍出身ではないマドゥロは、クーデターを警戒して、軍の高官を政府の要職に抜擢してきた。その結果、大臣経験者の7割前後、工業、インフラ・通信関連大臣では5割が軍人になっている。マドゥロ政権では195人が将軍に昇進し、ベネズエラはおよそ2000人の将軍を抱える国になった。
その一方で、政権に批判的な軍人は政治犯として逮捕・拘禁されている。拷問の末に瀕死の状態で車椅子に乗せられて法廷に出廷した軍人が、直後に死亡することもあった。
存続できるはずのない政権が存続する奇妙な事態を、坂口氏はこうまとめている。
汚職や麻薬取引、あるいは拷問や人権弾圧などの人道的犯罪に手を染めてきたチャベス派幹部や軍の高官らは、政権が交代すると法の裁きを受けることが必至である。麻薬取引などの国際的犯罪の場合は、米国に身柄が移され、そこで法の裁きを受ける可能性もある。それゆえ、彼らは是が非でもチャベス派政権を死守しなければならない。
チャベスの「ボリバル革命」の本質は、愛国主義、反米主義、反資本主義、反エリート主義だった。それを支えたのが、1960年代に革命の夢破れた老齢の元左翼ゲリラや左翼知識人だ。日本でいう全共闘世代の活動家が、青春時代の「革命の夢」を実現させるべくチャベスのもとで奮闘した。
ベネズエラの現在の異様な状況は、そんな「左派ポピュリズム」のなれの果てだ。日本でも世界でも、右派ポピュリズムだけでなく左派ポピュリズムも勢いを増しているが、ベネズエラは国民の大きな犠牲によって、貴重な教訓を示してくれているのではないだろうか。
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