ランダム化比較試験が明らかにしたマイクロクレジットの秘密

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017年12月7日公開の「マイクロクレジットは“奇跡”を起こしたのではなく 貧しい国に「当たり前の世界」を作り出した」ノーベル賞受賞経済学者の理論とは?」です(一部改変)。

前編:マイクロクレジットの“奇跡の物語”と不都合な真実

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新薬の実験などに使われるRCT(ランダム化比較試験Randomized Controlled Trial)は、科学的にもっとも強力な証拠だとされている。無作為に選んだ患者グループに新薬と偽薬を与え、どちらの薬なのか患者も医師もわからないようにしたうえで(二重盲検の条件で)効果を計測する。

なぜこのような面倒なことをするかというと、偽薬でも治療効果が出る場合がしばしばあるからだ(プラセボ効果)。いったん新薬が認可されれば多額の公費が投入されるのだから、偽薬以上に高い治療効果があることが厳密に証明されなければならない。

この手法を貧困国の開発援助に持ち込んだのがフランスの女性経済学者エステル・デュフロで、これによって賛否の分かれるさまざまな貧困対策の効果を客観的に検証できるようになった。「援助か自助か」の無益なイデオロギー対立に陥りがちだった開発経済学は大きく変わり、いまでは、どのような支援が役立つかを「証拠に基づいて(エビデンス・ベースで)」議論することができるのだ。

 

貧しい国の子どもたちに無償で教科書を配布しても効果はない

貧困から脱するのに教育が重要なのは疑いない。だとしたら、貧しい国の子どもたちに教科書を無償で配布する支援には大きな効果があるはずだ。

そんなことは当たり前だ、と思うだろう。だが1995年のケニアで、教科書配布と成績の因果関係をRCTで検証したところ、すべての実験で否定的な結果が出た。教科書を配布しても配布しなくても、子どもたちのテストの成績は同じだったのだ。

この研究を行なったハーバード大学のマイケル・クレマーは結果を信じることができず、サンプルを拡大して再実験するとともに、公的な学力テストを使わず新しいテストを作成することまでやってみた。しかしそれでも、やはり教科書の無償配布になんの効果もなかったのだ。

なぜこんなことになるのか。結果を詳細にみるとその理由がわかってきた。

教科書の無償配布は生徒全員に効果がなかったわけではなく、一部の生徒には役に立っていた。それは、もともと成績がよかった子どもたちだ。成績上位10%の子どもだけを観察すると、教科書を配布された生徒たちは、配布対象にならなかった生徒たちよりも学力が向上していたのだ。最終的にクレマーは、実験結果を次のように総括した。

ケニアは多数の民族が暮らす社会で、農村の子どもたちにとって第一言語は地元の言葉、第二言語はスワヒリ語だ。しかし学校教育はイギリスの植民地時代を引き継いでおり、植民地官僚を養成したときと同様に英語で行なわれる。

ほとんどの子どもにとって英語は外国語で、教科書に書いてあることの意味がわからない。それを活用することができたのは、もともと英語を理解できた一部の優秀な生徒だけだった。誰もが「よい」と思っていることをすれば、自動的によい結果が生じるわけではないのだ。

少人数学級より学力別クラス編成のほうが効果がある

日本の教育改革では、少人数学級や能力別クラス編成がずっと議論になってきた。しかしこれも、お互いに自説を声高に唱え相手を論難するのではなく、RCTでその効果を検証してみればいい。

デュフロは、ケニアにおいて210の小学校をランダムに70校の3つのグループに分け、それを実際にやってみた(『貧困と闘う知』)。Aグループは教師を新たに採用することで1クラスを2クラスに分けて少人数学級を実現した。Bグループはそれに加えて学力別にクラスを編成した(成績上位40人のクラスと下位40人のクラス)。Cグループはこれまでと変わらない対照群だ。

その結果、学力別グループはすべての子どもたちにとって有益なことがわかった。興味深いのは、この効果が、成績が優秀な子どもたちだけでなく、成績が低い子どもたちにも同様に見られたことだ。

学力別のクラス編成に反対するひとたちは、勉強のできる生徒が有利になる一方で、成績の低い子どもたちは優秀な同級生と勉強する機会を失うので不利になると論ずる。しかしすくなくともケニアでは、同一クラスに学力の著しく異なる生徒が混在するよりも、クラスをより均質にすることで授業の質が高くなった。

2つめの結果は、たんにクラスを少人数にしただけでは学力向上の効果がほとんどなかったことだ。教師にとっての問題は、教える生徒の数が多いことよりも、生徒の学習レベルが異なっていることだった。

3つめの結果は、実験のために新たに採用した教師のクラスが、正規の教員たちのクラスよりも成績がよかったことだ。新任の教師は1年契約で、正規の教師は長期契約だった。このことは、経験がなくてもモチベーションが高い(彼らはここで成功すれば正規教員に任命される可能性があった)教師の方が、ゆたかな経験をもっているがモチベーションの低い教師よりも生徒の成績を引き上げることを示している。

もちろんこれはケニアの小学校のケースだから、それをそのまま日本の教育現場に当てはめることはできない。それでも、なんのエビデンスもないまま自己流の教育論をぶつけ合うよりもよほど生産的なことがわかるだろう。

融資額を増やすと逆効果になる

貧困国への援助でもっとも議論を呼ぶのは、ノーベル平和賞を受賞したバングラデシュの経済学者ムハマド・ユヌスが生み出したマイクロクレジットの“奇跡の物語”への評価だ。その論点は大きく2つで、ひとつは先進国の基準では“暴利”ともいえる利率で融資すること、もうひとつはグループに連帯責任を課し、メンバーの返済が滞ったら他のメンバーに肩代わりさせることだ。

高利の融資については前回述べたが、RCTによる検証では、金利が高くても融資を受けた方が貧しいひとたちの生活が改善することがわかった。これは意外な結果だが、その理由は貧困層のビジネスの収益率がきわめて高いからだ。

エステル・デュフロがスリランカの小規模事業(資本金1000ドル以下で1カ月の売上高が平均100ドルの商店や小工場)を対象に行なった実験では、現金100ドルの補助金を受けた場合の月平均の事業利益は月4.6~5.3%(年利55~63%)にも達した。それに対して都市部のインフォーマルな金貸しの月利は3~4%だから、高利のお金を借りてもじゅうぶん元がとれるのだ。

この実験では、補助金を倍の200ドルにしたグループもあった。100ドルの投資で年利50%超の高い利益をあげられのだから、200ドルの投資ならさらに収益率は高まりそうだが、実際には投資の資本収益率は急減した。その理由は、200ドルを受け取った事業主がお金の半分を生活費に充当したからだ。

なぜそんなことをするかというと、お金の使い道がなかったからだ。RCTが明らかにしたのは、貧困層の事業収益率はきわめて高いが、その条件は彼らのビジネスがきわめて小規模(マイクロ)であることだ。商店にしても、工場にしても、彼らはものすごく小さなマーケットを相手にしているから、たくさんの補助金をもらってもそれを投資に回すことができない。

インドのハイデラバードで行なわれたマイクロクレジットの実験も興味深い。こちらはデュフロの弟子で、非営利組織IPA(イノベーションズ・フォー・ポバティ・アクション)を設立したディーン・カーランらが実施した(『善意で貧困はなくせるのか?』)。

カーランたちは100の地区の住民をランダムに割り振けるのではなく、「起業しているひと」「起業しそうなひと」「起業しそうにないひと」の3つのグループに分け、融資の影響を比較した。起業しそうかどうかは、土地所有の有無や就労年齢の女性の数、家長の妻が読み書きできるかどうか、有給の仕事をもっているかどうか、などのデータから推測した。

この実験では、きわめて一貫した結果が出た。

すでに起業している人は、融資によってビジネスをさらに拡大することができた。彼らは、自分の事業にお金を注ぎ込んだ。

起業しそうなひとにも、マイクロクレジットは良好な効果をもたらした。彼らはアルコールやタバコ、宝くじや道端での一杯のお茶などの「誘惑商品」の消費を切り詰め、耐久財への消費を増やし、裁縫師ならミシン、パン屋ならオーブンというように起業に必要なものを購入した。

ところが、起業しそうにないひとたちがすべてをぶち壊しにしていた。彼らは耐久財を買うわけでもなく、事業に投資するわけでもなく、ただ「誘惑商品」への消費を増やしただけだった。消費者金融やクレジットカードで思慮のない買い物をして借金漬けになるようなタイプの借り手だったのだ。

連帯責任より個人責任が効果的

では、マイクロクレジットでもっとも論議を呼ぶ連帯責任についてはどうだろうか。連帯責任の利点については前回述べたが、もちろんそこには負の側面もある。

ひとつは、いうまでもなく、自分になんの非もないのに他人の借金を肩代わりしなければならないことだ。カーランたちがガーナで会ったマーシーという女性は、マイクロクレジットを使って露天商から軽量コンクリート造りの売店へと事業を大きく拡大したが、その代償として仲間の借金計1000ドルを支払うことになった。1000ドルはガーナーの平均年収の1.5倍だから、日本円に換算すれば600万円(日本の平均年収は約400万円)になる。まさに「正直者がバカを見る」の典型だ。

これほどまで深刻ではないものの、2つめは週に1回、返済のための集会に出なければならないことだ。貧困国では、この集会で健康や衛生、家計管理やDV(夫の暴力)についての情報を提供できるとして高く評価されているが、顧客の側からすれば、銀行窓口なら5分ですむところを2時間もつぶす(下手をすれば1日がかりになる)のは大きな負担だ。

3つめは、それほどたくさん借りる必要のない顧客に、必要以上に借りさせることだ。これはちょっとわかりにくいが、次のような例で説明できる。

単純な2人組の連帯責任を考えてみよう。このときあなたが1万円借り、もう1人が10万円借りたとする。あなたが返済できなくなると、相手は1万円を肩代わりする。相手が返済できなければ、あなたは10万円肩代わりする……。こんな理不尽なことにならないようにする方法はひつつしかない。それは、あなたも10万円借りることだ。

この3つのなかでもっとも深刻なのは、いうまでもなく「正直者が馬鹿を見る」だ。馬鹿を見たひとはすぐにこの矛盾に気づくから、1000ドルを肩代わりしたマーシーもグループを抜けようと考えている。すると、次のような矛盾した状況が生まれる。

マーシーがグループを抜けられるのは、マイクロクレジットを使わなくてもこれまでどおり融資を受けられると知っているからだろう。なぜそう確信できるかというと、ちゃんと返済してきたという実績があるからだ。そうなると、マイクロクレジットのグループに入ってない方が「優良顧客」と見なされるようになる。連帯責任は、もっとも大切な顧客を排除し、他人の肩代わりを期待する顧客だけを残すことになるのだ。

もちろん、こうした問題はムハメド・ユヌスにもわかっていた。連帯責任とはいえ、実際には強引に肩代わりさせることはなく、返済が滞ったらいったんグループを解散し、残った者同士であらためてグループを組み直すなどの救済策がしばしば使われた。理不尽な要求を突きつければ優良顧客から離れていってしまうのだから、ビジネスとしてもこれは当然だろう。

さらにユヌスは、2002年から「グラミンⅡ」という新しい融資制度を始めた。一見するとこれまでとほとんど同じだが、グラミンⅡの特徴は、いっしょに融資を受け、いっしょに返済集会に出ても、融資が個人単位であることだ。

結果として、グラミンⅡは大成功だった。マイクロクレジットの顧客は24年かけて210万人になったが、グラミンⅡによってわずか2年間で370万人まで膨らんだのだ。

だとしたら、そもそも連帯責任は不要だったのかもしれない。しかしそうすると、マイクロクレジットはなぜうまくいったのか。カーランたちは、その秘密を検証するRCTを行なった。

共同体意識があれば連帯責任はいらない

個人責任と連帯責任を比較するRCTに協力したのはフィリピンの農村銀行グリーンバンク・オブ・カラガで、レイテ島とセブ島でランダムに振り分けたグループに異なるタイプの融資を行なった。

数カ月経過したあとの結果は、シンプルなものだった。連帯責任をやめると顧客の負担が軽くなり、それが新たな顧客を惹きつける。個人責任に移行したグループは連帯責任を続けたグループより多くの新しいメンバーを獲得し、脱落者は少なかった。

ここまでは予想どおりだが、個人責任には別のメリットがあることもわかった。

他人の借金を肩代わりしなくてもよくなったことで、グループのメンバーたちはお互いをすこし大目に見るようになり、仲間の誰かをグループから追い出すことが少なくなった。次に、知り合いに催促したり罰を与えたりしなくてはならないことがイヤで参加を躊躇していたひとたちが仲間に加わった。彼らは、友人や親類も積極的に誘うようになった。

マイクロクレジットが連帯責任を採用したのは、返済への強いプレッシャーを顧客に与えられるからだ。これによって返済率を高くし、銀行の負担を減らすことで融資金利を引き下げることが可能になる。個人責任を導入する際のいちばんの懸念は、そんなことをすれば借金を踏み倒す顧客が続出するのではないか、ということだった。

カーランたちの実験でいちばんの驚きは、個人責任にしても返済率はほとんど変わらなかったことだった。もちろん債務不履行はすこし増えたが、それ以上に新規の顧客が開拓できたので、トータルで銀行の収益は大きく伸びた。

個人責任でも連帯責任でも返済率の差があまりないとすれば、なにがマイクロクレジットを成功させたのだろうか。それを知るために、これまでどおり週1回返済集会を行なうグループと、月1回に変更したグループでRCTが行なわれた。

この実験では、最初は負担のすくない月1回のグループのほうがうまくいくように思えた。だが開始から5カ月たったときには、大きなちがいが生じていた。週払いをしているグループは、他のメンバーの家族の名前を知っている割合と、自宅を訪問したことのある割合が、月払いのグループより90%も高くなったのだ。

そしてこれが、両者の返済率に差につながった。週払いのグループは誰かが返済に窮すると自主的に助け合うようになったが、月払いのグループでは、そのような協力が行なわれる割合がずっと少なかったのだ。

それ以外の条件を変えたRCTも行なわれていて、その結果は次のようにまとめられる。

  1.  しばしば会うひとたちのグループのほうが、たまにしか会わないひとたちのグループより返済率が高い。
  2. 人種や宗教、文化などの社会的な指標でよく似たひとたちを集めたグループの方が返済率が高い。
  3.  「家から歩いて10分以内」というように、近所に住むひとたちをグループにした方が返済率が高い。

こうした実験を総括すると、なぜマイクロクレジットが個人責任に移行しても高い返済率を維持できたのかがわかる。それはグループのメンバー間に信頼関係が生じたからであり、別の表現を使うなら、共同体(ムラ社会)の圧力が加わったからだ。だが、めったに会わないひと、共通するものがないひと、遠くに住んでいるひととは、こうした共同体意識をつくることが難しい。その結果、借金を踏み倒して恥ずかしい思いをすることが気にならなくなるのだ。

先進国でマイクロクレジットが導入できない理由

RCTを駆使することによって、マイクロクレジットの“奇跡”の謎が解明された。

貧困国でマイクロクレジットがひとびとをゆたかにするのは、金融市場が整備されていないために、事業の意欲も才能もあるひとが実力を発揮できずに埋もれているからだ。これはいわば、公教育のない地域に学校を建てるのに近い。明治期の日本もそうだが、農村には優れた才能をもちながらもそれを発揮できない子どもがたくさんいて、公教育が彼らを発掘したことが経済成長のエンジンになった。

埋もれた起業家が才能を発揮できないのは、政府や自治体、公的金融機関にそういう起業家を探し出して融資する仕組みがなかったからだ。ところがムハメド・ユヌスは、街の金貸しはその困難なビジネスをちゃんとこなしていることに気づいた。

ここから、高金利(とはいえ街の金貸しよりはずっと低利)で少額のお金を連帯責任で融資するという、誰も思いつかなかったビジネスモデルが誕生した。このイノベーションによって、貧困国で続々と起業家が誕生するという“奇跡”が生まれたのだ。

だが残念なことに、このモデルは欧米や日本ではほとんど機能しない。

先進国にはさまざまな融資制度が整っているから、有能なひとはさっさと低利の融資で起業するだろう。――たとえば日本では、信用保証協会の起業家向け融資と自治体の利子補給を組み合わせれば、無担保でも1000万円くらいの起業資金をほぼ無利子で借りることができる。有能なひとほど、“高利”のマイクロクレジットなど利用しないのだ。

連帯責任が機能したのは、貧しい地域では、セーフティネットが家族・親族・地域の友人たちとのつながり(社会資本)しかないからだ。それを失ってしまうと生きてはいけなくなるのだから、共同体に迷惑をかけないように振る舞うしかない。連帯責任というのは、なにひとつ担保をもたないひとたちが社会資本を担保に差し出して融資を受けるシステムだった。

RCTの検証では、返済率を高めているのは「社会資本という担保」で、それさえあれば連帯責任を個人責任に変えてもマイクロクレジットがうまくいくことを証明した。逆に、社会資本が傷つかないような状況では、さっさと踏み倒すのがもっとも経済合理的な行動になるだろう。

そしてこのことが、マイクロクレジットを先進国に導入してもうまくいかないもうひとつの理由を説明する。欧米や日本のような社会(とりわけ都市部)では、貧困層は孤立していて、自分たちが同じ「共同体」の一員という意識はない。ユヌスの成果に感動したヒラリー・クリントンがシカゴの貧困地区にマイクロクレジットを導入しようと試みたものの、なんの成果も得られなかったのはこれが理由だ。共同体意識のないところで外見だけを真似ても、便利なATM代わり使われるのがおちなのだ。

マイクロクレジットは素晴らしいイノベーションだが、それは“奇跡”を起こせるわけではない。才能のある「埋もれた事業家」を効率的に発掘する仕組みだからこそ、貧しい国で機能することができた。そしてこのことは経済学のインセンティブ理論でちゃんと説明できるから、そこになんの不思議もない。

マイクロクレジットは、貧しい国に「当たり前の世界」をつくることができるからこそ、役に立つのだ。

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