マイクロクレジットの“奇跡の物語”と不都合な真実

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2017/11/23日公開の「RCTにより明らかになった マイクロクレジットの“奇跡の物語”と不都合な真実」です(一部改変)。

後編:ランダム化比較試験が明らかにしたマイクロクレジットの秘密

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政策を考えるうえでは、「誰がなにをしたのか?」ではなく、「どれくらいのひとがそれをするのか?」を知ることの方が重要なことがよくある。人間は弱い生き物だから、悪いことだと知りながらも、ルールを破って目の前の機会に飛びついてしまう。それを一切許さないとすると、ものすごく窮屈な社会(ファシズム管理国家)になってしまうだろう。

これが問題になるのは、たとえば生活保護の制度設計だ。

目の前で貧しいひとが餓死しかけているのに、それを放っておけばいいと主張するひとは(たぶん)いないだろう。しかしその一方で、「私は貧乏です」との自己申告でどんどんお金を配ればいい、というお人よしもそんなに多くないはずだ。

これが漏給と不正受給のトレードオフで、必要なひとすべてに生活保護を支給しようとすると、それを悪用する不正受給が増える。不正受給をゼロにするために手続きを厳しくすると、必要なひとが保護を受け取れなくなり漏給が増える。

だったら不正受給も漏給もゼロにするような完璧な制度をつくればいいと思うかもしれないが、個人の生活を国家が全面的に監視する『1984』のような未来社会が実現しないかぎりそんなことは不可能だ。ここで大事なのは、不愉快なトレードオフを受け入れたうえで、どのような制度設計をすればそれを最適化できるかを考えることだ。

こんなとき必要なのが、「誰がごまかしているか?」の犯人探しではなく、「どのくらいのひとがごまかすだろうか?」の正確な推計だ。

チョコバーを万引きする人数を正確に知る方法

あなたが雑貨屋のオーナーで、近所の100人のうち何人が店でチョコバーを万引きするかを知りたいとする(「誰が」万引き犯か、ではない)。もちろん、面と向かって「あなたは万引きしたことがありますか?」と訊ねても正直に答えてくれるはずはない。匿名のアンケートならうまくいくと思うかもしれないが、そうともいえない。回答者は「匿名」の約束など信じないかもしれないし、たんに自分の悪癖を認めたくないという理由でウソをつくかもしれないのだ。

しかしこの問題は、ちょっとした工夫で解決できる。まずは、次のような2種類のアンケートをつくってみよう。

【アンケートA】
1 私は近所のお店にすくなくとも週に一度は行きます。
2 私はチョコバーが大好きです。
3 私は少なくとも1週間に1個、チョコバーを食べます。

【アンケートB】
1 私は近所のお店にすくなくとも週に一度は行きます。
2 私はチョコバーが大好きです。
3 私は少なくとも1週間に1個、チョコバーを食べます。
4 私はお店でチョコバーを万引きしたことがあります。

次にあなたはこの2つのアンケートを、50人ずつに適当に(ランダム)に配り、「ここにある文章のうち、あてはまるのはいくつありますか?」と訊く。このとき、「どれがあてはまるか?」を訊かないのがポイントだ。

アンケートAの質問はなんでもないものばかりだから、渡されたひとは正直に答え、回答はゼロから3つまでに分かれるだろう。ところがアンケートBには、ひとつだけ不穏な質問が混じっている。「私はお店でチョコバーを万引きしたことがあります」だ。

もちろんここでも、万引き犯はやはり嘘をつくかもしれない。ほんとうは2、3、4の3つに当てはまるのに、2と3だけだとして「2つ」とこたえる、というように。

これだとやはりなんの役にも立たないように思えるだろう。しかしこのとき、彼の回答は「質問4」に影響されている。それに対してアンケートAの回答者は、たとえ万引き犯でも、この不穏な質問に影響を受けることはない。

アンケートAとアンケートBでは、最初の3つの質問はまったく同じだ。アンケートはランダムに配られたのだから、この3つの質問に当てはまるひとの数は(平均すると)差が出ないはずだ。それでも、アンケートAとアンケートBの結果にちがいがあるとするならば(ほとんど場合差が出る)、それはアンケートBの「質問4」すなわち「私はお店でチョコバーを万引きしたことがあります」が影響しているからにちがいない。

これを利用すると、個人のプライバシーに介入することなく、あるグループのひとたちの不都合な行動について、より正確な値を知ることができる。ちなみにアフリカ、ウガンダでの性行動の調査で、過去3カ月に浮気をしたことがあるか訊いたところ、直接の質問では13.3%が浮気を認めたが、浮気についての質問をアンケートに紛れ込ませる手法では17・4%と3割も多くなった。直接質問した結果を証拠(エビデンス)として巨額の税金を投入する制度設計をしたら、この誤差がとんでもない公費の無駄を生み出すだろう。

これがRCT(ランダム化対象実験)の手法で、もともとは新薬の効果を検証する際に用いられたが、現在では経済学を中心に社会科学でも広く使われ、「もっとも信頼度の高いエビデンス」とみなされている。

『貧困の終焉』VS『傲慢な援助』

中国やインドなど人口大国の経済成長によって、この10年間に最貧困の多くのひとたちが中間層の仲間入りを果たした。これは素晴らしいことだが、とはいえアフリカなどの地域では貧困問題はまだまだ深刻だ。ここまではすべてのひとが合意するだろうが、その貧困をどのように改善すべきかについてははげしい意見の対立がある。

開発経済学の“ロックスター”で、アイルランドのロックグループU2のボーカル、ボノの“師匠”でもあるジェフリー・サックスは、『貧困の終焉: 2025年までに世界を変える』 (野中邦子、 鈴木主税訳、ハヤカワ文庫NF) などで、援助プログラムへの先進国の支出はまったく不十分で、関与の度合いを大幅に強める必要があると主張した。ゆたかな国々が貧困削減のために拠出しているのは、平均してその富の1%にも満たないのだ。

それに対して、やはり大物経済学者のウィリアム・イースタリーは『傲慢な援助』( 小浜裕久、織井啓介、冨田陽子訳、東洋経済新報社) でサックスを徹底的に批判した。過去50年のあいだに世界のゆたかな国々は貧困削減のために2兆3000億ドルもの巨費を費やしたが、いまだに世界の半分が貧困で苦しんでいる。これは国連主導の(すなわちサックスが唱える)大規模な開発援助が根本的にまちがっているからだ。いまや「傲慢な援助」からすべて撤退して、現地生まれの小規模で小回りのきくプログラムに力を注ぐべきなのだ。

この争いは、サックスが鳴り物入りで始めた「ミレニアム・ビレッジ」計画(開発援助のテストケースとして、ケニアなどアフリカの貧しい村に大規模な投資を行なった)がほとんど成果をあげられなかったことから、いまではほぼ決着がついたようだ。現在ではサックスは、流行に敏感な“ロックスター”らしく、貧困から地球温暖化問題へと関心を移している。

参考:ジェフリー・サックスの「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」はどうなったのか?

ところがここに、「RCTを使えば“開発援助は善か悪か”という神学論争を回避できる」と主張する経済学者が現われた。当たり前の話だが、援助は効果があることもあれば失敗することもある。だとすればその効果を正確に測定し、効果がない援助をやめ、効果がある援助を増やしていけば、すこしずつでも貧困は解決に向かうはずだ。

しかし、このようなやり方がほんとうにうまくいくのだろうか。そこでここでは、RCTを開発援助に導入した先駆者であるエステル・デュフロの『貧困と闘う知 教育、医療、金融、ガバナンス』(峯陽一、コザ・アリーン訳、みすず書房)と、MITでのデュフロの生徒であり、その後、貧困問題の解決のためにさまざまな斬新な調査を行なっているディーン・カーランと、彼が設立した非営利組織IPA(イノベーションズ・フォー・ポバティ・アクション)のスタッフ、ジェイコブ・アペルの共著『善意で貧困はなくせるのか? 貧乏人の行動経済学 』(澤田康幸、清川幸美訳、みすず書房)によりながらその成果を概観してみたい(ちなみに、チョコバーが万引される割合を探るRCTの例はこの本からとった)。

銀行が失敗して高利貸しが成功する理由

ノーベル平和賞を受賞したバングラデシュの経済学者ムハマド・ユヌスが生み出したマイクロクレジットの“奇跡の物語”はよく知られているが、その一方で、これほど毀誉褒貶のはげしい開発援助の手法もない。マイクロクレジットは、ほんとうに貧困問題の解決に効果があるのだろうか。

インドやバングラデシュでは1970年代まで、貧しい農村に支店を開設する公的銀行には補助金付き融資の提供が義務づけられていた。ところが貸し倒れがあいついだことで銀行は破綻寸前になり、政府はプログラムの失敗を認めてこの規定を廃止した。貧者1人あたりの消費を1ドル増やそうとすれば、銀行は3ドル支出しなければならなかったのだ。

「なにをやっても貧困は解決できない」との悲観論が大勢になるなかで、ムハマド・ユヌスは政府の説明に納得しなかった。農村部ではインフォーマルな融資がたいへんな活況を呈していたからだ。銀行が失敗して金貸しが成功するのは、なにか理由があるはずだ。

最貧困国での融資が難しいのは、経済学でいう「情報の非対称性」がとてつもなく大きいからだ。

まず、銀行はどういう相手にお金を貸せばいいのかわからない。次に、お金を貸したひとがちゃんと返済してくれるかどうかがわからない。最後に、返済が止まったとき、どうすれば融資を回収できるかもわからない。なぜなら、貧困国には信用履歴(クレジットスコア)も財務諸表もなく、住所表示すら覚束ないことも珍しくないからだ。当然、顧客には担保になるものもなく、仮に不動産を担保にとったとしても、登記制度が完備していないのでその土地の権利がほんとうにあるのかもわからない。すなわち、暗闇でお金をばらまくようなことになってしまうのだ。

インフォーマルな金貸しはどうやってこの困難な課題をクリアしているのだろうか。

ひとつは、知り合いのネットワークのなかで融資を行なうことだ。これなら、借金を何度も踏み倒してきた評判の悪い顧客を避けられる。

次に金利をきわめて高くして、毎週集金に行くことだ。高金利は事業のリスクが高いからで、毎週の集金は顧客に借金返済の習慣をつけさせるためだ。月1回の返済だと、その間に返済原資を別のことに使ってしまうかもしれない。

3つ目は、返済の約束を守らなければ家族・親族に肩代わりを求め、最後は暴力を使ってでも回収することだ。

この3つの要素があれば、貧困地域でもちゃんと金融ビジネスが成立する。

しかしここで、当然の疑問が湧いてくる。暴利で商売するためには、顧客がちゃんと返済をつづけられなければならない。しかし貧困地域で、そんな高利回りの商売ができるのだろうか。

ユヌスの発見は、それが可能だというものだった。

単純化した例では、雑貨商は1週間分の商品を仕入れるために金貸しから10%の金利で1000円を借り、それで1500円を売り上げる。1週間後に集金人に金利分の100円を返済し、ふたたび1000円で商品を仕入れる。この取引を繰り返せば、週10%(年利換算で9700%)というとてつもない高利を払っても毎週400円、月1600円の利益が手元に残る。貧困国のビジネスは、じつはものすごく高利回りなのだ。

もちろんこれは矛盾だ。だったら彼らはなぜもっとゆたかにならないのか。それは、高利回りの秘訣が事業規模がものすごく小さことにあるからだ。先ほどの雑貨商が事業を拡大しようと2000円借りても、やはり1500円分しか商品は売れず、借金を返せなくなってたちまち破綻してしまう。貧しいひとたちは、お互いにものすごく不利な条件で取引しているのだ。

だとしたら、インフォーマルな金貸しの手法を利用しつつ、ずっと有利な金利(たとえば年利30%)で少額を融資することで、ひとびとの生活を改善することができるのではないか。これがマイクロクレジットの基本的なアイデアだ。

女性たちの連帯責任を利用する

マイクロクレジットがインフォーマルな金貸しから学んだのは、高金利の少額融資と毎週の回収だ。だが集金人が顧客のところを回るのではなく、グループごとに集会場で返済を行なう。これがユヌスのイノベーションであり、もっとも賛否が分かれるところだが、マイクロクレジットはグループ制、すなわち連帯責任なのだ。

連帯責任のメソットは、経済学的には次のように説明できる。

グループは同じ村の女性たちなど、よく知っている者同士で組む。彼女たちはお互いの事情をわかっているので、信頼できる者だけをグループに加え、返済に不安のある者は排除するだろう。これによって銀行は、「誰に貸すべきか」という面倒な問題(逆選択)を解決できる。

そのうえでグループは、メンバーが借りたお金をちゃんとビジネスに使っているかをお互いに監視する。借りたお金でテレビを買ったりしたら、焦げついた融資は他のメンバーが肩代わりしなければならないのだ。これで銀行は、モラルハザードを監視する必要もなくなる。

さらに、返済が滞ったときにも連帯責任はちゃんと機能する。住所もない顧客のところに銀行員がたどり着くことは不可能だが、グループのメンバーなら相手の居場所を探すのは簡単だし、いざとなれば家族に返済を求めるだろう(そうでなければ、自分たちが損をすることになる)。

このように考えると、ユヌスのイノベーションがどのようなものかがわかる。マイクロクレジットは、本来、銀行や金貸しが行なうやっかいな業務の多くを顧客にアウトソースすることによって、ハイリスクな融資を(比較的)低利で行なっても事業を維持することができるのだ。

マイクロクレジットに対する批判は、主に2つだ。ひとつは、「低利」とはいってもその金利が年利30%から70~80%にもなること。メキシコで上場したマイクロファイナンス大手の「コンパルタモス」の金利は年73%で、これはユヌスの逆鱗に触れて「暴利」と批判された。

もうひとつは、事業の核である「連帯責任」だ。貧しいひとたちに対して、本人になんの責任もないにもかかわらず、他人の焦げ付きを弁済させてさらに貧しくするようなことが許されるのだろうか。

これはいずれも倫理的・道徳的な要素を含むから、感情的な対立になりやすい。マイクロファイナンスを称賛するひとはよい面(貧しいひとたちはみんな「起業家」だ)ばかりに目がいき、批判者は「暴利」と「連帯責任」だけを強調する、というように。

そこでカーランたちは、RCTを使って高利の貸し出しがほんとうに貧困層の役に立っているかを調べることにした。その方法は、南アフリカのクレジット会社の協力を得て、通常ならハイリスクとして融資を断れられるボーダーラインの申込者にランダムに融資を行なうことだ。これなら、それ以外の条件を同じにして、高利の融資を受けたひとと、受けられなかったひとのその後の生活を比較することができる。

マイクロクレジットは役に立っていたが……

結論からいうと、高利の融資はちゃんと役に立っていた。1年後には、ランダムに融資を受けた申請者の方が仕事を持ちつづけている率が相当高く、その結果収入も多かったのだ。借りた本人だけでなく家族全体も、ゆたかになった恩恵をより多く受けていた。世帯収入が多く、貧困ラインを下回る割合が少なかっただけでなく、調査への回答からは、おなかをすかせたまま眠りにつくことも少ないことがわかった。

このようなプラス効果がある理由も判明した。

ひとつは、融資のお金が交通関係の支出に充てられていたこと。故障したバイクを修理したり、バス代にすることで、時間どおりに職場に行って、雇用主からペナルティを受けることなくフルタイムで働くことができた。

もうひとつは、生活の苦しい農村部の親類への送金だ。家族のつながりが強い地域では、親や親族が困っていると住んでいるところを引き払って田舎に帰るしかなくなる。こうして都会での安定した仕事を棒に振ってしまうのだが、融資を受けたことでこのような“悲劇”を避けることができたのだ。

日本でもどこでも「高利貸し」は悪徳の代名詞だが、RCTの実証研究によれば、彼らは貧困解消に役立っているのだ。

しかしカーランたちの調査では、マイクロクレジットの“奇跡の物語”に水を差すような結果も明らかになった。融資を受けて事業を大きく拡大できたひとがいたのは確かだが、それはごく一部で、ほぼすべて男性だったのだ(スリランカでの研究では、対象となる男性の年間利益率は平均約80%で、女性はマイナスだった)。

ここから、マイクロクレジットがなぜうまくいくのかの謎を解き明かすことができる。

貧しい社会には、さまざまな制約によって、事業家としての才能をもちながらもそれを開花させることができないひとたちが一定数いる。そんなところに「低利」融資を行なうと、目端の利いた彼らは真っ先にその機会を利用して成功する。そのエピソードだけに注目すると、マイクロクレジットがまるで奇跡を起こしたかのように見えるのだ。

性差別や身分差別などの社会的要因から、どんな社会でも女性より男性の方が事業に成功する割合は高い。マイクロクレジットの融資はたしかに埋もれていた起業家を発掘したが、「すべての女性が起業家になる」という魔法を使えるわけではないのだ。

次回は、RCTを使ってマイクロクレジットの連帯責任がどのように評価できるかを見てみたい。

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