累進課税はなぜ正当化できなくなってきたのか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年9月21日公開の「累進課税はなぜ正当化できるのか? 日本で超累進課税が復活する可能性とは?」です(一部改変)。

******************************************************************************************

国家を運営するためには国民から税を徴収しなければならない。ここまではすべてのひとが合意するだろうが、「どのような税制がもっとも公平なのか」となると、議論百出して罵詈雑言が飛び交うようになる。国民一人ひとり利害が異なるし、主義主張もちがっているのだから、みんなが納得するような税制はものすごく難しいのだ。

日本を含むほとんどの国で、所得税は累進課税になっている。なんとなく当たり前に思っているかもしれないが、なぜ累進課税が正当化できるかは経済学や政治学における大問題だ。

「お金持ちのほうがたくさん払えるから」でもそれって、国民を平等に扱ってないんじゃないの?

「お金持ちは強欲で邪悪だから」勤勉で誠実なお金持ちや、強欲で邪悪な貧乏人はどうなるの?

「お金持ちだけが得するような制度になっているから」だったら税金で罰するより、その制度を変えればいいんじゃないの?

というように、すぐに思いつくような理屈にはただちに強力な反論が戻ってくる。思考実験でいろいろやってみても面白いかもしれないが、みんなが「たしかにそうだ!」とうなずくような理屈があれば「大問題」にはならないのだから、あまり見込みはないだろう。

アメリカの政治学者、ケネス・シーヴとデイヴィッド・スタサヴェージの『金持ち課税 税の公正をめぐる経済史』(立木勝訳、みすず書房) は、先進20カ国の過去200年間の税法を比較することでこの謎に迫った。原題は“Taxing the Rich(金持ちへの課税)”。

著者たちによると、イギリスで1799年に所得税が導入されて以降、アメリカ、フランス、日本などを含め、どの国でもその税率は19世紀を通じて非常に低い率にとどまっていた。ところが20世紀に入った途端、富裕層への課税が強化され、1950年代に累進税率(法定最高限界税率)はもっとも高くなる。だがその後、すべての国で累進税率は急速に下がりはじめ、お金持ちはあまり税金を払わなくなる(相続税率も同様の推移を描いている)。

所得税の累進課税は最初はあまり人気がなくて、その後、広く導入されるようになるものの、近年はまた人気がなくなった。なぜこのようなことが世界じゅう(すくなくとも先進国のあいだ)で起きたのだろうか。そのこたえは思いがけないものだった。

所得や財産への課税は不当とされていた

最初に、かんたんに税の仕組みのまとめておこう。

税には個人所得税のほかに相続税、消費税、法人税などがある。これらはそれぞれ一長一短があり、どれかひとつの方法だけで税金を徴収すると不公平になってしまう。

相続税には、「二重(三重)課税ではないのか」との執拗な批判がある。所得に対して税を支払い、資産運用の利益や消費にも税金を納め、それでも残ったお金に対して課税しているからだ。遺産を全額使いきってしまえば相続税はかからないのだから、「国家が国民に放蕩を勧め、子どもを愛することを罰している」ともいえる。これがアメリカなどの保守派が相続税(遺産税)を嫌う理由で、(理由はさまざままだが)カナダやオーストラリア、ニュージーランド、スウェーデンなど欧米先進国にも相続税を廃止したところがある。

法人税に対しても「二重課税」との批判は根強い。会社法では株式会社の所有者は株主で、会社(法人)の利益はすなわち株主の利益だ。そう考えれば法人段階で課税する理由はなく、株主に利益が分配されたときに、他の個人所得と合算して課税すればいい。「法人が利益をためこむ」と危惧するかもしれないが、だったら利益の内部留保を禁止し、いったん全額を株主に分配したうえで、資金が必要ならその都度、資本市場から調達するようにすればいいだろう。

これは荒唐無稽に思えるかもしれないが、LLC(合同会社)やLLP(有限責任事業組合)などの会社形態で実際に行なわれている(日本ではLLCは法人税課税の対象)。フィンテックによって資本市場が効率化すれば、株式会社も運転資金以外は余剰資金を保有せずに経営するのが当たり前になるかもしれない。日本では大手企業の多額の内部留保が問題になっているが、すべての会社を内部留保ができないパススルー型にして法人税を廃止すれば、効率な経営ができるうえに徴税業務も簡素化されて一石二鳥だろう。

消費税は相続税や法人税に比べて原理的な問題が少なく、なにより国内の消費にもれなく課税できることから、先進国では徐々に徴税の中心になってきた。だがそれでも、所得の低い層ほど実質負担が重くなる逆進性があるし、インボイス制度を導入せずに軽減税率を行なうと申告・徴税の実務が混乱する(日本では2023年10月に開始)。

歴史的には、国家はまず土地などの不動産に税をかけ、重商主義の時代には輸出を増やし輸入を減らすために多額の関税がかけられた。輸入品への関税は消費税と同じで、国内物価を上昇させるから逆進性がある。このことは19世紀には知られていて、富裕層がより多く税を負担する相続税や所得税の根拠とされた。

だが『金持ち課税』の著者たちによれば、それはきわめて微々たるものだった。大論争の末に1909年にイギリスで導入された累進課税「スーパータックス」の最高税率は8.3%だった。アメリカでも20年にわたる論争の末に1913年に累進所得税が導入されたが、その最高税率は7%だった。フランスはさらに極端で、1907年になっても富裕層は約2%の所得税を支払っているだけだった。

こうした事情は相続税もほぼ同じで、その背景にある価値観は明らかだ。政治家は国民の所得や財産に税を課すことをどこか不当なものと考えており、さまざまな事情からそうした課税が余儀ないものとなっても、その税率をできるだけ低くしようとしたのだ。

累進課税は「不公平」と見なされてきた

個人所得税には、大きく3つの分類が考えられる。定額税、定率税、累進課税だ。

定額税は「国民1人あたりいくら」と一律に決める方法で、一般に「人頭税」と呼ばれている。これは貧困層への逆進性がきわめて大きい(富裕層がものすごく優遇される)ので「国家による搾取」として忌み嫌われるが、必ずしも不公平というわけではない。

このことは、『金持ち課税』の冒頭に著者たちが掲げた旧約聖書からの一節でも明らかだ。

「あなたたちの命を償うために主への献納物として支払う銀は半シュケルである。豊かなものがそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる」(出エジプト記30章15節)

古代において「公平」な税(献納)は定額税だけであり、信者の懐具合によって金額を変え「差別」することは神によって禁じられていたのだ。

こうした定額方式は、日本でも町内会費や組合費などで広く使われている。これは「みんな同じ」というのが、直観的な「公平さ」と相性がいいからだろう。――町内会の委員から「あなたは金持ちだから倍払ってください」といわれて納得するひとはいないだろう。

定率税は「収入に対して何パーセント」と一律に決める方法で、「フラットタックス」と呼ばれている。新自由主義の経済学者はこの方式を支持することが多いが、現実に導入している国は(たぶん)ない。

とはいえ定率方式は、実社会ではマンションの管理費などで使われている。占有面積1平米に対する金額を決めておけば、ワンルームの管理費は少なく、5LDKは高くなるが、やはり「公平感覚」は満たされるだろう。

それに対して累進課税は、所得が増えるにしたがって支払額が増えていく方式だが、国家が行なうもの以外には例がない(身のまわりでなにか思いつきますか?)。これは累進課税が一般の「公平感覚」からずれていることを示している。――だからこそ正当化が難しいのだ。

それにもかかわらず、日本では昭和49年(1974年)までは所得税の最高税率75%、住民税と合わせると93%とされていた。だがこれは異常というわけではなく、アメリカでも1952年は最高税率が92%だった。だとすればそこにはなにか、みんなが納得する理由があるはずなのだ。

誤解のないように付記しておくと、最高税率(正確には「法定最高限界税率」)90%というのは、所得全額に対して90%が課税されるということではない。累進課税では所得に応じて段階的に税率が上がっていくので、最高税率は基準以上の所得に対してしか適用されない。現行の日本の所得税区分では最高税率は4000万円超の45%だが、これは所得金額が5000万円の場合、4000万円を超えた1000万円分に対して45%の税が課せられるということだ(それ以下の所得は別の税区分になる)。

最高限界税率以外にも、「実効税率」がよく使われる。これは所得に対して実際に支払った税金の割合のことで、日本の個人所得課税の実効税率は32%だ(2018年)。どの国も実効税率は最高税率より低いが、実効税率を長期にわたって国際比較することは困難なので、著者たちは最高税率の推移で代替している。法律上の最高税率と実効税率はほぼ相関するので、全体の傾向を論ずるのに問題はないとされている。

グローバリズム悪玉論は累進課税の根拠にならない

累進課税導入のもっともわかりやすい説明は、「民主政だから」というものだろう。

富の分布は、どのような社会でも富裕層がごく一部で、中流層や貧困層が圧倒的に多くなる。それに対して民主政は一人一票なのだから、経済学が前提するようにひとびとが合理的なら、有権者は富裕層から「搾取」して自分たちに分配させるような政策を支持するにちがいない。これが累進課税、というわけだ。

しかし、それなりに筋の通ったこの理屈はデータによって支持されない。これが正しいとすれば、すべての成人男性に参政権が認められたり、選挙権が成人女性にまで拡大されると、それにともなって最高税率が上がるはずだが、そんなことにはなっていないばかりか、有権者層が拡大すると最高税率が下がるという逆の現象まで起きているからだ。

そのうえこの理屈では、1970年代以降、最高税率が大きく下がっていることを説明できない。ここでよく出てくるのが「民主主義が劣化した」とか「ごく一部の超富裕層によって民主主義が簒奪された」という批判で、アメリカでは「謎の大富豪」コーク兄弟(オバマ政権に反対して結成されたティーパーティーの黒幕とされる)がその動かぬ証拠として名指しされている。

だがシーヴとスタサヴェージによると、こうした「グローバリズムの悪玉」論では最高税率の推移をうまく説明できない。コーク兄弟のいない、より平等な北欧諸国などでも個人所得税の最高税率は大きく下がっているからだ。

著者たちは、累進課税を正当化するのは損得勘定ではなく「公平感覚」だという。それには「支払い能力論」「平等な扱い論」「補償論」がある。

このうち「支払い能力論」は、「年収1億円の富裕層にとっての1ドルの税は、平均的な給与で暮らしている者より犠牲としては小さい」というもので、定額税(人頭税)を批判する強力な論拠を提供する。だがこれでは、定率税(フラットタックス)を擁護できても累進課税を正当化するには力不足だろう。――税率20%のフラットタックスなら、所得1億円のひとの納税額は2000万円で、所得100万円のひとは20万円なのだから、支払い能力を根拠にするならこれでじゅうぶんではないだろうか。

「平等な扱い論」は、国家は国民すべてを無差別に(全員をまったく同じに)扱うべきだとする。だがこれは、定額税(人頭税)にすればいいということではない。所得や家族構成によって、課税によるコスト(損失)は異なるからだ。だとすれば理想的な税制とは、貧乏人でも大金持ちでも課税によって実質的に同じコストを支払う(効用を失う)ように設計すべきだということになる。

これは理屈としては筋が通っているが、国民一人ひとりの効用をどのように計算するのかというやっかいな問題を引き起こす。ここでも、誰もが素直に納得できるのはフラットタックスまでだろう。

なお厚生経済学では、「社会全体の福祉(効用)が最大化するように税制を設計する」という原則を導入することでこの隘路を回避している。だがこうした経済学的な考え方が、有権者大多数の支持を得て政策を動かしているとはいいがたい。

最後に残された「補償論」は、富裕層は一般国民に対してなんからの「負い目」があり、その補償として高い税金を支払っているとする。しかし、お金持ちにはどんな「負い目」があるのだろうか?

強欲だから? 権力と癒着して甘い汁を吸っているから? 運がいいから?

そう考えるひともいるだろうが、これらはどれも有権者を大きく動かすちからにはならない。補償論で累進課税を正当化するには、誰もが直観的に納得できるようなもっとシンプルで強力な理由が必要なのだ。

先進国では累進課税が支持された理由は?

シーヴとスタサヴェージは過去200年間の先進諸国の所得税の法定最高限界税率の推移を観察し、そこに顕著な傾向があることを発見した。最高税率は最初はとても低く、20世紀に入ってから急に上昇し、1970年代以降になるとこんどは下降しはじめたのだ。

「補償論」が正しいとするならば、1900年頃になんらかの大きな出来事があり、それによって最高税率が上昇したが、20世紀半ばを過ぎると影響力を失って税率も下降したことになる。

税に対するひとびとの価値観を大きく変えた「イベント」とはいったい何か? もうおわかりと思うが、それは世界大戦だ。

第一次世界大戦(1914~1918年)は人類がはじめて体験した総力戦で、若者から壮年まで多くの国民(男性)が徴兵され、戦場で生命を失った。1939年のドイツによるポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦はそれをはるかに上回る総力戦で、ナチスによるユダヤ人のホロコーストや広島・長崎への原爆投下、国境変更にともなう膨大な難民の発生などで、兵士だけでなく数千万人の一般市民が生命を落とした。

ところでこの両大戦で、富裕層は一般国民と同じだけの犠牲を払っただろうか?

ヨーロッパで徴兵制が始まった当時は、お金を払って代理を立てることが認められていた。さすがにこれでは士気が保てないということで禁止されたが、それでも貴族の子弟が歩兵となって最前線で戦うようなことは考えられなかった。

だがそれよりも大きな問題となったのは、戦争特需によって大儲けする商人が出たことだ。ほとんどの国民が飢え苦しみ、死んでいくなかで、こんなことが許されていいのだろうか。

この理屈はとてつもなく強力で、反論を許さないものだった。戦争を続行するには巨額の資金が必要だが、国民を大規模に徴兵している国家は、その資金を富裕層から徴税するほかに選択肢がなかった。こうして世界大戦に参戦した国は、いずれも短期間に累進課税の最高税率をとんでもなく引き上げたのだ。

悲惨な戦争が終わると、「国家の失敗の犠牲者は補償されるべきだ」との左派の主張が、有権者に熱狂的に受け入れられた。

ドイツ降伏から2カ月後に行なわれたイギリスの総選挙で、労働党は「彼ら(戦争を勇敢に戦ったすべての国民)は、先の戦争(第一次大戦)後に多くの者が直面したよりも、ずっと幸福な未来を保証される価値があり、また保証されなければならない」と主張して、戦争の英雄であるチャーチル率いる保守党に大勝利を収めた。これはアメリカやフランスだけでなく、敗戦国のドイツや日本でも同じで、きわめて高い累進課税によって国家が富裕層から税を徴収し、それを国民に「補償(再分配)」するのが当然だとされた。

こうして欧米の先進諸国では、20世紀初頭から1950年代にかけて(日本では1970年代まで)最高税率が大きく上昇した。この現象は「福祉国家化」と呼ばれている。

日本で超累進課税が復活する「イベント」

シーヴとスタサヴェージは、世界大戦によってはじめて高率の累進課税は「公平」になったという。この主張が正しいとすれば、20世紀後半になってすべての先進諸国で最高税率が下がりはじめた理由もわかるだろう。

グローバル化やタックスヘイヴンの影響はもちろんあるし(これは法人税率にとりわけ顕著だ)、アメリカなどでは超富裕層が積極的なロビー活動をしていることも間違いないだろう。だがそれだけでは、有権者の価値観を大きく動かすことはできない。

ひとびとが累進課税を「公平」だと感じなくなったもっとも大きな理由は、「国民を動員する総力戦がなくなった」ことだ。平和な時代には富裕層が一般国民に「補償」する正当な根拠はなくなり、世界大戦以前と同様に、税の公平感覚はフラットタックスに近いものになっていくのだ。

もちろんこれは累進課税についてのひとつの仮説で、正しいかどうかは今後、多くの検証が必要になるだろう。だが「総力戦争による“富の徴兵”のみが、20世紀に入ってからの最高税率の逆U字型の推移をもっともよく説明できる」という『金持ち課税』の著者たちの主張には強い説得力がある。

だとすれば、今後の税制はどのようなものになっていくのだろう?

ふたたび大規模な戦争が始まれば、最高税率は上がるのだろうか。だが著者たちは、その可能性は考えられないという。現代の戦争は局地戦で、かつてのように国民を大規模に徴兵して歩兵にする必要はなく、兵士はドローンとロボットに置き換えられていく。そんな戦争をいくらやったところで、国民は富裕層が道徳的に「補償」すべきだとは思わないだろう。

こうして最高税率が下がれば、富裕層と貧困層との格差はますます開いていく。だが、それを「不正」だと声高に主張するだけでは有権者を動員できない。「なぜ格差は不公平なのか?」と問われて、「格差は不公平だから」というトートロジー(同義反復)でしかこたえられないのだから。

200年間の「金持ち課税」を徹底的に調べた二人は、このようにして、累進課税のフラットタックス化と格差の拡大は今後もつづくと予想する。

だが私は、日本の場合、戦争に匹敵する巨大な「イベント」がもうひとつ想定できると考えている。それは「国家破産」だ。

日本の財政が(もしかして)破綻し、日本円が(もしかして)紙くずになり、年金も社会保障も(もしかして)崩壊したときに、日本株の空売りやFX、あるいは仮想通貨への投資でなどで一部の人間だけが大儲けしたとしたら、ひとびとはそれを「不公平」だと感じないだろうか。そのときにこそ、富裕層に対して「補償」を求める超累進課税が復活するかもしれない。――富裕層が日本国内に残っていれば、の話だが。

禁・無断転載