第97回 お金を使いきれぬ「小金持ち」(橘玲の世界は損得勘定)

新型コロナで第1回の緊急事態宣言が発出されていたから、昨年の5月頃だろうか。近所を歩いていて、百貨店の食品売り場の袋を抱えた身なりのいい老夫婦を目にした。非常食を買いにきたのかと思ったが、どうもそうではないらしい。

「買い物したいのはわかるけど、これ以上買っても食べられないだろう」という夫を、妻がぶぜんとした顔でにらみつけている。外出制限で買い物くらいしかすることがなくなったものの、食品だけでは妻の購買意欲は満足できなかったようだ。

そのあと知人の女性から、コロナ禍でも美容院やエステ、ネイルサロンなどの売上はそれほど落ちていないという話を聞いた。来客数は減っているが、高額の出費をする高齢女性たちがそれを埋め合わせているのだという。

今年3月から、帝国ホテルが月額36万円のサービスアパートメントを始めた。ネイルサロンのオーナーによると、それを知って真っ先に予約したのは店の常連客やその友人たちだという。みんな裕福な高齢女性たちで、国内旅行も海外旅行も行けなくなったので、銀座や六本木の高級ホテルに泊まって、ミシュランの星付きレストランを食べ歩くのが流行っているらしい。

経済格差というのは、社会が富裕層と貧困層に二極化することだ。日本では貧困問題にばかりに目がいくが、その反対側には使いきれないお金を抱えているひとたちがいる。

とはいえ、ここでいう「富裕層」は資産数十億円、数百億円の「富豪」というわけではないだろう。

都内の高級住宅地に持ち家があれば、それを売って多額の資金をつくれるから、老後のお金の心配をする必要はない。夫がサラリーマンとして出世していれば、平均より多い年金を受給しているだろう。

そう考えると、コロナで「小金持ち」が直面した状況がわかる。旅行や会食、パーティなどでお金を使うことができなくなり、銀行口座の残高だけが増えていくのだ。

お金が貯まっていいではないかと思うかもしれないが、高齢者は「時間」が限られている。80歳を過ぎると、旅行に出かける気力や体力がなくなってしまうかもしれない。

いまどきの富裕層は、子どもたちにできるだけ多く資産を残そうなどとは思わなくなったのではないか。デパ地下の買い物やエステ、高級サービスアパートメントなどで散財するのは、お金を残したまま歳をとり、消費できないお金が口座に貯まっていくと、損をした気になるからかもしれない。

近所の高級中華料理店の個室は、土日はほぼ満席だ。会食はまだ無理だが、ワクチン接種を終えた高齢の夫婦や友人同士の利用が増えているという。

欧米では、経済活動再開にともなう消費の回復が伝えられている。超高齢社会の日本では、残された時間のうちに「余分なお金」と使いきってしまおうという富裕な高齢者たちが、コロナ後の消費を牽引するのではないだろうか。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.97『日経ヴェリタス』2021年7月9日号掲載
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