新宿中央公園のホームレス

「パークハイアット東京」に寄った帰りに、ときどき新宿中央公園を訪ねることがあります。

アメリカのレストランガイド『ザガットZagat』がこのホテルを高く評価したことから、最近は会食の場所に指定されることが多くなりました。少なくともアメリカ人の間では、東京で最高のホテルだと信じられています。

私は美食家でもなく、高級ホテルに興味があるわけでもないので、自ら出かけることはありません。それでも、このホテルのレストランには少し詳しくなりました。

パークハイアットといえば、最上階のメインダイニング「ニューヨークグリル」からの夜景が有名ですが、ラウンジ「ジランドール」のブレックファースト・ブッフェや、和食レストラン「梢」でのディナーも人気の的です。「梢」は、最低でも1人2万円は必要な高級会席の店ですが、いつ行っても満席で、予約なしでは入れません。最近では、出勤前のホステスとの同伴や不倫の逢瀬よりも、若いカップルの姿が目立つようになりました。髪の毛を金色に染めた若者たちが、1泊5万円を下らない部屋に宿泊し、ラフな格好で気軽に食事をしています。350万人の失業者も、年間3万人を越える自殺者も、10年に及ぶ長く重苦しい不況も、まるでよその国の話のようです。

窓際の席に座れば、どのレストランからも、新宿中央公園の淡い緑が眼下に見渡せます。夜になれば、煌めくような夜景の中で、その一帯だけが不思議な存在感をもって、暗い沈黙に満たされています。

ホテル玄関のスロープを降りて南通りに出ると、すぐ目の前が公園入口です。東京都庁のシルエットを右手に見ながら淀橋給水所を越え、公園大橋を渡って、センチュリーハイアットやヒルトンホテルのある北通りまで歩くのがいつものコースです。

天気のよい午前中は、公園大橋の欄干に色とりどりの布団が干してあります。水飲み場には、歯を磨き、顔を洗う人たちが集まっています。剃刀を器用に操って、頭を剃っている人がいます。夏の暑い時期は、人口滝の下で水浴する姿も目に入ります。公園のそこかしこにダンボールハウスが置かれています。

新宿中央公園に、いつ頃からホームレスが集まり出したのかは知りません。10年ほど前は、新宿西口から高層ビル街を抜けて東京都庁に至る地下道にずらりとダンボールハウスが並んでいました。この地下道の左右に据えられた太い柱が、ホームレスたちに格好の隠れ家を提供していたからです。

ダンボールハウスが撤去され、通路の端に動く歩道がつくられると、彼らはJR新宿西口前の地下に移り住みました。

タクシー乗り場と、地上への出口と、京王線との連絡通路の人波の中に、ブラックホールのような空間があります。1日に数万人が通り過ぎるその場所に、忽然とダンボール村が誕生しました。

この新しい村は思いのほか長く存続しましたが、数年前に東京都が強制撤去し、跡地は催事場に変わっています。こうして、居心地のいい地下を追い出されたホームレスの群れが、新宿中央公園に集まってきたのです。

東京都内には、上野公園や荒川の河川敷など、こうした場所がいくつもあります。自治体としても、ダンボールハウスを撤去した後に、福祉でホームレスの世話をする余裕はありません。たとえ不法占拠でも、住民からの苦情がこない場所で自活してもらった方が助かるので、騒ぎを起こさないかぎり黙認されているのです。

春は、新たなホームレスが生まれる季節だとも言います。

厳しい冬の寒さを避け、桜の花の散る頃に、多くの人がホームレス生活に身を投じるからです。花見客の残したダンボールやビニールシートが、彼らの新しい家をつくる素材になります。次の冬が来る前に、暖を取るねぐらと食べ物を得る技術を身につけることができれば、生き延びることができます。さもなければ、凍え死ぬだけです。

べつに、彼らホームレスの人生に興味があるわけではありません。野宿するほかない境遇に身を落とすにはそれなりの理由があったのでしょうが、それを知りたいとも思いません。彼らの人生がどれほど悲惨でも同情はしないし、ホームレスを支援すると称する団体に、たとえ100円であろうともカンパする気にはなりません。この冬を越せず、彼らの多くが生命の火を消すことになっても、私の人生には何の関係もないことです。

なぜ私は、新宿中央公園に引き寄せられるのでしょうか?

公園を通り抜ける間に、りゅうとした身なりの紳士がじっとホームレスたちを見つめている場面に出会うことがあります。ある時は、降りしきる雨の中、高価なカシミアのロングコートを身にまとった初老の男性が、崩れかけたダンボールの前で立ちすくんでいる姿を目にしました。そのダンボールの中には、生きているか死んでいるかわからない、半分水に浸かったまま横たわり、ぴくりとも動かない半裸の男の姿がありました。

ホームレスに同情したり、見世物にしたり、嘲ったりするのではありません。

公園で偶然出会う紳士たちとは目を合わせることすらありませんが、私は、彼らの瞳に宿っている光の色を知っています。彼らも同様に、私の心の内側を見透かしているでしょう。

私たちがともに抱いているもの、それは恐怖です。

あなたは、この恐怖の味を知っているでしょうか?

ホームレスには、ふたつの人種があるといいます。

ひとつは、ただ家がないだけで、仕事をして稼いでいる者たち。仕事の内容はほとんどが工事現場の肉体労働で、彼らは山谷の簡易旅館に寝泊りするかわりに、公園や河川敷での野宿を選んでいます。なぜそんなことをするかというと、彼らには、畳の上で寝るよりも大事なことがあるからです。それはたいてい、酒か、女か、博奕です。

彼らの中には、たとえば競輪に人生を賭けている者がいます。稼ぎのすべてを車券に注ぎ込むためには、寝る場所に金を払うような無駄な出費はできません。当然、酒や女にも1円の金も使いません。それはもちろん快楽のためですが、その姿はどこか求道者にも似ています。同様に、女を抱くことに人生を賭けている者は、酒や博打には手を出さないと聞きます。

彼らは、野宿をしているものの、自分のことをホームレスだとは思っていません。なぜなら、決定的な一点において、自分はまだ人間としての尊厳を保っていると信じているからです。

彼らにとって、人間であるか否かの境界は、残飯を漁るかどうかで決まります。

世間の常識から見れば同じ最底辺の境遇であっても、そこには厳然とした区別、あるいは差別が存在します。ホームレスとは「残飯を漁る者」であり、それは人間ではない何かだと考えられているのです。

無論、ホームレスであっても、日本国民として、日本国憲法で保障された人権を有していることに違いはありません。残飯を漁ったからといって、人権を失うわけでもありません。だがここには、そうした空虚な建前にはない、強烈なリアリティがあります。

深夜のコンビニの前を通ると、ゴミ箱から食べ残しの弁当がはみ出しているのが目につきます。それを引きずり出し、他人が食いかけた肉や飯を素手で口に運んだとき、私はまだ、人間としての尊厳を保っていることができるでしょうか?

たまたま街でホームレスの姿を見かけても、ほとんどの人は眉を顰めるだけです。そこに思いどおりにいかない自らの人生を映して、同情を寄せる人もいるかもしれません。ときどきは、それが自分の明日の姿かも知れないと想像してみることだってあるでしょう。

だが、そんな漠然とした不安について述べているのではありません。

あなたは、ホームレスとなって、残飯を漁って生きていく現実をこの目で確認しなければいられない、そんな衝動に駆られたことがあるでしょうか?

新宿中央公園に足を向ければ、そこには私の同類がいます。もちろん、言葉を交わすこともなければ、心が触れ合うこともありません。互いに黙って目を伏せるだけです。

パークハイアットの贅を尽くしたレストランの席に座ると、私は、この暗い公園に目を向けずにはいられません。なぜならそこには、薄汚れたダンボールに住み、残飯を漁る私がいるからです。

あなたには、この恐怖の肌触りがわかるでしょうか?

もしそうなら、あなたもまた、リスクを負って生きるとことの意味を知っているはずです。

『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)2002年