「子育て神話」から自由になるために

「遺伝子決定論?」で子育てについて書いたら、たくさんの質問をいただいた。

私にはそもそも子育てについて語るような資格はないが、ジュディス・リッチ・ハリス(『子育ての大誤解』)によれば、そもそも親が子育てについて語ること自体が間違っている(なぜなら、子育ては子どもの人生になんの影響も及ぼさないから)。だったら、(私のような)資格のない人間が勝手なことをいってもいいのでは、と考えて、進化と子育てについて思いついたことをいくつか書く。

1)親は子どもを愛するけれど、子どもは親を愛するようには設計されていない。

いきなり不愉快になったかもしれないが、進化論的にはこのことはとても簡単に説明できる。

親が子どもを気にかけないとしたら、子どもはすぐに死んでしまうから、後世に遺伝子を残せない(すなわち、この世には存在しない)。だったら、いま生きている私たちは、「自分の子どもを無条件に愛する」という感情を基本OSとしてプレインストールされているにちがいない(これは人間だけでなく、哺乳類など子育てをするすべての生き物に共通する)。

それに対して、自分の親を愛するというのは、遺伝子を残すことにはなんの関係もない(自分の生存に有利だから、「親に甘える」という感情は基本OSだろう)。そもそも進化適応環境(旧石器時代)では、ヒトは20歳代で死んでしまったから、老親の世話をするというような「本性」が備わる理由がない。もちろん、生得的に親を憎む理由もないから、子どもが親を愛するかどうかは後天的な環境に依存する。

この「愛情の非対称性」は、簡単に検証可能だ。

自分の子どもを遺棄したり、虐待したりするケースはきわめて珍しい(だから事件になる)。一般に幼児虐待は、両親のうちどちらかが血縁関係にないケースで起こりやすい(再婚の夫が連れ子を虐待しても、母親は捨てられるのが怖くて見て見ぬふりをする)。

それに対して、いちど老人ホームを見学してみればわかるように、いまの日本には子どもに捨てられた老人が溢れている。こちらはあまりにも日常的で、話題にもならない。

自分の子どもを捨てることには激しい罪悪感を抱くが、自分の親を捨てることはなんとも思わない。「親孝行」は文化的なものだから、孔子はわざわざ「孝」を説かなくてはいけなかったのだ。

2)子どもは親の世話がなくても生きていけるように設計されている。

進化適応環境では、メスは授乳期間が終わると同時に次の子どもを妊娠し(乳幼児の死亡率が高いため、そうしないと十分な数の子孫を残せない)、オスは家族のもとに食べ物を運ぶのに精いっぱいだったと考えられる。このような厳しい環境では、両親の世話がなければ生きていけない子どもは淘汰されてしまうから、子どもはもともと親の世話がなくても生きていけるように設計されている。

親の代わりに幼い子どもの面倒を見るのが、兄姉であり、共同体のなかの(同じくらいの年齢の)子ども集団だ。子どもが親よりも友だちを優先するのは、ごく自然な感情なのだ。

子ども集団のアイデンティティは、大人社会との対比(対立)によって成立している。だから子どもは、自分の友だち関係に親が介入することを極端に嫌う(親が友だち関係に介入すると、その子は仲間はずれにされる)。

親は、自分の子どもがどのような友だち集団に引き寄せられるか、その集団のなかでどのような役割を演じるかについてまったくの無力だ。人格(キャラクター)は友だち集団のなかで演じるキャラによって決まるのだから、親の子育ては、子どもがどのような人間になるかにほとんど影響を与えない。

3)核家族の極端な母子密着は危険である。

現代日本では、子どもは隔離された家のなかで母親と密着した状態で育てられるのがふつうだが、ヒトの基本OSはこのような成育環境に適応するようにできていない。

スポーツ選手などに見られるように、親子密着型の環境が成功することもあるだろうが、その背後には不適応に陥った膨大なケースがあるはずだ(こうした失敗例は表に出ないから私たちの目には入らない)。

いまさら旧石器時代と同じ子育て環境をつくるのは非現実的だが、子どもの人格は基本OSに準拠したかたちで形成していった方が安定するだろう。子どもを友だち集団から切り離し、家庭に囲い込むような極端な母子密着はきわめて危険だ(「神童」と呼ばれる子どもが大人になって破綻するのは、子ども期の人格形成に失敗するからだとハリスはいう)。

進化心理学的な考え方がわかると、日本で広く信じられている子育て神話から自由になることができる。

  • 「3歳までは母親が家庭で面倒を見るべき」という3歳児神話にはなんの根拠もない。もっと早くから保育園に子どもを預けても悪影響はない。
  • 共働きは、子どもの人格形成になんの障害にもならない。そればかりか、専業主婦の母親が子どもと密着するよりずっと健全だ。
  • 子どものために親が犠牲になることはない。「親の犠牲(こんなにやってあげたのに)」を強調すると、子どもはそれを抑圧と感じる。親は自分の人生を楽しんだほうがいい。
  • 「自然」な子育てとは、幼児期から同年代の子ども集団のなかに入れて、あとは放っておくことだ。ただしここで親は、どのような集団を選ぶかで子どもの人格形成にきわめて大きな影響力を行使する(アメリカに移住して公立学校に入れれば、完璧なアメリカ人の人格ができる)。
  • 子育てには「成功」も「失敗」もない。子どもの人生は、親には(ほとんど)どうすることもできない「運命」みたいなものだ(親は常に子どもの人生を「設計」しようとするが、そのとおりになることはない)。

もちろん私は、「親の愛情なんてどうでもいい」ということをいいたいわけではない。子どもの本性(ヒューマン・ユニヴァーサルズ)を知ったうえで、十分な愛情を注いであげればいいのではないだろうか。

親にできることなんて、ほかにはなにもないのだから。

(個別のご質問には次回、お答えします。)

追記

微妙な問題なので、誤解のないように、念のため申し添えておく。

「自分の子どもを無条件に愛する」というのがヒトの基本OSだとしても、男女(父親と母親)では違いがあるだろうし、個人差もあるだろう。だからこれは、「子どもを愛せない親は異常だ」ということではない。親の愛情にはバラつきがあるが、進化はそれを前提として、親にあまり気にかけられなくても子どもがちゃんと育つような設計になっている、と考えるべきだろう。

進化適応環境では、核家族や母子(親子)密着、(親族から切り離された)母子家庭などはあり得なかった。幼児虐待は親の資質だけを問題にするのではなく、こうした(設計書にはない想定外の)環境の変化を含めて議論する必要がある(虐待する親を道徳的に批判するだけではなにも解決しない)。