ジェフリー・サックスの「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」はどうなったのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2018年8月30日公開の「2015年までに世界の「絶対的貧困」を半減させるという野心的なプロジェクトはその後どうなったのか?」です(一部改変)。

アフリカ・マダガスカルの子どもたち(Photo:ⒸAlt Invest Com)

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人類社会が新たな千年紀(ミレニアム)を迎えた2000年9月、ニューヨークの国連ミレニアム・サミットで、2015年までに世界の「絶対的貧困」を半減させるという野心的な「ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs)」が採択された。

しかし、いったいどうすればこんなことが可能になるのだろうか。「そんなの、ものすごく簡単だよ」といったのが、開発経済学者のジェフリー・サックスだ。2005年に発売された『貧困の終焉――2025年までに世界を変える』(鈴木主税訳、早川書房)は世界的なベストセラーになった。そこでサックスが唱えたのが「ビッグプッシュ理論」だ。

ロックグループU2のボノや女優アンジェリーナ・ジョリーが熱心な応援団(広告塔)になったことで大きな話題を集めたが、最近ではサックスの名前を目にすることはほとんどなくなった。あの話はいったいどうなったのだろう。

そう思ってニナ・ムンク(Nina Munk)の“The Idealist: Jeffrey Sachs and the Quest to End Poverty (イデアリスト:ジェフリー・サックスと「貧困の終焉」の追求)”を読んでみた。

「イデアリスト(理想主義者)」を取材する

著者のムンクは『ニューヨーク・タイムズ』などを経て米誌『バニティ・フェア』で活躍するジャーナリストで、タイムワーナーとAOLの「世紀の合併」の内幕を描いたビジネス・ノンフィクションで注目され、その後はグローバル経済の勝者にして現代の王侯貴族であるヘッジファンド・マネージャーなどを取材した。

だが彼女は、そうした「金持ちの話」にすぐに飽きてしまった。そんなときに出会ったのがサックスの『貧困の終焉』で、ムンクは次の取材ターゲットを「グローバル経済の敗者」すなわち世界の最貧困層にすることを思いついた。

サックスにとっても、ムンクからの取材依頼は渡りに船だった。「ビッグプッシュ理論」を実現するには先進国、とりわけアメリカ社会・政財官界の支持を必要としており、『バニティ・フェア』は大きな影響力をもつ大衆誌だった。こうして両者の利害は一致し、ムンクにはサックスがアフリカで行なうプロジェクトを自由に取材することが認められた。

ムンクはサックスと一対一で繰り返し長時間インタビューしたほか、「貧困の終焉」を目指すサックスのさまざまな活動にも随伴し、「ミレニアム・ヴィレッジ」と名づけられたアフリカの貧しい2つの村をほぼ5年間にわたって訪れた。

こうして2013年に満を持して発表したのが“The Idealist”で、文字どおり「理想主義者」のことだ。その徹底した取材は驚嘆すべきもので、欧米で大きな反響を巻き起こし、数々の賞にノミネートされ、フォーブズやブルームバーグ、Amazonなどで「ブック・オブ・ザ・イヤー」の1冊に選ばれたのも当然だろう。

日本では『貧困の終焉』をはじめサックスの著書の多くが翻訳されているが、残念なことに、その結末を描いた “The Idealist”は日本語になっていない。原書発売から5年を経ていることもあり、今後も翻訳される可能性は低そうなので、ここで概要を紹介してみたい。

「ビッグプッシュ理論」という福音

絶対的貧困(Extreme Poverty)とは、「人間として最低限の生活(ベーシック・ヒューマン・ニーズ)」が達成されていない状態で、物価の変動を反映させるための何度かの改定を経て、現在は1日1.90ドル(約200円)以下での生活を余儀なくされているひとたちをいう。

サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカは世界でもっとも絶対的貧困の割合が高い地域で、人口のおよそ半分、4億人以上が「最低限の生活」ができない状態に置かれている。なぜこのような理不尽な現状が放置されているのだろうか。そもそもなぜ、ブラックアフリカはこれほど貧しいのか。

ここで多くのひとは、「奴隷貿易によって搾取されたから」と考えるだろう。もちろんこれは、現在でももっとも説得力のある説明のひとつだが、欧米ではあまり評判がよくない。イギリス、フランスなどアフリカの旧宗主国の白人にとっては過去の傷口に塩をすり込まれるようなものだし、“贖罪”のために莫大は援助(過去50年間に2.3兆ドルとされる)をしたにもかかわらず経済発展にテイクオフできないのは、政治家や官僚の腐敗などアフリカの「自己責任」ではないかとの(感情的な)反論を招き寄せるからだ。

「アフリカ自己責任論」は、誰も公には口にしないものの、「アフリカが発展できないのは人種的に劣っているからだ」という人種主義(レイシズム)を含意している。1970年代まではアフリカ諸国より絶対的貧困率が高かった中国が、わずか30年で「世界第2位の経済大国」へと見事に変貌したことが、こうした主張を勢いづかせた。アフリカの経済援助にかかわる白人の専門家のなかでは、これが暗黙の常識になっていることは公然の秘密だ。

しかしサックスは、「アフリカの貧困は植民地主義時代の“歴史問題”によるものでも、アフリカ人が劣っているからでもない」というエレガントな説明を提示した。「絶対的貧困に苦しむひとたちは、ゆたかさの階段の最初のステップに足をかけることができない」のだ。

サックスによれば、アフリカの最貧困地域には満足な医療制度も、社会保障制度も、教育制度もなければ、農業の生産性を高めるための灌漑設備や化学肥料、高収量品種の種子もない。その結果、いくら働いても貧しいままという負の連鎖にはまってしまう。「貧困の罠」の本質は初期資本が欠けていることなのだ。

最初のステップに足をかけることができなければ、誰も階段を昇ることはできない。これは逆にいえば、一段目に足をかけることができさえすれば、あとは自分で「ゆたかさへの階段」を昇っていけるということだ。これがサックスの「ビッグプッシュ理論」で、「いちどの大規模な援助によって貧しいひとたちを階段の一段目までもち上げれば、彼らは貧困の罠を抜け出せる」と説いた。

サックスはこれを、「“M word”から“B Word”へ」という。必要なのはMillion(100万ドル)単位ではなくBillion(10億ドル)単位の資金なのだ。

「貧困をなくすための投資には莫大なリターンがある。年間660億ドル(7兆円)を投資すれば800万人の生命を救い、同時に年間3600億ドル(40兆円)の経済的な利益を生み出せる」と、サックスは開発援助関係者の腰が抜けるような数字をあげてみせた。

この「福音」が欧米のリベラルなひとびとに熱狂的に受け入れられた理由は明白だ。サックスの「ビッグプッシュ理論」が正しいとするならば、最初にちょっと気前のいい援助をするだけで永遠に罪悪感から解放されるのだから。

「ショック・セラピー」の伝道師からの転身

ジェフリー・サックスは1954年にミシガン州デトロイト郊外で高名な弁護士の息子として生まれ、幼少期から“神童”の名をほしいままにした。当然、法律家になるだろうとの両親の期待に反してハーバード大学では経済学を専攻し、弱冠28歳でハーバードのテニュア(終身教授)の資格を取得した。

サックスの名声を確立したのは、経済学への理論的貢献ではなく華々しい実践によるものだった。

1985年、南米のボリビアが自由主義経済の導入に舵を切ったとき、31歳のサックスは経済政策顧問として招かれ、大胆な財政改革・市場改革を進言した。財政健全化による失業率の増大などの副作用はともなったものの、これによって1万4000%のハイパーインフレを見事に抑え込んだことでサックスは一躍、開発経済学のスターとなった。新自由主義(ネオリベ)にもとづくサックスの劇薬ともいえる処方性はその後、「ショック・セラピー」と呼ばれるようになる。

冷戦が崩壊した1989年、サックスは民主化を達成したばかりのポーランドに招かれ、「連帯」指導者の一人で民主ポーランドの初代首相となったマゾヴィエツキの求めに応じてわずか1日で処方箋を書き上げた。この「ショック・セラピー」も、さまざまな弊害をともないながらも、ポーランドが短期間に自由経済に移行するのに大きく貢献したとみなされ、若きサックスの名声は頂点に達した。

翌1990年、サックスはボリス・エリツィンに招かれ、新自由主義的な経済改革をアドバイスすることになる。だが案に相違して、ロシアは経済発展へのテイクオフに失敗したばかりか、国営企業の無謀な民営化によって「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が跋扈する異形の経済が誕生し、1998年にはロシア金融危機を起こして財政破綻してしまった。

それまでの成功に対する嫉妬ややっかみもあるのだろうが、これによって「ショック・セラピー」の伝道師としてのサックスの評判は地に堕ちた。「ミルトン・フリードマンなどの古臭い経済理論を巧みに売り歩くだけのプレゼンテーション屋」と皮肉られるようになったのだ。――ちなみにサックスはロシアでの「失敗」について、急進的な市場改革をエリツィンに指南したディック・チェイニー(ブッシュ政権副大統領)、ロバート・ルービン(クリントン政権財務長官)、ローレンス・サマーズ(同)ではなく自分だけが非難されるのは不当だとムンクに語っている。

いずれにせよ、新たなミレニアムを迎える頃には、サックスの名声は危機に瀕していた。だが『貧困の終焉』の成功によって、サックスはこの逆境を跳ね返したばかりか、ロックスターやハリウッドのセレブ、さらには国連事務総長(潘基文)まで巻き込んで、かつてよりずっと大きな注目を手に入れることになった。

「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」に魅せられた純心な若者たち

ジェフリー・サックスは、「絶対的な貧困を終わらせることは簡単(easy)」だという。だとすれば、これまで長年、貧困を改善しようとたたかってきた欧米の開発経済学者や貧困救済団体はいったいなにをしてきたのだろうか。

「彼らは最初からやり方を間違えていたのだ。なぜなら“経済学的に無知(economically ignorant)”で“バカ(idiots)だから」

サックスの理屈ではそうなるほかはないし、実際、巨大なエゴの持ち主で「傲慢」と忌み嫌われたサックスは“良心的”な貧困問題の専門家を面と向かって罵倒した。当然のことながら、主流派の開発経済学者との非難(というか罵詈雑言)の応酬が勃発した(ウィリアム・イースタリー『エコノミスト 南の貧困と闘う』 小浜裕久訳、東洋経済新報社)。

サックスは、こうした「無理解」と戦うために、なんとしても「ビッグプッシュ理論」の正しさを証明する必要があった。そこで、持ち前の「プレゼンテーション能力」を発揮して慈善団体などから1億2000万ドル(約130億円)もの巨額の資金を集め、アフリカのもっとも貧しい地域にある10の村で大規模な実験を行なうことにした。最大の理解者はジョージ・ソロスで、サックスのプロジェクトに5000万ドルを出資した。

1日の生活費が2ドル以下で暮らすひとたちの村に、1カ所あたり10億円を超える投資をするのだから、まさに「ビッグプッシュ」だ。サックスはこれを、国連のミレニアム・プロジェクトにちなんで「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト(Millennium Village Project:MVP)」と名づけた。

エチオピア、ウガンダ、ケニア、タンザニア、マラウィ、ルワンダ、ナイジェリア、ガーナ、マリ、セネガルにつくられたサックスのミレニアム・ヴィレッジのなかから、ジャーナリストのニナ・ムンクは、ケニア北東部でソマリアとの国境近くにあるダートゥ(Dertu)と、ウガンダ南西部の高地にあるルヒーラ(Ruhiira)という村を定点観測に選んだ。

ダートゥの現地責任者はアーメド・マリ-ム・ムハンマドという40代のソマリ人で、大半のソマリ人と同じくラクダの群れとともに移動する遊牧民の子どもとして生まれたが、幸運にも(もちろん本人の努力もあって)高等教育を受けることができ、国内の農業大学で学位を、留学したベルギーの大学で「乾燥地帯の自然資源の管理」の博士号を取得した。

ケニアに帰国すれば高級官僚の道が約束されているアーメドが選んだのは、サックスのミレニアム・ヴィレッジだった。自分が幼い頃に経験し、いまも多くの同胞たちが苦しんでいる貧困を終わらせることができるという「偉大なる博士の理想(the Great Professor’s Ideas)」の魅力はそれほど強烈だったのだ。

ルヒーラの現地責任者は30代半ばのデイヴィッド・シリリで、ウガンダ独立(1962年)後に数学教師の父親と病院の助産婦の母親という新興中流階級の家庭に生まれた。だが幸福な日々はイディ・アミンの独裁によって終わり、社会秩序の混乱と崩壊のなかデイヴィッドの両親は家を捨てて逃れるほかなかった。

アミンの失脚(1979年)によってその蛮行が欧米で広く知られるようになると、社会福祉団体などからの支援金が送られてくるようになった。デイヴィッドは幸運にもその資金を得て学校に復帰し、10万人の応募者に合格者2000人という難関を突破してウガンダ国立大学に入学、イギリスの大学に留学して農業・森林学の博士号を取得した。その直後にミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトに参加したのはアーメドと同じだ。

サックスは2002年にハーバードからコロンビアに移籍していた(コロンビア大学は有名教授であるサックスを招聘するために800万ドル(約9億円)でニューヨーク・マンハッタンに庭付きタウンハウスを用意した)。ミレニア・ビレッジ・プロジェクトの本拠はコロンビア大学内に置かれ、アーメドやデイヴィッドのようなアフリカ生まれの優秀な若者がそれぞれの村の責任者として派遣された。

彼らは、サックスの「貧困救済教」というカルト宗教に魅せられた高学歴で純真な「信者」たちだった。

押し寄せる難題

サックスは、2006~11年の5年間の「ビッグプッシュ」でミレニアム・ヴィレッジは自立したゆたかな村に変貌すると豪語した。その成功にもとづいて、同じプロジェクトを世界じゅうに広げれば、2025年までに人類の貧困は終焉するのだ。現地責任者であるアーメドやデイヴィッドに与えられた使命は、巨額の資金を有効活用して医療・教育・農業・産業振興のためのインフラを整備することだった。

彼らの苦闘がニナ・ムンクの『アイデアリスト』の読みどころなのだが、そのすべてを紹介することはできないので、ここでは経緯のみをかんたんにまとめておこう。

アーメドが担当したダートゥは国家としてはケニアに属しているがもとはソマリ人の遊牧地だった。サックスが集めた資金で病院や学校などを整備したことで街の人口は急速に増え、藁ぶき屋根は真新しいトタン屋根になり、雑貨店やレストランもできて、近隣のなかでももっとも繁栄する村に生まれ変わった。だが問題は、ひとびとを養う産業が存在しないことだった。

遊牧民にとってはより多くのラクダを保有することがステイタスで、労働は卑しむべきこととされ、農業はもちろん建築などの仕事に従事させることも論外だった。こうしてダートゥは、慈善団体の資金に依存する難民キャンプの様相を呈してきた。村に集まってきた元遊牧民たちは、日がな一日木陰で噂話に興じ、アーメドたちに苦情をいった(支援金で1人1軒の家を建て、灌漑のために川の流れを変えるように要求されてアーメドは困惑した)。住民が考えるのは多くの支援金を得ることだけで、世帯単位で食料を配給すると複数の家を登録する者が次々と現われた。

アーメドは、遊牧民である村人が自立するにはラクダの取引市場をつくるしかないと考えた。2007年夏に行なわれた取引所の開設式にはサックスも参加し、欧米のメディアでも紹介された。これがアーメドにとってもっとも成功した瞬間だったが、それは長くは続かなった。ダートゥは地域の中心から大きく外れており、遊牧民にとってはそこでラクダを売買することになんの魅力もなかったのだ。

一方、デイヴィッドの担当するウガンダのルヒーラは貧しい農民たちの村で、化学肥料や高収量の種子を無償配布することで収穫を大きく増やすことができた。これは大きな成果として喧伝されたが、デイヴィッドもやはり問題を抱えていた。

ひとつは水の確保だった。高地にあるルヒーラでは、ひとびとは水を得るためにはるか下の谷まで降りていかなくてはならず、その重労働で1日が終わってしまった。谷から農業用水を安定して汲み上げるには長大なパイプと強力なポンプ、じゅうぶんな燃料がなくてはならない。それは大事業であり、それ以外にも学校や病院などを建設しなくてはならないのだから、村の事業予算を大幅に超えてしまうのだ。

それでもサックスは、アメリカのパイプ・メーカーと交渉して無償で灌漑のための大量のパイプの提供と、設置に必要な技術者の派遣を同意させた。だが、このパイプをアメリカからウガンダまで船で輸送し、そこから僻地にあるルヒーラに運ぶ方法が問題になった。大型トラックもハイウェイもなく、どのような見積もりでも輸送コストがパイプそのものと同じくらいかかってしまうのだ。

さらなる難題は、ウガンダの既成のパイプがイギリス仕様なのに対し、提供されるパイプはアメリカ仕様だったことだ。両者を接続するには、いちいちコンバーターをつけなくてはならない。

このやっかいな事態に対してニューヨークの優秀なスタッフが編み出した解決策は、思いがけないものだった。そもそも、水を汲み上げるのにパイプやポンプが必要不可欠だと思うことが間違っているのだ。現地では伝統的に、悪路の物資の運搬にロバを使っている。だとしたら、なぜ水の運搬にロバを使ってはならないのか。

こうしてデイヴィッドのところには、大規模な灌漑施設の代わりに8頭のロバが届けられた。

もうひとつの問題は、このジョークのような話よりずっと深刻だった。トウモロコシの収穫が倍に増えたのはいいが、僻地でマーケットもないため、それを販売する方法がないのだ。その結果、近隣のトウモロコシ価格は暴落し、農民は売却をしぶって自宅や周辺の敷地に積み上げた。農産物を保管する倉庫がないので仕方がないのだが、ネズミが大発生して大半を処分するほかなくなった。

これを解決するには大規模な保管倉庫をつくるだけでなく、収穫物を都市に運ぶ道路・トラックなどの交通インフラや農産物の取引市場が必要だった。いずれもデイヴィッドに与えられた予算と権限ではどうしようもないことだった。

“貧困ポルノ”の終焉

ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトに選ばれた村ではマラリアの感染率が下がり、出産で死亡する妊婦が減り、子どもたちの教育年数が増えるなど、かなりの成果を達成した。だが当初の5年間を経て、この成長が持続可能かどうかについては大いに疑問があった。プロジェクトの批判派からの辛らつな攻撃だけでなく、アーメドやデイヴィッドなど現地責任者から「資金の流入が止まれば村は崩壊する」との訴えが山のように届いていたからだ。

こうしてサックスは、当初の計画の修正を余儀なくされた。2011年までの5年間はプロジェクトの「第1フェーズ」で、そこで経済発展に必要なインフラを構築し、2016年までの新たな5年間を「第2フェーズ」として、援助(贈与)ではなく融資(投資)によって野心的な起業家を養成しさまざまなビジネスを軌道に乗せるというのだ。

だがサックスの奮闘にもかかわらず、第2フェーズの資金集めは順調とはいえなかった。ニナ・ムンクは経験のあるジャーナリストではあるが、開発経済学はまったくの門外漢だった。そんな彼女ですら、プロジェクトは大きな問題を抱えており、そもそもサックスが最初から間違っていたのではないかと疑うようになった。現地とニューヨークの本部との関係は険悪になり、村のなかでも足の引っ張り合いが起こり、サックスの忠実な「信者」だったアーメドは2010年春に解雇されてしまう。「ミレニアム・ヴィレッジは大失敗だ」というのは、援助関係者のあいだでは常識になりつつあった。

だが私たちは、このプロジェクトの結末を知ることができない。

2011年夏にアフリカは記録的な干ばつに襲われた。ソマリアの遊牧地は干からび、ラクダは死に絶え、難民たちが国境を越えてケニア側に押し寄せた。難民にはイスラーム原理主義の過激派も混じっており、彼らは白人の援助関係者を殺し、あるいは誘拐して身代金を要求した。ケニアのソマリ地区からは白人はすべて退去し、ムンクもダートゥを二度と訪れることができなくなった。

同じく、干ばつのためウガンダの政情も混乱をきわめた。首都カンパラにあるミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトの支部は略奪にあい、デイヴィッドもルヒーラを放棄せざるを得なくなった。

このようにして、アフリカの「ビッグプッシュ」に投じられた1億2000万ドルの大半(すくなくともダートゥに投資された400~500万ドルの資金のすべて)は失われてしまった。サックスは、「村は次々と災難に見舞われた。ヨブ記のように」と他人事のように評論するだけで、プロジェクト自体は成功しつつあったと強弁しているが、ミレニアム・ヴィレッジと同程度の経済成長は、経済のグローバル化によってアフリカの他の地域でも達成されている。

サックスが強烈なエゴによって援助関係者からの批判を粉砕し、強引にプロジェクトを進めたとしても、貧困を撲滅するという彼の奮闘がすべて無意味だったということはできない。

マラリアを媒介する蚊を防ぐための虫よけネットは住友ケミカルが開発したもので、防虫剤を添付することで高い殺虫効果をもっていた。サックスは200万ドル分の虫よけネットを寄贈するよう住友ケミカルを説得したが、これに対して既存の援助関係者から「防虫ネットの市場をつくろうとしてきたこれまでの努力を台無しにする」との強い批判が起きた。

サックスは、「市場より大切なのはひとびとの生命だ。先進国ではワクチンを無償で接種できるが、これを止めてワクチン市場をつくれというのか」と反論した。かつては市場原理主義的なショック・セラピーの伝道者だったサックスは、こんどは市場原理を否定するようになったのだ。

中立的な経済学者のなかにも、この論争ではサックスに分があるとする者も多い。「防虫ネットの市場をつくる」という試みも、たいしてうまくいってないからだ。だったら、いますぐただで配ってどんな不利益があるというのか。

だがこうした数々の論争のなかで、サックスが常に「生命」を盾にとって論敵を非難してきたことは否定できない。ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトを批判する者は誰であれ、生命より市場(金儲け)を優先しようとしているのだ。

「死につつあるひとたちを放置するのか、そのためになにかしようとするのか、あなたの選択はふたつにひとつだ」とサックスは繰り返し力説した。だが2011年、干ばつでミレニアム・ヴィレッジが崩壊し、過激派組織や暴徒によって村人たちの生命が危機に瀕したとき、サックスはなにもしなかった。――この批判はきびしすぎるかもしれない。だがニナ・ムンクは、これまでのサックスの主張にのっとれば、このようにいうほかないと書く。天に吐いた唾は自分のところに落ちてくるのだ。

サックスは、「貧困を終わらせるのは簡単だ」との主張で時代の寵児になった。だがすべてが終わったあと、ムンクとの最後のロング・インタビューで、かつては「世界をよりよいものに変えられる」という確信を抱いていたことについて問われ、こう述懐している。

「この不確かな世界ですら、ひとは強い確信をもつことができる。ほんとうのところ、それができうる最善のすべてで、私にとっての“確信”とはそういうものだ」

「それ(ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト)が最善の最善(the best of the best)であったかどうかを問うことに意味があるとは思わない。それは、私がもっているもののなかで、私にできるベストだった」

世界金融危機ののち、サックスの関心はアフリカからアメリカの経済格差に移り、「ウォール街を占拠せよ」の集会で強欲を批判し、税制改革、銃規制、ワシントンの空洞化、ユーロ圏の崩壊から地球温暖化問題まで手当たり次第に演説し、寄稿し、tweetしている。それはまるで、新たに伝道できる「ネタ」を探しているかのようだ。2005年の絶頂期にはサックスを次期アメリカ大統領選の候補者にするという運動も盛り上がったが、その団体もとうに解散された。

雑誌『エコノミスト』誌は2012年3月、「貧困の終焉」にかけた「ライブエイドの終焉(The End of Live Aid)」という記事を掲載して一連の騒動を総括し、「サックス氏がU2のボーカリスト、ボノなどのセレブととともに繰り広げたロックコンサート風の“貧困ポルノ(poverty porn)”は幕を下ろした」と書いた。

禁・無断転載

成功に必要なのは運なのか? 実力なのか? 週刊プレイボーイ連載(536)

成功するためには実力と運の両方が必要です。しかし、その割合はどうなっているのでしょうか。実力さえあればいずれは成功できるのか、それとも運がすべてなのか。それを調べたのが2006年のミュージックラボ実験です。

研究者は新人バンドの曲をダウンロードできるウェブサイトをつくり、バナー広告で約1万4000人の被験者を集めたうえで、「独立条件」と「社会的影響条件」にランダムに割り振りました。

独立条件では、被験者はバンド名と曲名だけを教えられ、その曲を評価するとダウンロードできるようになっていました。気に入った曲があれば自分のPCに保存するでしょうが、他の参加者がどのような評価をしたのかはわかりません。

社会的影響条件では、それに加えて、自分より前の参加者がどれくらいその曲をダウンロードしたかを見られるようになっていました。ここでは8つのパラレルワールドがつくられ、それぞれ参加者が異なるので、曲のダウンロード数も(微妙に)異なってきます。参加者はみんな同じ曲のリストを提示されたのですから、どの世界でどの曲がたくさんダウンロードされるかは運(偶然)によって決まります。

この研究が大きな反響を呼んだのは、成功にとって運が決定的に重要なことを明らかにしたからです。たとえば52Metroという(無名の)バンドの「Lockdown」という(無名の)曲は、ある世界では48曲中1番人気でしたが、別の世界では40位だったのです。

とはいえ、実力がなんの関係もないというわけではありません。独立条件でダウンロード数の多かった「魅力的な曲」は、どの世界でも必ず上位に入るわけではないものの、下位になることはまれでした。その一方で、独立条件で「魅力がない」とされた曲は、どの世界でも上位に入ることはできませんでした。

もうひとつの興味深い発見は、魅力的な曲(実力のあるバンド)ほど、社会的影響条件の効果を強く受けたことです。独立条件で「魅力的」とされた曲は、いったん高く評価されると圧倒的な成功を収めました。ところが別の世界でよい順位を獲得できないと、それほど成功できなかったのです。

このことは音楽だけでなく、ネット上で評価されるさまざまな商品・サービスで、最初の評価がきわめて重要なことを示しています。その後の実験でも、ランダムに星の数を付けた場合、最初に(たまたま)5つ星だった商品はその後も高評価を維持することがわかっています。

しかしそうなると、最初に1つ星を付けられてしまうと、その商品やサービスは二度と日の目を見ることができないのでしょうか。じつはそんなことはなくて、「最初に低評価だと次に高評価がつきやすい」という結果が出ています。後続のユーザーが、理不尽な批判(クレーム)を不快に感じ、それに反発して高い評価をつけるからのようです。

このようにして公正な評価が回復されるのはよいことですが、それを考慮しても、最初に高い評価を獲得するメリットは大きなものがあります。これが、ステマ(ステルスマーケティング)がなくならない理由なのでしょう。

参考:マシュー・J・サルガニック『ビット・バイ・ビット デジタル社会調査入門』瀧川裕貴他訳、有斐閣

『週刊プレイボーイ』2022年9月12日発売号 禁・無断転載

フェアトレードで貧困をなくせるのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2014年1月23日公開の「フェアトレード”の不公正な取引が貧しい国の農家をより貧しくしていく」です(一部改変)。

コーヒー農園(Photo:ⒸAlt Invest Com)

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まるでカルト宗教の集会

フェアトレードは、「市場経済は貧しい国や貧しいひとたちを搾取している」として、「公正な取引Fair trade」を企業に求めるアンチ・グローバリズムの運動のことだ。欧米(とくにイギリス)では「倫理的に意識高い系(ethical awareness)」の高まりで広く普及している。フェアトレード財団だけでなく、レインフォレスト・アライアンス(熱帯雨林保護)、フォレスト・スチュワードシップ・カウンシル(森林保護)、UTZサーティファイド(サスティナブルなコーヒー)など、同様の趣旨で運営されている認証機関はいくつもある。

フェアトレードの主張は、「アフリカや中南米で、グローバル企業が農家のコーヒーやカカオ豆を不当に安く買い叩いている」というものだ。そのため農家は熱帯雨林を伐採し、それでも生活できず困窮に陥って破産してしまう。この問題を解決するもっとも有効な方法は、貧しい国の農家も労働に対する適正な利益が得られるよう、グローバル企業が「公正な価格」でコーヒーやカカオ豆を購入することだ。そうすれば農家の経営は安定し、無理な農地拡大も必要なくなり、自然もひとびともサスティナブル(持続可能)になるだろう。

素晴らしい話だが、はたしてほんとうだろうか? そんな疑問を抱いたイギリスのジャーナリスト、コナー・ウッドマンは自分の目でフェアトレードの現場を確かめる旅に出て、その成果を『フェアトレードのおかしな真実』(松本裕訳、英治出版)で報告している。

“フェアトレード先進国”であるイギリスでは、スターバックスやネスレがいち早く倫理的認証を受け、「環境にやさしくない」企業の代名詞だったマクドナルドまでがレインフォレスト・アライアンスの認証マーク付きコーヒーを売っている。キャドバリー社の国民的なチョコレートも、2009年にフェアトレードの認証を受けることになった。

その記者会見に出席したウッドマンは、なんともいえない違和感を持った。そこには「FAB(Fairtrade Association Birmingham)」と白抜きされた黒のTシャツを着た活動家たちが集まっていて、キャドバリー社の社長の発表を聞いて、「目には涙を浮かべ、誇らしげに胸を張り……『すばらしい!』とだれかがさけんだ」のだ。

活動家の一人は、次のように声高に証言した。

「のんびりコーヒーを飲んだりチョコレートを食べたりしているだけで世界を変えられるなんてだれも思っていなかったけど、どうやらできるみたいだな」

これって、カルト宗教の集会みたいではないか。

フェアトレードで儲ける大企業

フェアトレード財団の2010年時点のホームページには、次のような主張が掲載されていた。

〈コーヒーの価格は、2000年以来記録的な低迷に苦しんでいます。コーヒー豆の生産費よりはるかに低く、世界中のコーヒー農家を危機に陥れています。〉

しかしこの主張はまったくのデタラメだ。ニューヨーク市場におけるコーヒーの国際価格は2002年以来着実に上昇し、タンザニアで生産されているマイルド・アラビカ豆は2002年の1.32ドル/キロから2011年に5.73ドル/キロまで高騰した。「世界のコーヒー価格に『記録的』なことがあったとすれば、それは記録的な高値だということだ」とウッドマンはいう。

それに対してフェアトレードが「公正」とする最低価格は2.81ドル/キロで、市場価格の半値以下でしかない。リーマンショック直後の3カ月を除き、市場価格がこの最低価格を下回ったことはなかった。

これは要するに、「倫理的認証を受ける企業は、フェアトレードの最低価格によって仕入れコストが上がる心配をする必要はまったくなかった」ということだ。市場価格が最低価格を上回っているかぎり、企業の負担は認証されたコーヒーやカカオ豆を購入する際の割増金だけだが、もともとコーヒーやチョコレートにおける原材料比率は高くないので(スターバックスなどはコストの大半が不動産賃料と人件費)、実質的な割増金負担はごくわずかだ。ウッドマンの試算では、キャドバリー社が支払う割増金はミルクチョコ1本につき0.25セントにすぎない。

これで2005年以降、名だたる大企業が次々と倫理的認証を受けるようになった理由がわかる。

企業からすれば、ほんのわずかな追加コストで「ひとにも自然にもやさしい企業」というブランドイメージを手にできる。レインフォレスト・アライアンスの認証を受けたことで、マクドナルドのコーヒーの売上げは25%増えたという。「フェアトレードは儲かる」のだ。

フェアトレードが貧しい国の農家をより貧しくしている

しかしそれでも、「フェアトレードによって、農家は価格の最低保障という“保険”に無料で加入できるのだからいいではないか」と思うひともいるだろう。この理屈は正しいのだろうか? そこでウッドマンは、タンザニアのコーヒー農園にフェアトレードの実態を見にいく。

倫理的認証団体は小規模な農家まで個別に認証しているわけではない。そんなことは物理的に不可能だから、地域ごとに協同組合を設立して、組合が商品の品質を保証したうえで(スターバックスやマクドナルドなどの)大口顧客に販売する。「農家が個別に価格交渉するよりも集団で交渉した方が有利だから」だ。

ところがウッドマンは、現地で不可解な現実を目にする。

タンザニア産のコーヒー豆が国際市場で5ドル/キロを上回る史上最高値を記録しているにもかかわらず、フェアトレードに参加する農家が受け取っていたのは1.38ドル/キロだけだったのだ。これはフェアトレードが「公正な価格」とする2.81ドル/キロの半値以下だ。

なぜこんな「不公正」なことが起こるのだろうか。

それは協同組合が現地の有力者に支配され、彼らが人件費や管理費などの名目で農家を“搾取”しているからだ。しかしフェアトレードは協同組合がないと事業が継続できないため、こうした不都合な事実に気づいていても目をつぶって放置しているのだという。

その結果、協同組合を通さず、農家や農場が直接コーヒー豆を販売する試みが始まった。たとえば同じタンザニアの村で、「エシカル・アディクションズ」という団体は3.14ドル/キロで農家からコーヒー豆を購入し、高品質の豆を求める企業に販売している。倫理的認証を受けないことで農家の利益は2倍以上増えたが、こうした動きが広がれば協同組合の利益が失われてしまうため、現地の緊張が高まっている。活動の趣旨とは逆に、フェアトレードが貧しい国の農家をより貧しくしているのだ。

グローバル企業が撤退して貧困が蔓延した

フェトレードのような倫理的認証団体は、冷酷無比な「グローバル企業」こそが経済格差を生み、貧しい国のひとびとを苦しめているのだと非難する。そこでウッドマンは、世界でもっとも貧しい国のひとつであるコンゴ民主共和国を訪れた。

ルワンダ内戦の影響でコンゴ東部にフツ族の大規模な難民キャンプが生まれ、その後、ツチ族のルワンダ軍の攻撃で難民キャンプは壊滅した。その結果、フツ族の民兵はコンゴのジャングルに身を隠し、FDLR(ルワンダ解放民主軍)を結成する。FDLRはコンゴ東部を暴力的に支配し、コンゴ人女性や少女たちを誘拐してレイプし、村人たちの四肢を切り落とした。

このような状況のなかで、農業のできなくなったひとびとは生きるために換金性の高い商品を求めて必死になった。ウッドマンが彼らとともに体験したのは、懐中電灯ひとつで坑道に入り、スズ石を掘り出すことだった。コンゴ東部には良質のスズ鉱山がいくつもあるのだ。

ただしこの仕事には大きな危険がともなう。

ウッドマンが潜った坑道はベルギーの企業が開発したものだった。鉱山開発会社は坑道までレールを引き、さまざまな機材を使って採鉱を行なっていた。ただしそれは、コンゴが独立する1960年までのことだ。

それから50年間、鉱山は放置されてきた。いまではレールは使えなくなってバケツリレーでスズ石を運ぶしかなく、坑道に貯まった水を汲み出すための発電機もない。そのため村人たちは、懐中電灯だけを頼りにいつ崩れるかわからない坑道に入り、素手でスズ石を掘り出すしかないのだ。

コンゴの村の苦難はグローバル企業が生み出したのではなく、グローバル企業(ベルギーの鉱山開発会社)が撤退したことで始まったのだ。

アンチ・グローバリズムでは貧困を救えない

本書の最後で、ウッドマンはアフリカ東海岸のコートジボワールに綿農家を訪ねる。

アフリカでは250万人の農家が1ヘクタール単位の畑を牛を使って耕し、1トンか2トンの綿を収穫している。アメリカの大規模生産者に比べれば微々たる量だが、それを合わせると世界の綿輸出量の20%にもなる。

コートジボワールは綿の一大産地だが、2002年から04年までの内戦によって国内の綿繰り工場(収穫された綿から種や不純物を取り除く工場)がすべて倒産してしまう。内戦終結後にその工場を落札したのが、シンガポール市場に株式を上場する世界最大手の農業商社のひとつオラムだ。綿相場の上昇によって、オラムはコートジボワールの綿事業に投資する価値があると判断したのだ。

コートジボワールにおけるオラムの綿事業の責任者は、ジュリー・グリーンという30歳のアメリカ人女性だ。ジュリーはアフリカ暮らしが7年目で、最初はNGO職員として学校の建設や水汲みポンプの設営をしてきたが、「活動の進捗のなさにうんざり」して、ジュネーヴでMBAを取得してオラムに移った。

ジュリーの監督の下で、倒産した工場の稼働率は1年目に70%、2年目以降は100%と劇的に蘇った。しかし変わったのはそれだけではない。

以前の工場は、基本的な安全面での予算もなくきわめて危険だった。いまはケーブルのまわりにケージが置かれ、火災を起こしたときのための送水ポンプも設置された。もちろん手袋やマスク、ゴーグルなどの安全装備も従業員全員に配布されている。以前はいちど壊れてしまったら、ボスから「残念だったな」といわれてそれで終わりだったのだ。

だからといって、オラム社がボランティア精神に溢れていたり、CSR(企業の社会的責任)にちからを入れているわけではない。世界じゅうのすべての工場で当たり前のようにやっていることを、コートジボワールでも行なったにすぎない。工場の安全管理は、事業を行なううえでの基本中の基本なのだ。

オラムはまた、契約する綿農家に高品質の種を無料で配布し、農薬や肥料の費用を無利息で前倒し融資するばかりか、村人たちがトウモロコシを栽培する肥料も余分に渡している。だが管理責任者のジュリーは、これも人道主義とは無関係だという。

高品質の種を無料で配布するのは、農家に品質の高い綿を栽培させ、サプライチェーンの中に他品種が混入するリスクを軽減するためだ。無利子の前倒し融資は、農家の経営を安定させることで綿の安定供給を図るためだ。農家の食料であるトウモロコシのために肥料を余分に渡すのは、そうしなければ綿用の肥料が転用されてしまうからだ。

すべては高品質の綿をより多く生産するための合理的な経営判断だとジェリーはいう。「貧しくて飢えている農家を抱えていても、私たちにはいいことは何もありません」

貧困の原因は腐敗した政府にある

「フェアトレードのおかしな真実」をめぐる旅でウッドマンが思い知ったのは、貧困の原因は腐敗した政府であり、権力の崩壊がもたらす内戦や内乱だということだ。それによってグローバル企業が撤退し、仕事を失った現地のひとびとが経済的な苦境に追い込まれる。

その一方でコートジボワールのオラム社のように、現代のグローバル企業は利益を追求しながらもコンプライアンスにしばられ、社会的な評判を気にしている。そのうえ彼らは投資のためのじゅうぶんな資金を持ち、優秀な人材(それもジュリーのように、ビジネスを通じて社会をよくしたいと考える若者)を抱えている。

だとしたら「経済格差の元凶」としてグローバル企業を敵視するのではなく、彼らのちからを上手に利用した方がずっといいのではないか――それが、長い旅を終えてウッドマンのたどり着いた結論だ。

フェアトレードのマークのついたコーヒーを飲んでいるだけでは、世界はなにひとつ変わらないのだ。

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