大震災の夜

『大震災の後で人生について語るということ』を執筆するきっかけとなった大震災の夜のことを、過去のエントリーと一部重複しますが、掲載します。

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ジグムント・フロイトに学んだウィーンの高名な精神医学者ヴィクトール・エミール・フランクル博士は、ナチス・ドイツがオーストリアを併合すると、ユダヤ系の出自を理由に家族とともにアウシュヴィッツに送られ、両親と妻、2人の子どもをガス室で失いました。強制収容所から奇跡的に生還した後、フランクル博士は、極限状況のなかで生き延びるために苦闘するひとたちの心理を冷静に分析した『夜と霧』を発表します。

世界的なベストセラーとなったこの本の冒頭で、博士はカポーと呼ばれる囚人たちについて書いています。カポーは囚人のなかから選抜された看視役で、ナチス親衛隊員や看視兵の忠実な部下として、飢餓と病に苦しむ囚人たちをときにはげしく殴打しました。収容所は弱肉強食の道義なき世界で、自分と家族を守るために、暴力や窃盗はもちろんのこと、友人を売ることさえひるまなかったひとたちがいたといいます。

こうした事実をたんたんと記したのち、フランクル博士は次のように述べます。

すなわち、もっともよきひとびとは帰ってこなかった。

2011年3月11日、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が東日本を襲い、宮城・岩手・福島など太平洋沿岸の広範な地域に甚大な被害をもたらしました。福島第1原子力発電所では、定期点検中の3機を含む6機の原子力発電施設が津波のためすべての非常用電源を喪失しました。

その日の夜、私はあてもなく街をさまよっていました。ネオンの消えた繁華街はひとの姿もまばらで、ときおりすれちがう通行人は、だれもがコートの襟を立て、こわばった表情で家路を急いでいました。

シャッターを下ろした商店街を通り過ぎると、濃紺の深い闇のなかに丈の高い樹々が浮かんでいました。ふだんは恋人たちでにぎわう公園の池の畔にはだれもおらず、高架の先の鉄道駅は照明を落とし、青白い半月に照らされて廃墟のようです。見慣れた世界は突如その様相を一変させ、街は不吉な黒い鳥の影に覆われてしまったかのようでした。

恐怖と得体の知れない高揚がないまぜになったあのときの奇妙な感覚は、いまでもはっきり覚えています。フランクル博士の言葉が、呪文のように、意識の底から何度も繰り返し聞こえていました。

もっともよきひとびとは帰ってこなかった――。

カポーとは、暖房の効いた部屋で、津波に押し流される家や、破壊され焼き尽くされる街をただ眺めていた私のことだったのです。

私はこれまで、自由とは選択肢の数のことだと、繰り返し書いてきました。なんらかの予期せぬ不幸に見舞われたとき、選択肢のないひとほど苦境に陥ることになる。立ち直れないほどの痛手を被るのは、他に生きる術を持たないからだ、というように。

私はこのことを知識としては理解していましたが、しかし自分の言葉が、想像を絶するような惨状とともに、現実の出来事として、目の前に立ち現われるなどとは考えたこともありませんでした。

津波に巻き込まれたのは、海辺の町や村で、一所懸命に生きてきたごくふつうのひとたちでした。彼らの多くは高齢者で、寝たきりの病人を抱えた家も多く、津波警報を知っても避難することができなかったといいます。

被災した病院も入院患者の大半は高齢者で、原発事故の避難指示で立ち往生したのは地域に点在する老人福祉施設でした。避難所となった公民館や学校の体育館で、氷点下の夜に暖房もなく、毛布にくるまって震えているのも老人たちでした。

被災地域は高齢化する日本の縮図で、乏しい年金を分け合いながら、農業や漁業を副収入として、みなぎりぎりの生活を送っているようでした。そんな彼らが、配給されるわずかなパンや握り飯に丁重に礼をいい、恨み言ひとつこぼさずに運命を受け入れ、家族や財産やすべてのものを失ってもなお互いに助けあい、はげましあっていたのです。

私がこれまで書いてきたことは、この圧倒的な現実の前ではたんなる絵空事でしかありませんでした。私の理屈では、避難所で不自由な生活を余儀なくされているひとたちは、「選択肢なし」の名札をつけ、匿名のままグループ分けされているだけだったからです。

大震災の後、書きかけの本を中断し、雑誌原稿を断わり、連載も延期して、ただ呆然と過ごしていました。そしてあるとき、まるで天啓のように、それはやってきたのです。

私がこれまで語ってきたことが絵空事であるのなら、その絵空事を徹底して突き詰めることでしか、その先に進むことはできないのではないか――。

理屈でもなく、直感ともいえませんが、この想念は稲妻のように私を襲い、魂を奪い去ってしまったのです。

それから2週間で、この本を書きました。

『大震災の後で人生について語るということ』P204~208

PS 本書は5月の連休明けには脱稿していましたが、本になるまでにすこし時間がかかりました。

有権者が合理的でも、選挙結果はなぜか不合理 週刊プレイボーイ連載(12)

7月はじめの休日に、街で奇妙なデモ隊と遭遇しました。手づくりのプラカードを掲げた若者たちが、サウンドマシンを積み込んだ軽トラックを先頭に、ラップに合わせて「原発いらない」「子どもを守れ」と歌い踊っています。アニメ風のコスプレ姿もあれば、裸に放射能標識を描いた男性もいます。

物珍しさでしばらく眺めていると、そこに学生服姿の高校生が通りかかりました。

「きれいごとばっか叫んでるんじゃねえよ」

高校生のひとりが、デモ隊を見て顔をしかめます。

「原発があったから、これまで気楽に暮らしてこれたんだろ」

このように、エネルギー政策をめぐって、国民の間には多様な意見があります。それを、多数決のデモクラシーによってひとつにまとめていくことができるのでしょうか。

ここで、「投票のパラドックス」を説明したいと思います。といっても、これはぜんぜん難しい話ではありません。

ジャンケンでは、グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝ち、パーはグーに勝ちます。このような三すくみ状況では、どれがもっとも強いかを決めることができません。

ここに、発電について異なる意見を持つ3人の有権者がいます。1人は「安全重視」派で、できるだけ安全な発電方法を採用すべきだと考えます。もう1人は「コスト重視」派で、電力がなければ日本の産業は成り立たないのだから、発電コストは安い方がいいと主張します。最後の1人は「環境重視」派で、地球の未来を考えれば二酸化炭素の排出量を減らすのが人類の責務だと力説します。

そこで、発電方法として火力発電、原子力発電、太陽光発電(再生可能エネルギー)の3つがあるとしましょう。

「安全重視」派は、危険な原子力よりも安全な火力発電を迷わず選択します。太陽光と火力なら、安全性は同程度ですから、温暖化ガスを排出しない太陽光を好むでしょう。

「コスト重視」派は、太陽光は発電コストが高すぎて非現実的だから、当面は原発を稼動させるしかないと考えます。しかしその原発も、廃炉費用を含めた総コストは火力と変わりませんから、より安全な火力を選択します。

「環境重視」派は、大量の温暖化ガスを排出する火力はできるだけ減らすべきだとして、太陽光を支持します。しかし、それだけで必要な電力を賄えないのは明らかですから、二酸化炭素を出さない原子力で地球温暖化を防ぐほかないと思っています。

この3つの立場は、正しいか正しくないかは別として、首尾一貫しています。ところがこの論理的な3人が多数決で決着をつけようとすると、下図のような奇妙なことになってしまいます。

「選挙」の結果は、火力よりも太陽光を好むひとが2人、原子力よりも火力を好むひとが2人ですから、理屈のうえでは、太陽光は原子力よりも好まれなければなりません。しかし実際には、太陽光より原子力を支持するひとが2人いることになってしまうのです。

以前の回で、参加者が無知でも投票の結果が合理的になる不思議な仕組みについて書きました。しかしここでは、すべての有権者が合理的であっても、選挙結果はなぜか不合理になってしまうのです。

『週刊プレイボーイ』2011年7月25日発売号
禁・無断転載

『大震災の後で人生について語るということ』はじめに

新刊『大震災の後で人生について語るということ』から、「はじめに」の文書を転載します。

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歴史には、ある一瞬で世界の風景を変えてしまうような出来事があります。それはたとえば、フランス革命でバスティーユ牢獄を襲った暴徒たちであり、イギリスの植民地政策に抗議してボストン湾に捨てられた紅茶箱であり、第一次世界大戦の引金を引いたサラエボでの一発の銃弾のことです。現代史に目を移せば、ベルリンの壁崩壊や9.11同時多発テロで世界の姿は大きく変わりました。そしておそらく、3.11の東日本大震災とそれにつづく福島第一原子力発電所事故で、日本の社会は引き返すことのできない橋を渡ることになるでしょう。これから私たち日本人は、否応なくポスト3.11の世界を生きることになるのです。

もちろんある歴史上のある出来事によって、昨日と今日がまったくちがう世界になるわけではありません。

冷戦が終焉してソヴィエト連邦が解体したのち、イスラム圏に民族主義や原理主義が台頭しつつあることは繰り返し報じられていました。アフガニスタンで大量の麻薬が製造されていることも、石油をめぐって国家や民族集団の利害が対立していることも、イスラム原理主義のグループがアメリカをはじめとする西欧社会をテロの標的にしていることも広く知られていました。しかし、それらはジグソーパズルのばらばらのピースにしかすぎず、9.11がすべてのピースを組み合わせ、世界の風景を一変させるまで、私たちはひとつひとつの事件が密接につながり合い重なり合っている姿を見ることはできなかったのです。

この本は、私たちの世界を変えた「2つの災害」について書かれています。ひとつはもちろん東日本大震災と原発事故、もうひとつはいまから14年前に日本を襲い、累計で10万人を超える死者を出した「見えない大災害」です。

この「見えない大災害」によって戦後は終わり、日本は新しい社会へと移行しはじめました。しかしほとんどのひとはこのことに気づかず、3.11によってはじめて、私たちはこれまで目をそむけていた人生の経済的なリスクに正面から向き合わざるを得なくなったのです。

ところで、リスクとはいったいなんでしょう。さまざまな定義があるでしょうが、この本では、「欲望と同様に、それによってひとびとの行動を規定するもの」と考えます。危険に遭遇すると、生き物は反射的に身を守ろうとします。同様に私たちは、無意識のうちに危険を回避する選択をしており、リスクに対する耐性(許容度)はひとによって大きく異なります。

震災翌日の3月12日に、福島第1原発1号機で水素爆発があり、原子炉建屋が大きく損傷しました。週明けからの計画停電が発表されたこともあり、電器店では乾電池や懐中電灯が売り切れ、パンやカップ麺などの保存食品がスーパーからまたたくまに消えました。

その後も時を追うごとに原発事故の深刻さは増し、14日に3号機の建屋が水素爆発で吹き飛び、翌15日には安全なはずの4号機で過熱した使用済み核燃料プールから火の手があがりました。この頃には、首都圏でもガソリンスタンドに給油を求める長い車の列ができていました。さらに23日、東京・葛飾区の金町浄水場で基準値を超えるヨウ素が検出され、乳児への摂取制限が発表されると、ひとびとはペットボトルの水を求めてスーパーやコンビニに殺到しました。

このパニック的な購買行動が問題視されたのは、被災地でも物資やガソリンが大幅に不足していたからです。「首都圏で買い占めが起こると、それだけ被災地に送る物資が減ってしまう。どちらの緊急性が高いかは明らかなのだから、首都圏の消費者は不要不急の買い占めをいますぐ止めるべきだ」――たしかに正論ですが、問題はそれほど単純ではありません。

ひとはだれでも、危機に際して最悪の事態を想定し、そのなかで最善の選択肢を探そうとします。

スーパーのレジに並んでいた足の悪い高齢者は、原子炉が爆発し、高濃度の放射性物質が首都圏を覆い、退避命令が出されたとき、自分だけが見捨てられるのではないかと怯えていました。ガソリンスタンドで何時間も給油を待つレジャービークルの若い男性は、生まれたばかりの子どもを抱えていて、車がなければ家族を守ることができないと考えています。不確実な状況ではこれはきわめて合理的な行動ですから、電車でも自転車でも徒歩でも移動できる(私のような)人間が買い占めを批判することはできません。一見、利己的に見えたとしても、リスク耐性の低いひとたちにはやむにやまれぬ事情があるのです。

このことからわかるように、不安が生じるのは、自分が抱えているリスクが管理できる範囲を超えていると感じるからです。買い占めを倫理的に批判することに意味はなく、この問題を解決するには一人ひとりのリスク耐性を上げるか、リスクに強い社会を築き上げていくほかはありません。

しかしこれから本書で述べるように、私の危惧は、日本人も日本社会もますますリスクに対して脆弱になっているのではないか、ということにあります。日本社会をいま大きな不安が覆っているとすれば、そのひとつの(そしておそらくはもっとも大きな)理由は、日本人の人生設計のリスクが管理不能になってきたからです。

これから、戦後の日本人の人生設計を支配してきた4つの神話が崩壊してきた様を順に述べていきます。それは「不動産神話」「会社神話」「円神話」「国家神話」で、人生の経済的な側面からいえば、ポスト3.11とは「神話」を奪われた世界を生きることです。

しかし私たちは、いまだに“神話なき時代”の人生設計を見つけることができず、朽ちかけて染みだらけの設計図にしがみついています。そしてこの役に立たない設計図から生じるリスクが、日本人の行動を規定しています。皮肉なことに、私たちはリスクを避けようとして、そのことで逆にリスクを極大化させ、それが不安の源泉になっているのです。

3.11は、これまで大切にしてきたものが暴力的に奪われ、破壊される光景を私たちに見せつけました。

未来は不確実で、世界はかぎりなく残酷です。明日は今日の延長ではなく、終わりなくつづくはずの日常はふいに失われてしまいます。

しかしそれでも私たちは、そこになんらかの希望を見つけて生きていかなければならないのです。

『大震災の後で人生について語るということ』P1~5