上を見れば限りはあるけれど、下を見れば切りがない 週刊プレイボーイ連載(35)

カリブ海の島ジャマイカの首都キングストンにあるトレンチタウンは、ボブ・マーリーの歌によって世界でもっとも有名なスラム街のひとつになりました。“トレンチ”は溝のことで、ダウンタウン周辺のどぶ川が流れる一帯に貧しいひとたちが廃材とトタンで家を建てたのがはじまりです。イギリス人の父と黒人の母親との間に生まれたボブ・マーリーは、父の死で10歳のときにトレンチタウンに移り住み、その体験をもとに“トレンチタウンロック”や“ノー・ウーマン・ノー・クライ”など数々の名曲が生まれました。

昨年末にキングストンを訪れたとき、トレンチタウンの近くを通りかかると、どの路地にも緑色かオレンジ色の小さな旗が掲げられていることに気がつきました。タクシーの運転手に訊くと、これはその地区がどの政党を支持しているのかを表わしているのだといいます。

ジャマイカは人民国民党(PNP)とジャマイカ労働党(JLP)の二大政党制で、オレンジはPNPの、緑はJLPのシンボルカラーです。このふたつの政党は1960年代から交互にジャマイカの政治を担ってきたのですが、両者の政治対立はときにヤクザの抗争のような暴力的なものになりました。

よく知られているのは1976年のボブ・マーリー狙撃事件で、これは与党だったPNP主催の音楽イベント“スマイル・ジャマイカ”に国民的大スターが参加するのを阻止するために、対立組織がキングストンにあるボブの自宅を襲わせたとされています(銃撃により負傷したボブは2日後の音楽祭に参加し、国民の和解を訴えました)。

なぜここまで政治抗争が深刻になるかというと、スラム街を支配するギャングのボスが特定の政党と結託して利権を確保しているからです。どちらの政党が政権の座につくかは彼らにとっては死活問題で、選挙のたびに対立する地区の住人の投票を妨害しようとして乱闘が起きます。ギャングの利権はコカインやマリファナなどの麻薬産業で、キングストンの港が軍の厳重な警戒下にあるのは、80年代に南米の麻薬カルテルがジャマイカをアメリカ市場への積出港に使うようになったからだといいます。

そんな説明をひとしきりした後で、「ところで日本の政治はどうなんだい?」とタクシー運転手から訊かれました。「戦後はずっと同じ政党が政権を持っていたんだけど、つい最近二大政党制になったんだよ」と答えると、彼は不思議そうな顔をします。

「それで、なんで日本人は殺し合わないんだい?」

私たちはずっと、「日本の政治はサイテーだ」という“自虐史観”に悩んできました。しかし戦後の日本人が理想としてきたアメリカでは「ティーパーティー」や「オキュパイ」などの抗議行動が噴出し、ヨーロッパは共通通貨ユーロが崩壊寸前で、移民排斥とEU脱退を掲げる極右政党が支持を伸ばしています。それに対して日本では大規模なデモや社会的混乱もなく、世界の大半の国と比べれば汚職や収賄もきわめてまれです(膨大な財政赤字を抱え込んだため、政党はもはや利権を分配することができなくなってしまいました)。

上を見れば限りはあるけれど、下を見れば切りがない――私たちは、そんな苦いリアリズムの時代を生きているのかもしれません。

 『週刊プレイボーイ』2012年1月23日発売号
禁・無断転載

ボブ・マーリー・ミュージアム。キングストンの数少ない観光スポットのひとつ

第11回 素晴らしきかな、ローン人生(橘玲の世界は損得勘定)

海外のホテルでアメリカのケーブルテレビを観ていたら、「50%more cash(50%もっと現金を)」というCMが耳にこびりついて離れなくなった。ビジネススーツ姿の男性が、「50%キャッシュが増えたら君もうれしいだろ」とネコに語りかけるのだが、それをえんえんと繰り返されると「いったいなんのことだろう」と気になってくる。

そこで調べてみると、これは大手銀行が発行するクレジットカードの宣伝で、買い物するたびに1%のキャッシュバックがあり、さらに1年後には昨年度のキャッシュバックに対して50%の「ボーナス」がつくのだという。

100ドルの買い物で1ドルが口座に加えられ、さらに1年後に50セントのボーナスが加算される。ということは、要するに還元率1.5%のクレジットカードのことだ。

だったらなぜ最初から「1.5%還元」にしないのかというと、「50%more cash」のほうがずっとインパクトがあるからだろう。こうした心理テクニックはいまではものすごく発達していて油断も隙もない。

とはいえここで述べたいのは、クレジットカードの宣伝戦略ではなく、アメリカ人の借金観のことだ。

ずいぶん前の話だけれど、ハワイの公営ゴルフコースでウィスコンシンからやってきた年配の男性といっしょになった。サブプライムローンの全盛期で、テレビをつけるたびに、「低利でローンを借り替えてゆたかになろう」というCMが流れていた。

当時は、初対面の挨拶で、天気の代わりに不動産の話をする時代だった。長年やってきた食料品店を閉じて悠々自適の引退生活を送っているという男性は、私が賃貸暮らしだと知ると、マイホームがいかに有利かをひたすら話しつづけた。

彼によると、最高の人生とはできるだけ大きな借金をして死ぬことだという。

「かんたんな話だよ」と彼はいった。「借金っていうのは、要するに、働かずに大金を手にできる魔法のことなんだ。死ねばどうせすべてチャラになるんだから、銀行をだましてできるだけたくさん金を借りた奴の勝ちなのさ」

そんな彼もすでに2件の家を持ち、今回はハワイの物件を見に来たのだという。

それから2007年にかけて地価はほぼ倍になったから、彼の投資はきっと大成功しただろう。その後の2年間で不動産価格が半分に暴落してどうなったかは知らないが……。

彼が私に教えてくれたのは、田舎町に住む平凡なアメリカ人ですら、「借金は素晴らしい」と信じて疑わないという驚くべき事実だった。この超楽観的人生観こそが、アメリカの消費社会を支える原動力なのだ。

世界金融危機を経て、アメリカではさまざまな社会問題が噴出している。でも「50% more cash」と連呼するCMを見ると、「このひとたちは変わらないなあ」とつくづく思うのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.11:『日経ヴェリタス』2012年1月16日号掲載
禁・無断転載

「強いリーダー」はなぜいないのか? 週刊プレイボーイ連載(34)

昨年末には北朝鮮の金正日主席が急逝し、今年は米大統領選や中国共産党の政権交代など重大イベントが目白押しで、ユーロ危機はあいかわらず薄氷を踏むような状態がつづいています。そんななか、日本にも「強いリーダー」が必要だとの声が日増しに大きくなっています。

ところで、日本にはなぜ強いリーダーがいないのでしょう。この疑問はふつう「政治家がだらしないからだ」と一蹴されてしまうのですが、そんな簡単な話ではないかもしれません。

1980年代から、世界80ヶ国以上のひとびとを対象に、政治や宗教、仕事、教育、家族観などについて訊く「世界価値観調査」が行なわれています。これだけ大規模な意識調査はほかになく、その結果もきわめて興味深いのですが、2005年調査の全82問のなかで、日本人が他の国々と比べて圧倒的に異なっている質問がひとつあります。

近い将来、「権威や権力がより尊重される」社会が訪れたとすると、あなたの意見は「良いこと」「悪いこと」「気にしない」のどれでしょうか。

集計結果を先進国で比較すると、フランス人の84.9%、イギリス人の76.1%が、社会を運営するためには権威や権力は尊重されるべきだと考えています。マリファナや安楽死を容認するオランダで70.9%、自助・自立を旨とするアメリカでも59.2%が権威や権力は必要だと回答し、権威的な体制への批判が噴出する中国ですら43.4%が権力は好ましいものだと考えています。

それに対して日本人は、この質問にどのように回答したのでしょうか。

驚くべきことに、日本人のうち「権威や権力を尊重するのは良いこと」と答えたのはわずか3.2%%しかいません。逆に80.3%が「悪いこと」と回答しています。この結果がいかに飛び抜けているかは、権威や権力への信頼度が2番目に低い香港でも22.6%が「良いこと」と回答していることからも明らかです。

日本人は世界のなかでダントツに権威や権力が嫌いな国民だったのです。

なぜこのような特異な価値観を持つようになったのかは意識調査だけではわかりませんが、第二次世界大戦の経験が影響していることは間違いないでしょう。権威や権力を振りかざす政治家や軍人を信じたら、広島と長崎に原爆を落とされ、日本じゅうが焼け野原になり、民間人を含め300万人もが犠牲になったのですから、もうこりごりだと思っても不思議はありません。

しかしそれでも謎は残ります。敗戦によって同じような惨状を体験したドイツでも、半分(49.8%)のひとが「権威や権力は尊重すべき」とこたえているからです。

日本の歴史を振り返ると、「独裁者」と呼べそうな支配者は織田信長くらいしか見当たらず、徳川家康を筆頭に、あとはみんな調整型のリーダーばかりです。だとしたら日本人は、大昔から権威や権力を嫌ってきたのかもしれません。

もちろんこれについてはいろいろな解釈があるでしょうが、ひとつだけはっきりしていることがあります。

日本に「強いリーダー」がいないのは、だれも望んでいないからです。これまで1000年以上にわたってそうだったのだから、これからもたぶんずっとそうなのでしょう。

 『週刊プレイボーイ』2012年1月16日発売号
禁・無断転載 

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文章ではわかりにくいと思うので、上記の調査結果をグラフ化したものを掲載しておきます。

ここに近い将来起こると思われるいろいろな生活様式の変化があげてあります。もし、そういうことが起こった場合、あなたはどう思われますか。

よい(好ましい)ことだと思いますか、悪い(好ましくない)ことだと思いますか、それともそういうことが起こっても気にしませんか。それぞれについてお答えください。

の問のうち、「権威や権力がより尊重される」について、「良いこと」と回答したひとの比率です。

『世界主要国価値観データブック』(同友館)より作成