Back to the 80’s いまでもときどき思い出すこと(5)

24歳のときに、友だちと3人でママゴトみたいな会社をつくった。同じ頃に彼女に子どもができて、ママゴトみたいな結婚をした。

社長は3つ年上で(その頃はオジサンだと思ってたけどまだ27歳だった!)、ぼくたちに給料は毎月10万円だと宣言した(もちろん社会保険も家族手当もない)。会社は御茶ノ水のマンションの一室で、ぼくは1ヶ月のうち平均28日間をそこで過ごしていた。もうちょっとわかりやすくいうと、年中無休で家に帰れるのは月に2日か3日だった。

なぜそんなことになったかというと、ぼくたちの会社は出版社の下請けで、ツッパリ(ヤンキーともいう)の女の子向けの雑誌をつくっていたからだ。そのいきさつもいろいろ面白いのだけど、本題ではないので省略する。

その当時は暴走族と呼ばれる若者たちがいて、車やバイクを改造し、旗や幟を立てて深夜の公道を爆走していた。そのなかにはレディースという特攻服を着た女の子たちのグループもあって、ぼくたちの雑誌にときどき登場してくれていた。

あるとき、彼女たちが暴走族の集会に誘ってくれた。ぼくはそれまでバイクにすら乗ったことがなかったけれど、面白そうだったので、カメラマンといっしょに参加することにした。

深夜0時に蒲田の駐車場に行くと、100台ちかい車やバイクが集まっていて、頭蓋骨を震わす排気音を轟かせていた。ぼくたちの世話係はリーゼントをばしっときめた若者で、「しっかり運転しますから、いい写真を撮ってください」と励ましてくれた。高校を中退して、いまはちかくの鉄工所で働いているのだという。

暴走族の巨大な集団は、信号無視を繰り返しながら第二京浜を品川方面に向かった。ドライバーは見事なハンドル捌きで、上半身を乗り出してポーズを決める(これを“箱乗り”といった)レディースたちの後ろにぴったりと車をつけた。

社会のルールを踏みにじり良識に反抗するのは、いつだってぞくぞくするものだ。ぼくはただ後部座席で座っていただけだけど、それでも世界をひとり占めしたような高揚感があった。助手席から身を乗り出して写真を撮っていたカメラマンも、フィルム交換のとき、子どものような笑顔を浮かべて「楽しいですねえ」といった。

ドライバーの若者が、バックミラーを見て「こりゃマズいや」とつぶやいた。振り返ると、すごい数のパトカーが、サイレンを鳴らしながらぼくたちを追いかけていた。

集団は散り散りになって、ぼくたちのグループはパトカーに囲まれていた。ぼくとカメラマンは車から降りると、暴走族に職務質問する警察官の写真を撮った。当然ひと悶着があって、警察署に連れていかれそうになった。防犯課の刑事に連絡先を教えてようやく解放された頃には、もう夜は白みはじめていた。

そのまま会社に戻ると、スーツに着替えて銀座に向かった。そこには大きな広告会社があって、会議室には雑誌の編集担当やクライアント担当者、その上司など4人くらいが待っていた。あまりに給料が安いので、広告会社のPR雑誌でアルバイト原稿を書いていたのだ。

簡単な打合せが終わると、ぼくたちは黒塗りのハイヤーに分乗して南青山のホンダビルに向かった。

受付には広報担当者とその上司が待っていて、名刺交換のあと、エレベータで役員フロアに案内された。ぼくの仕事は、廊下の奥のひときわ広い部屋にいるひとにインタビューすることだった。

血色がよくて腰の低いそのおじさんは、本田宗一郎の盟友として“世界のホンダ”を育てた立志伝中の経営者、藤沢武夫だったのだけど、当時のぼくはそんなことはぜんぜん知らなかった。ただ、部屋のなかで待機しているひとたちがやたらと緊張していたのが不思議だった。

インタビューが終わると、ふたまわりも年のちがう広報責任者が、「原稿をよろしくお願いします」とぼくに深々とお辞儀をした。ホンダビルの1階はショールームになっていて、そこにシビックやアコードの新車が展示されていた。その華やかな空間を抜けると、正面玄関の車寄せにぼくを送り届けるためのハイヤーが待っていた。

外に出ると、強烈な日差しが寝不足の頭を直撃した。そのときのめまいと、排気ガスが混じった夏の匂いをいまでもなぜか覚えている。

インタビューの原稿は2時間ほどで書き上げて、速達で送った。それだけの仕事なのに、広告会社からは、ぼくの月収の3倍ちかい金額が振り込まれてきた。

第1回 侮れぬ居酒屋クーポン(橘玲の世界は損得勘定)

日経ヴェリタスで、「橘玲の世界は損得勘定」という新連載を始めることになりました。以前の「『不思議の国』探検」は日本の金融業界の“不思議”がテーマでしたが、ネタが尽きて連載20回で行き詰まったので、今回はお金に関する身近な話題を思いつくままに書いていこうと思います。

第1回は、当初は3月20日スタートの予定で原稿もずっと前に渡していたのですが、東日本大震災を受けて掲載が延期されていたものです。

*                   *                   *                   *                   *                   *                   *                   *

ずいぶん昔の出来事のように思えるが、大震災のすこし前に近所の居酒屋を訪れた。鶏料理と鍋の店で、まだ早い時間だというのに、店内はほぼ満席だった。なんでも、人気マンガ家とアル中の夫を描いた映画の撮影地になったのだという。

私たちの席の隣は若いカップルで、カクテルを飲みながら串焼きやおでんなど何品か食べ終わると、そそくさと席を立った。

次にやってきたカップルは鶏の唐揚げ、鶏のバター焼き、鶏ラーメンなどを次々と注文し、やはりさっさと帰っていった。

私たちはとりたてて長い時間その店にいたわけではないのだが、勘定をするときは3組めのカップルと一緒だった。これはそのテーブルだけが特別というわけではなく、その店では長居をする客はほとんどいないようだった。

あまり居酒屋に行く機会がないので、最近の若者はずいぶんあっさりしているんだな、と思った。私の若い頃は、いちど飲み屋に入れば、閉店までくだらない話をして過ごすのが当たり前だった。

会計の後で、クーポン券をもらった。そのときはたいして気にとめなかったのだが、翌日、財布の中に突っ込んであったそのクーポン券をしげしげと眺めて、ようやく謎が解けた。

その店ではすべての客に、3000円以上の利用で1人につき1000円を割り引くというクーポン券を配っていた。それがあれば3000円の料理が2000円になるのだから、率すれば3割引の大盤振る舞いだ。でもこの割引は金額ベースなので、1万円飲食しても1000円しか引いてくれない。

この条件からただちに分かるように、その店でデートをするのなら、2人でぴったり6000円の注文をして2000円割り引いてもらうのがもっとも得だ。店のメニューはネットに掲載されていて、事前に調べておけば迷うこともない。だからみんな追加注文することなく、食べ終わるとさっさと帰っていったのだ。

ところでこんなことをしていて、店はやっていけるのだろうか。でもよく考えると、これはなかなか巧妙なアイデアだ。クーポンの有効期限は翌月末になっていて、使わないと損をした気になる客に来店を促す。彼らは1人2000円しか払わないかもしれないが、短時間で帰っていくのだから、回転率が高ければ店の売上は大きくなる。なかには高額の飲食をする客も一定数いるだろう。

客がこのクーポンを使うのは、たんに割引率が高いからではなく、ゲーム性があって面白いからだ。いろんな組み合わせで“最適”な注文を試行錯誤できるし、努力(?)次第でCP(コストパフォーマンス)はどんどん高くなる。

もちろんいちばん損するのは、私たちのような無知な客なのだけど、ここにも仕掛けがあった。いったんこのシステムに気がつくと、次はクーポンを使って挽回しようと考える……。

うーむ、居酒屋恐るべし。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.1:『日経ヴェリタス』2011年4月17日号掲載
禁・無断転載

Back to the 80’s いまでもときどき思い出すこと(4)

大学を卒業したものの、なにをするあてもなく、新橋にある小さな出版社で働いていた。編集長は20代後半の気のいいひとで、世界を放浪したあと見よう見真似で雑誌づくりの仕事を始めた。部下はなにも知らないぼくと、もっとなにも知らない女の子が一人だった。

ある日その編集長が、海外の宝くじを日本で買える、という話を聞きつけてきた。面白そうなので雑誌に載せたら、ものすごい反響があった。当時はまだジャンボ宝くじやロトシックスなどない時代で、1等賞金が1億円を超える北米やヨーロッパの宝くじはとても珍しかったのだ。

ビジネスチャンスを嗅ぎつけた編集長は、1人で飛行機に飛び乗って、ドイツの宝くじ会社と海外販売の独占契約を結んできた。ぼくの仕事は、編集長が持ち帰った大量のドイツ語の資料を翻訳し、宝くじの仕組みや買い方、当せん金の受取り方をマニュアルにすることだった。

日本ではじめての海外宝くじの雑誌ができると、スポーツ新聞に大きな広告を打った。その日の朝から会社の電話が鳴り止まなくなって、やがて現金書留がぞくぞくと送られてきた。編集長は、海外宝くじの購入代行を商売にしようと思いついたのだ。

それから1週間、問合せの電話の応対でほかの仕事はまったく手がつかなかった。現金書留の束が金庫からあふれたので、応接室のテーブルの上にダンボールを並べ、そこに片っ端から突っ込んでいた。

ある日の夕方、さすがにこのままではマズいという話になって、社員全員が応接室に集まって、書留の封筒を開封し金額と注文内容を整理していった(パソコンなんてなかったからすべて手書きだ)。

夜になっても作業は終わらず、近くのそば屋から出前をとってみんなで食べた。11時過ぎにようやく作業が一段落すると、テーブルの上には1万円札の巨大な山ができていた。

誰もこれまでそんな大金を見たことがなかったから、室内はちょっと異様な雰囲気になった。「これをこのまま持って逃げたらどうなるかなあ」編集長が冗談をいったけれど、引きつった笑いしか返ってこなかった。

お金ってこんなに簡単に儲かるんだ、と不思議な気がした。自分たちが宝くじを当てたような気分で、ちょっとだけ幸福になって家路についた。

それから数日後、大蔵省(いまの財務省)から電話があった。スポーツ新聞に載せた広告について聞きたいことがあるから、いちど来てくれないかという話だった(その広告はぼくがつくったものだった)。

その翌日、編集長と2人で大蔵省を訪ねた。建物の雰囲気はいまとまったく同じで、アーチ型の正門を入ると受付があり、その奥に薄暗い長い廊下が続いていた。

五十がらみの白髪の職員が迎えにきて、ぼくたちを廊下の端にある小さな部屋まで案内してくれた。

窓際に古い机があって、三つ揃いの背広を着た若い男性が静かに書類を読んでいた。職員は、自分の息子のような年齢の男性に深々と礼をすると、耳元でなにごとか囁いた。

男性は書類から目を上げ、すこし驚いたような顔をした。ぼくたちはスーツこそ着ていたものの、ヒッピーと学生バイトにしか見えなかった。ぼくも大蔵官僚があまりに若いのでびっくりしたけれど、これはキャリア制度を知らなかったからだ。

男性は、机の前に置かれたパイプ椅子をぼくたちに勧め、自分の名刺に日付と相手の名前を書いて編集長に渡した。名刺を悪用されないための用心なのだけど、そんなことをするひとを見たことがなかったので、ぼくはまたびっくりした。

男性はとても丁重に、ぼくがつくった広告に法令上不適切と思われる文言が含まれていることを指摘した(具体的になにが問題になったのかはぜんぜん覚えていない)。それからちょっと言葉を区切ると、「これはわたしの所管ではないのですが」といってこちらを見た。「富くじ法という法律があることはご存知ですか?」

「ぜんぜん知りません」と、編集長はこたえた。

男性はかすかに微笑むと、日本では法律で定められた者以外は宝くじの販売、取次をしてはいけないのだと教えてくれた。ぼくたちの商売は、この法律に違反するおそれがあるのだという。

「今回の件は私の方で処理しておきますが、面倒なことにならないようお気をつけください」

別れ際に、男性はさわやかな笑顔でそういった。

大蔵省の正門を出ると、編集長はハンカチで額の汗を何度もぬぐい、「ヤバいなあ」「君、ヤバいよ、これは」と繰り返した。

一夜かぎりのはかない夢は終わり、ぼくは権力がどんなものか、ほんのちょっとだけ理解した。

*                   *                   *                   *                   *                   *                   *                   *

追記

「東京電力は日本政府を訴えるべき」へのたくさんのコメント、ありがとうございました。

とりわけ電気事業法第37条をめぐる議論と、東京電力の破綻処理の可否に関する議論は参考になりました。

東京電力の賠償責任という重要な問題について、有益な意見の交換を読ませていただいたことは、私にとっても貴重な体験でした。この問題の「正義にかなう」解決にすこしでも資することができれば幸いです。