モーニングスター社インタビュー(1)震災で人生設計の「安全神話」崩壊

4月13日にインタビューを受け、20日に配信されたモーニングスター社の記事を、同社の許可を得て、今日から3回に分けて掲載します。

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東日本大震災や東京電力 の福島第一原子力発電所の放射能漏れ事故は、地震対策や原発の安全性についての日本人の考え方を大きく揺るがした。また、震災の日本経済への影響が懸念され、雇用に対する不安が一段と高まっている。「地震大国」と呼ばれる日本で生きるうえで、個人が経済的側面において考えるべきリスクとは何なのか。モーニングスターはこのほど、作家の橘玲氏にインタビューした。橘氏は、ベストセラーになった『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』や『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』など資産運用や人生設計についての多数の著書で知られ、個人投資家の人気も高い。震災や福島第一原発の事故を受けて何を考えたか、震災が日本人の人生設計にどのような影響をもたらすのかなどを聞いた。(聞き手・坂本浩明)

<選択肢のない人生、極めてハイリスク>

――震災後に本の執筆を中断し、雑誌原稿の連載を延期したという。まず、震災を受けて何を率直に感じ、考えたのかを聞きたい。

「私はこれまで、自由とは選択肢の数のことだと繰り返し書いてきた。選択肢を持っていないと、予期せぬ不幸に見舞われたとき、人はすべての希望を奪われてしまう。自由とは生き延びるための戦略であり、立ち直れないほどの痛手を被るのは、他に生きる術(すべ)を持たないからだ、というように」

「私は理屈ではこのことを知っていたが、しかし、今回のような想像を絶する事態が目の前に立ち現われるなどとは思ってもいなかった。もちろん被災者のなかにも、他の地域に移住して生活を再建し始めた人はいただろう。だが、震災後の圧倒的な現実とともに明らかになったのは、日本人のほとんどが選択肢など持っていないということだった。多くの人は避難所に身を寄せるしかなかった」

「日本の社会も日本人の人生設計も、大震災や原発事故は起こるはずがないという前提のもとに成立していた。しかし、いったん『安全神話』が崩壊してしまうと、想定外の事態を前に選択肢のない人達はどこにも行くところがなくなり、途方に暮れるしかなかった」

<本質的課題は社会全体の「リスク耐性」をいかに上げるか>

――震災後には東京電力 <9501> の福島第一原発の事故で首都圏でも放射能汚染に対する懸念が広がり、日用品の買いだめが起こるなどの混乱があったが、原発事故への人々の対応についてはどのようにみていたか。

「原発事故が起こったあとに分かったのは、人々の『リスク耐性』、つまりどこまでリスクに耐えられるかの水準が個人によってかなり違うということだ。原発施設で水素爆発が起きたときや、水道水で通常よりも高濃度の放射能が検出されたときは、東京でもパニックに近い状況が起きた。しかし、皆がそうなったわけではなく、高齢者や幼い子供を持つ親のようなリスク耐性の低い人から買い占めや避難の動きが始まった。いざとなれば歩いてでも逃げられるリスク耐性の高い人たちが、その行動を批判しても意味がない。いかに社会全体のリスク耐性を上げていくか。それが今回の危機を経て取り組むべき本質的な課題なのではないか」

「一方、被災地での生活について世界中が驚いているのは、避難所の人々があのような混乱のなかでも自分の生活を律し、秩序を守り、共同体を運営していることだ。欧米では秩序が宗教的な価値観に基づいて形成されるのに対して、無宗教に近い日本ではいわゆる『世間』が秩序形成に重要な役割を果たしてきた。世間とは、一般に『世間の目を気にする』などネガティブな意味で使われることが多い。しかし、今回の震災で『世間』の持つポジティブな面に光が当たった。秩序や安全を含め、日本社会の美質のほとんどは『世間』から生み出されるのだ」

モーニングスター社(2011/04/20配信)
禁無断転載

Back to the 80’s いまでもときどき思い出すこと(5)

24歳のときに、友だちと3人でママゴトみたいな会社をつくった。同じ頃に彼女に子どもができて、ママゴトみたいな結婚をした。

社長は3つ年上で(その頃はオジサンだと思ってたけどまだ27歳だった!)、ぼくたちに給料は毎月10万円だと宣言した(もちろん社会保険も家族手当もない)。会社は御茶ノ水のマンションの一室で、ぼくは1ヶ月のうち平均28日間をそこで過ごしていた。もうちょっとわかりやすくいうと、年中無休で家に帰れるのは月に2日か3日だった。

なぜそんなことになったかというと、ぼくたちの会社は出版社の下請けで、ツッパリ(ヤンキーともいう)の女の子向けの雑誌をつくっていたからだ。そのいきさつもいろいろ面白いのだけど、本題ではないので省略する。

その当時は暴走族と呼ばれる若者たちがいて、車やバイクを改造し、旗や幟を立てて深夜の公道を爆走していた。そのなかにはレディースという特攻服を着た女の子たちのグループもあって、ぼくたちの雑誌にときどき登場してくれていた。

あるとき、彼女たちが暴走族の集会に誘ってくれた。ぼくはそれまでバイクにすら乗ったことがなかったけれど、面白そうだったので、カメラマンといっしょに参加することにした。

深夜0時に蒲田の駐車場に行くと、100台ちかい車やバイクが集まっていて、頭蓋骨を震わす排気音を轟かせていた。ぼくたちの世話係はリーゼントをばしっときめた若者で、「しっかり運転しますから、いい写真を撮ってください」と励ましてくれた。高校を中退して、いまはちかくの鉄工所で働いているのだという。

暴走族の巨大な集団は、信号無視を繰り返しながら第二京浜を品川方面に向かった。ドライバーは見事なハンドル捌きで、上半身を乗り出してポーズを決める(これを“箱乗り”といった)レディースたちの後ろにぴったりと車をつけた。

社会のルールを踏みにじり良識に反抗するのは、いつだってぞくぞくするものだ。ぼくはただ後部座席で座っていただけだけど、それでも世界をひとり占めしたような高揚感があった。助手席から身を乗り出して写真を撮っていたカメラマンも、フィルム交換のとき、子どものような笑顔を浮かべて「楽しいですねえ」といった。

ドライバーの若者が、バックミラーを見て「こりゃマズいや」とつぶやいた。振り返ると、すごい数のパトカーが、サイレンを鳴らしながらぼくたちを追いかけていた。

集団は散り散りになって、ぼくたちのグループはパトカーに囲まれていた。ぼくとカメラマンは車から降りると、暴走族に職務質問する警察官の写真を撮った。当然ひと悶着があって、警察署に連れていかれそうになった。防犯課の刑事に連絡先を教えてようやく解放された頃には、もう夜は白みはじめていた。

そのまま会社に戻ると、スーツに着替えて銀座に向かった。そこには大きな広告会社があって、会議室には雑誌の編集担当やクライアント担当者、その上司など4人くらいが待っていた。あまりに給料が安いので、広告会社のPR雑誌でアルバイト原稿を書いていたのだ。

簡単な打合せが終わると、ぼくたちは黒塗りのハイヤーに分乗して南青山のホンダビルに向かった。

受付には広報担当者とその上司が待っていて、名刺交換のあと、エレベータで役員フロアに案内された。ぼくの仕事は、廊下の奥のひときわ広い部屋にいるひとにインタビューすることだった。

血色がよくて腰の低いそのおじさんは、本田宗一郎の盟友として“世界のホンダ”を育てた立志伝中の経営者、藤沢武夫だったのだけど、当時のぼくはそんなことはぜんぜん知らなかった。ただ、部屋のなかで待機しているひとたちがやたらと緊張していたのが不思議だった。

インタビューが終わると、ふたまわりも年のちがう広報責任者が、「原稿をよろしくお願いします」とぼくに深々とお辞儀をした。ホンダビルの1階はショールームになっていて、そこにシビックやアコードの新車が展示されていた。その華やかな空間を抜けると、正面玄関の車寄せにぼくを送り届けるためのハイヤーが待っていた。

外に出ると、強烈な日差しが寝不足の頭を直撃した。そのときのめまいと、排気ガスが混じった夏の匂いをいまでもなぜか覚えている。

インタビューの原稿は2時間ほどで書き上げて、速達で送った。それだけの仕事なのに、広告会社からは、ぼくの月収の3倍ちかい金額が振り込まれてきた。

第1回 侮れぬ居酒屋クーポン(橘玲の世界は損得勘定)

日経ヴェリタスで、「橘玲の世界は損得勘定」という新連載を始めることになりました。以前の「『不思議の国』探検」は日本の金融業界の“不思議”がテーマでしたが、ネタが尽きて連載20回で行き詰まったので、今回はお金に関する身近な話題を思いつくままに書いていこうと思います。

第1回は、当初は3月20日スタートの予定で原稿もずっと前に渡していたのですが、東日本大震災を受けて掲載が延期されていたものです。

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ずいぶん昔の出来事のように思えるが、大震災のすこし前に近所の居酒屋を訪れた。鶏料理と鍋の店で、まだ早い時間だというのに、店内はほぼ満席だった。なんでも、人気マンガ家とアル中の夫を描いた映画の撮影地になったのだという。

私たちの席の隣は若いカップルで、カクテルを飲みながら串焼きやおでんなど何品か食べ終わると、そそくさと席を立った。

次にやってきたカップルは鶏の唐揚げ、鶏のバター焼き、鶏ラーメンなどを次々と注文し、やはりさっさと帰っていった。

私たちはとりたてて長い時間その店にいたわけではないのだが、勘定をするときは3組めのカップルと一緒だった。これはそのテーブルだけが特別というわけではなく、その店では長居をする客はほとんどいないようだった。

あまり居酒屋に行く機会がないので、最近の若者はずいぶんあっさりしているんだな、と思った。私の若い頃は、いちど飲み屋に入れば、閉店までくだらない話をして過ごすのが当たり前だった。

会計の後で、クーポン券をもらった。そのときはたいして気にとめなかったのだが、翌日、財布の中に突っ込んであったそのクーポン券をしげしげと眺めて、ようやく謎が解けた。

その店ではすべての客に、3000円以上の利用で1人につき1000円を割り引くというクーポン券を配っていた。それがあれば3000円の料理が2000円になるのだから、率すれば3割引の大盤振る舞いだ。でもこの割引は金額ベースなので、1万円飲食しても1000円しか引いてくれない。

この条件からただちに分かるように、その店でデートをするのなら、2人でぴったり6000円の注文をして2000円割り引いてもらうのがもっとも得だ。店のメニューはネットに掲載されていて、事前に調べておけば迷うこともない。だからみんな追加注文することなく、食べ終わるとさっさと帰っていったのだ。

ところでこんなことをしていて、店はやっていけるのだろうか。でもよく考えると、これはなかなか巧妙なアイデアだ。クーポンの有効期限は翌月末になっていて、使わないと損をした気になる客に来店を促す。彼らは1人2000円しか払わないかもしれないが、短時間で帰っていくのだから、回転率が高ければ店の売上は大きくなる。なかには高額の飲食をする客も一定数いるだろう。

客がこのクーポンを使うのは、たんに割引率が高いからではなく、ゲーム性があって面白いからだ。いろんな組み合わせで“最適”な注文を試行錯誤できるし、努力(?)次第でCP(コストパフォーマンス)はどんどん高くなる。

もちろんいちばん損するのは、私たちのような無知な客なのだけど、ここにも仕掛けがあった。いったんこのシステムに気がつくと、次はクーポンを使って挽回しようと考える……。

うーむ、居酒屋恐るべし。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.1:『日経ヴェリタス』2011年4月17日号掲載
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