天に向かってつばを吐けば、それは自分の顔に戻ってくる 週刊プレイボーイ連載(120)

 

福島第一原発の汚染水流出問題を受け、韓国政府は福島など8県の水産物の輸入全面禁止に踏み切りました。これに対して日本政府は、「出荷される水産物はいずれも基準値を下回っており安全規制には科学的根拠がない」としてWTO(世界貿易機関)への提訴を検討しています。

これについては日本側の主張が正しいのは明らかです。韓国のひとびとが日本の水産物の安全に不安を感じているのなら、韓国政府は日本の管理体制を検証したうえで、問題があるのなら改善を申し入れ、そうでなければ食の安全を国民に説明すべきです。

とはいえこの問題で、日本政府がこうした正論を振りかざすのには違和感があります。

2003年に米国でBSE(牛海綿状脳症)感染牛が見つかると日本は輸入禁止措置をとり、日米両国の協議を経て05年から生後20カ月齢以下の若齢牛に限定して輸入が再開されました。しかしこの規制は、その後米国から「科学的根拠がない」としてずっと批判され続けます。

1980年代から90年代にかけて英国で発見されたBSEは、飼料の肉骨粉が感染源であることが特定され、感染牛からつくられた肉骨粉を厳しく規制することで、現在では発生がほぼ止まっています。これを受けてOIE(国際獣疫事務局)などの専門組織は、特定危険部位を除去すれば月齢にかかわらずBSEのリスクは管理できるとして月齢条件を撤廃しました。こうしたことから疫学の専門家の間では、「20カ月齢という日本の安全規制は無意味」というのは常識でした。

非科学的な海外産牛肉の輸入規制と同時に、日本では01年から食用牛の全頭検査が行なわれてきました。しかしこれも、BSEの原因である異常プリオンが脳などの特定部位に集まるのは高齢牛だけで、若齢牛の脳を調べても感染牛を発見することはできず、「全頭検査は税金のムダ」というのが世界の常識でした。先進国でこんなことをやっているのは日本だけにもかかわらず、200億円の税金が投じられた全頭検査が全国で廃止されたのはようやく今年の6月でした。

海外産牛肉の過度な輸入規制も、食用牛の全頭検査も、その理由を問われたとき、政治家や役人は「消費者の不安にこたえるため」と説明してきました。科学的な根拠があるかどうかに関係なく、消費者が心配していれば国が規制するのは当たり前、というのです。

海外産牛肉の輸入規制は昨年末に慌しく緩和されましたが、この政策変更は、福島の原発事故で日本の農水産物が世界各地で風評被害を被ったからだといわれています。一方で「科学的根拠などどうでもいい」といいながら、もう一方で放射能の科学的な安全基準を説くわけにはいかないからです。

BSE問題で日本政府は、消費者に正しい説明をする責任を放棄し、10年以上にわたって非科学的な規制を続けてきました。天に向かってつばを吐けば、それは自分の顔に戻ってくるのです。

註:本稿は科学ジャーナリスト松永和紀氏の「米国牛肉 BSE 輸入規制 日本の条件、もはや科学的根拠なし」を参考にしました。

  『週刊プレイボーイ』2013年10月21日発売号
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第36回 スイス銀「スパイもどき」の教訓(橘玲の世界は損得勘定)

 

世界金融危機の前の話だが、香港のあるスイス系プライベートバンクに知人を訪ねた。彼は香港人だが、日本人の顧客も担当していて、年に何回か日本に出張する。そのときの“出張用グッズ”を彼が見せてくれた。

特製の名刺には英語とカタカナで名前が印字され、あとは携帯電話の番号とWebメールのアドレスが載っているだけだった。携帯は日本で購入したもので、ふだん仕事に使っているものとは番号が違う。出張用のノートパソコンもあって、そこには顧客のデータはもちろん、銀行との関係がわかるものはいっさい入っていない。説明用の資料はあらかじめ国際宅配便で日本の知人に送っておいて、入国後に受け取るのだという。

なぜこんなことをするかというと、入国時に身柄を拘束されて顧客情報が税務当局の手に渡るのを防ぐためだ。「まるでスパイみたいだね」といったら、「自分たちは顧客にとって最善のサービスを提供しているが、国家がそれを邪魔しているのだ」と説明された。

その後、プライベートバンク最大手UBSの幹部が米国で拘束されたことで、スイスの銀行が世界じゅうで同じ「スパイもどき」をやっていることが明らかになった。これは米国とスイスの国際問題になり、UBSは7億8000万ドルの罰金を支払うともに、約5000件の顧客情報を米国の税務当局に提出した。

だが、話はこれだけでは終わらなかった。2010年に米国議会は税法を改正し、米国外の金融機関に対し、米国人口座の詳細を税務当局に開示するよう求め、それを拒否した場合には利子や配当、譲渡益に対し30%の源泉徴収を行なうことを通告した。これがFATCA(外国口座税務コンプライアンス法)だ。

EU(欧州連合)でも、加盟国が相互に口座情報を交換する動きが進んでいる。ヨーロッパのタックスヘイヴンにある金融機関は、これまでEU居住者の利子から35%を源泉徴収し居住国に支払うことで匿名性の維持を認められていたが、この特例も順次廃止され、一部は2015年から銀行情報の交換が始まる。またOECD(経済協力開発機構)も、15年末までに加盟国間の情報交換制度の詳細をまとめる予定だという。

“鉄壁の守秘性”を売りものに巨額の資金を集めてきたスイスもこの潮流に逆らえず、秘密主義の転換を余儀なくされた。

スイス政府は今年8月、金融機関が米国人顧客の隠し口座の情報を提供し一定の罰金を払うかわりに、脱税幇助での起訴を免れるという合意を米司法省と結んだ。プライベートバンクの守秘性を信じた顧客はひどい目にあうだろうが、顧客との約束より自分たちが生き残ることを優先したのだ。

スイスの名門プライベートバンクが犯罪者みたいことをやっていると知ったとき、「こんなのはぜったいおかしい」と思った。だがおそろしいことに、当事者にはこんな当たり前のことすら見えなくなってしまう。社会を揺るがす深刻な問題は、たいていの場合、子どもでもわかるようなことが起こすのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.36:『日経ヴェリタス』2013年10月6日号掲載
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消費税増税と2020年の日本 週刊プレイボーイ連載(119)

 

近所の店にご飯を食べに行くと、顔馴染みの店主から「消費税、どうすればいいんですかねえ」と相談されました。来年4月から消費税が8%に引き上げられることが決まりましたが、それに合わせて680円の定食を700円に値上げできるかどうか悩んでいるのです。ライバル店との競争を考えれば値段は据え置くべきかもしれませんが、そうすると増税分の20円分を取りっぱぐれてしまいます。政府は気軽に「定価に上乗せしろ」といいますが、現場はそう簡単にはいかないのです。

税金が上がると、そのコストは誰かが負担しなければなりません。3%分がすべて価格に転嫁されると、当然、その分だけ生活費を圧迫します。これもさまざまな試算が出ていますが、家賃や教育費などもともと非課税のものもあるので、年収300万円の若者なら課税対象200万円として年間6万円、年収500万円で妻と子どもを養っているサラリーマンなら課税対象300万円として年間9~10万円の負担増になりそうです。6万円というとデート6回(あるいは300円の牛丼200杯)分に相当しますから、生活にかなりの影響があることは間違いありません。

さらに問題なのは、消費税の引き上げが今回かぎりではなさそうなことです。

増税が必要なのは、誰もが知っているように、高齢化によって今後、年金や健康保険、介護保険の支出が爆発的に増えていくからです。15年10月には消費税率10%への再引き上げが予定されていますが、現行の制度を維持するにはそれでもまったく足りず、最終的には消費税率は北欧と同じく25%まで上がるだろうと財政の専門家はいいます。将来の人口動態は正確に予測できますから、暗鬱な運命もいまからはっきり見えてしまうのです。

仮に収入が変わらず消費税率が25%になれば、年収300万円の若者で年40万円、年収500万円のサラリーマンで年60万円の負担増です。これでは生活が崩壊してしまいますから、民主的な政府はとてもこんなことを実行できません。唯一の希望は経済成長で、景気がよくなって収入も税収も増えれば、無理な増税をせずに高齢化社会を乗り切ることができるかもしれません。安倍政権が「経済成長以外に道はない」というのは、その意味では正しいのです。

とはいえこちらも経済学者によるさまざまな試算があり、安定したインフレ率のもとで高度成長期並みの好景気がやってこないと、1000兆円の借金を抱えながら、国の税収が一般会計歳出の半分も賄えないという異常な事態を改善することは難しそうです。この話題はいまだに専門家の論争(というか罵り合い)が続いているので深入りはしませんが、いずれにせよあと1年半で日銀の異次元緩和の結果が出るというのですから、それを待つほかありません。

東京オリンピックが開催される2020年は、団塊の世代が70代を迎えて本格的に医療・介護保険を使うようになる年でもあります。64年のオリンピックのときは、彼らはまだ10代でした。

今回の消費税増税を機に、日本の社会は来るべき超高齢化社会に向けて大きく変わりはじめるでしょう。次のオリンピックもひとびとに夢をもたらすものになることを願うばかりです。

 『週刊プレイボーイ』2013年10月7日発売号
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