第25回 むかしも今も変わらぬ「幸福」(橘玲の世界は損得勘定)

正月明けに、天気が良かったので七福神めぐりをすることにした。いまや全国的に流行っているようだが、近隣の寺や神社に祀られている七福神をバスや徒歩で回って、専用の色紙に朱印を捺してもらうという趣向だ。いうなれば、ポケモンラリーの神様版である。

色紙の代金は2000円で、バス1日フリー参加券とちょっとしたお土産もついている。興味深いのは、「自分で色紙を用意した場合は御朱印代として各寺300円」という但し書きがあることだ。七福神すべてに押印すると2100円かかるから、専用色紙を買ったほうが得するようになっている。いまでは七福神めぐりも、市場原理に基づいて、コストとベネフィットが均衡するようにできているようだ。

けっきょく、バスは使わずに3時間ほどかけてすべての寺を歩いて回ったのだが、そのうちひとつの疑問が芽生えた。なんで同じような神様ばかりなのだろう?

私は宗教に疎いので、七福神というのは7つの幸福を叶えることだと思っていた。ところが寺社の説明書きを読むと、恵比寿、大黒天、布袋、弁財天は商売繁盛や財福を、福禄寿と寿老人は長寿を司り、毘沙門天だけが知恵の神様だ。

弁財天は琵琶を持つ女性の神様で、もとは音楽と芸能を得意とするヒンドゥー教の女神サラスヴァティーのことだ。そこで「弁才天」の字が当てられたのだが、それがいつのまにか才能が財福に置き換わって「弁財天」になり、霊水でお金を洗うと金持ちになれるという民間信仰と結びついて、銭洗い弁財天になったのだという。

大黒天もその出自はヒンドゥーの神様で、破壊の神シヴァの化身として「大いなる暗黒」を意味するマハーカーラ神のことだ。ところが「大黒」の音が「大国主命」と同じことから、両者が合体して、死と破壊をもたらす神が福々しいお金持ちの神様に変身してしまった。

毘沙門天は仏教の守護神・四天王の一人多聞天のことで、「よく聞く」ことから知恵を司るとされるが、その前身はヒンドゥーのクベーラ神で、地下に眠る財宝の守護神だ。

福禄寿と寿老人は中国の道教の神で、ともに「幸福(子宝に恵まれる)」「封禄(金持ちになる)」「長寿(健康で長生きする)」の3つの願い(三星)を体現している。

布袋は中国の伝説の仏僧で、太鼓腹で大きな袋を背負った姿で描かれたことから、福の神として信仰されることになった。

恵比寿は七福神のなかで唯一日本の神様で、もとは海神として豊漁を祈願された。それが転じて商売繁盛の神となり、広く信仰されるようになった。

こうやって七福神の由来を眺めると、古来ひとびとが何を求めてきたのかがよくわかる。

私たちがなによりも望むのはゆたかに暮らすことと、健康で長生きすること。それにささやかな知恵と、歌舞音曲があればいい。

むかしも今も、幸福の意味はなにひとつ変わっていないのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.25:『日経ヴェリタス』2013年1月20日号掲載
禁・無断転載

体罰は日本型マネジメント 週刊プレイボーイ連載(83)

大阪の市立高校で、バスケット部の男子生徒が顧問教諭から体罰を受けて自殺したことが大きな社会問題になっています。

昨年は滋賀県の市立中学でいじめ自殺が起きましたが、日本では学校での自殺のほとんどが公立中学を舞台としています。ひとは誰もが生きたいという強烈な欲望を持っていますから、自ら死を選ぶのはどこにも逃げ場がない絶望の深さを示しています。

公立中学の生徒がいじめで自殺するのは、義務教育によって退学の自由がなく、また相手の生徒を退学させることもできず、いじめが未来永劫つづくように感じられるからでしょう。高校になるといじめ自殺が起きない理由は、いじめられた生徒が転校や退学するハードルが下がることと、問題のある生徒を停学・退学処分にしやすいことで説明できます。現状をすこしでも改善できる希望があるのなら、誰も死のうとは思いません。

そう考えると、高校の部活動で自殺が起きるのは不可解です。死を考えるほど思いつめる前に、さっさと退部してしまえばいいからです。それでも今回のような事件が起きるのは、退部できないような強力なちからが部活動に働いているからにほかなりません。

マスメディアは顧問教諭の体罰を問題にしますが、かんたんに退部できる環境であれば、体罰を振るわれた部員はみんな辞めてしまうでしょうから、自殺のような重大な問題にはつながりません。逆にいえば、生徒を精神的な監禁状態に置くからこそ、体罰による指導が可能になるのです。

今回の事件では、強豪校の運動部が聖域になっていて、校長すら安易に口を挟めない実態も浮き彫りになりました。OBや父母のなかには、顧問教諭を「指導に熱心な先生」と擁護する声も多いといいます。「体罰=悪」は社会常識ですが、運動部は一種の治外法権だという意識がそこからは感じられます。

ライバルを倒して勝ち上がっていくためには、自己の限界を超える過酷なトレーニングを課さなければなりません。そのためにもっとも効果的なのは、恐怖や暴力によって生徒を洗脳し、指導者への絶対的な服従とチームへの献身を叩き込むことでしょう。こうした洗脳が完成すると、退部は自己を全否定することになり、指導者や仲間の信頼を裏切るくらいなら死んだほうがマシだと思うようになります。

この問題の本質は、日本の組織の多くがこうした「体育会型マネジメント」で成り立っていることにあります。日本の会社が、自己責任で行動する近代的個人よりも上司の指示どおりに動く「体育会系」を好むのは周知の事実です。上司より先に部下が帰ることは許されず、サービス残業は当たり前で、パワハラによって上司が部下を精神的に支配することが「管理」と呼ばれます。

だからこそひとびとは、この問題を顧問教諭の体罰に矮小化し、その「指導」を擁護する声に耳をふさぎます。事件の背景を追究すれば、日本型組織に依存する自分自身が批判されることに気づいているからでしょう。

このようにして、個人への責任転嫁とバッシングで事件は風化していくのです。

 『週刊プレイボーイ』2013年1月21日発売号
禁・無断転載

アンチ・グローバリズムも“グローバル化”している

藤原章生氏の『資本主義の「終わりの始まり」』を興味深く読んだので、忘れないうちに感想を書いておきたい。

著者の藤原氏は毎日新聞記者で、ローマ支局長のときにギリシアの混乱を取材した『ギリシャ危機の真実』という優れた現場報告を書いている。本書はその混乱を経て、イタリアやギリシアなど“南のヨーロッパ”で「資本主義はもう終わりだ」という思想が生まれつつあることを取材したものだ。

物語は、2012年1月に交通事故で急逝したギリシアを代表する映画監督、テオ・アンゲロプロスが遺した謎めいた言葉から始まる。

「いまは未来が見えない。そして誰もが大きな待合室でチェスをしながら、扉が開くのを待っている。中には扉を壊そうとする者もあるがすぐには開かない――。ここ地中海圏が、扉を最初に押し開こうとするだろう」

アンゲロプロスが死んで、この“予言”の真意を直接訊くことはできなくなってしまった。そこで著者は、イタリアやギリシアの哲学者や歴史学者、社会運動家などを訪ね歩き、「扉が開かれる」とはどういうことかを知ろうとする。この導入部は魅力的だ。

書名からわかるように、「扉」とは資本主義の隠喩で、「扉が開かれる」とき、グローバル資本主義ではない新しい経済システムが誕生することが示唆されている。だが最初に断わっておくが、本書に経済学的な議論を期待するひとはがっかりするだろう。著者はジャーナリストであり、登場する碩学たちのなかにも経済学者はわずかしかいない。「資本主義の次にくるもの」は最後までわからないままだ。

では、本書の魅力はどこにあるのか? それを説明するには、ヨーロッパ社会の思想状況について、私の理解をかんたんに述べておかなくてはならない。

議論の前提として、いまでは北欧の福祉国家はすべて“ネオリベ化”してしまった。これは80年代の不況と財政危機を受けて、90年代以降、グローバル化に適応した社会ステムを構築する改革が続いたためで、スウェーデンやデンマーク、オランダなどは現在では「新自由主義型福祉国家」と呼ばれている。

これは私の個人的な見解ではなく、ヨーロッパの政治や社会を研究する専門家のあいだでは常識になっていることだ。この「常識」がマスメディアでほとんど紹介されないのは、「理想の福祉国家」がネオリベ国家になってしまった現実を認めたくないひとや、その事実が広く知られることで既得権を奪われるひとがいるからだろう(これについては別にエントリーを立てる)。

誰もが満足する完璧な社会制度がないことは当然だが、これも事実として、さまざまな国際比較調査で“ネオリベ福祉国家”のパフォーマンスがきわめて高いことが実証されている。

オランダはワーク・ライフ・バランスや男女共同参画社会で新たな働き方のモデルをつくり、年間労働時間は日本の8割以下で、労働者一人あたりの生産性は3割も高い。人口900万人のスウェーデンからはイケアやH&Mなどの世界的企業が育ち、国政選挙の投票率は85%にも達する。デンマークは消費税率25%の高負担の国だが、イギリス、レスター大学の世界幸福度調査(2006年)では「世界一幸福な国」に選ばれている。

ネオリベ化した“北のヨーロッパ”は、効率的で国際競争力が高く、国民の政治・社会への参加意欲も、生活に対する満足度や幸福度も高い。もちろん幸福は主観的なものだが、“北のヨーロッパ”のひとびとが、「自分たちはそこそこうまくやっている」と考えていることは間違いない。

それに対して“南のヨーロッパ”には絶望しかない。

ギリシアでは失業率が20パーセント(若者の失業率は57%!)を超え、公務員の給与は3割削減され、財政危機が発覚した2009年末からわずか2年でギリシア国内の銀行預金は20パーセント(約5兆円)も減ってしまった(その大半はドイツやスイスなどの金融機関に流出した)。

お金ばかりでなく、ひとも逃げ出しはじめた。移民の急増で、オーストラリア、メルボルンのギリシア人コミュニティの人口は15万人を超え、アテネ、テッサロニキに次ぐ“ギリシア第三の都市”になろうとしている。

ヨーロッパ(EU)はユーロという共通通貨を持ち、ECB(ヨーロッパ中央銀行)がユーロ圏の金融機関を支え、ユーロ共同債の導入も議論されている。金融や財政が一体化していくなかで、域内に異なる社会制度が並存するのはあまりにも非現実的だ。だったら、より劣った社会制度を抱える国々は、優れたシステムに向けて政治や社会を「改革」していくべきだ……。これがヨーロッパの政治・官僚エリートや知識層の常識になっている。

ネオリベ化した“北のヨーロッパ”から見れば、“南のヨーロッパ”は汚職が蔓延し、政府は肥大化し、ひとびとは働くよりも福祉をあてにする、きわめて効率の悪い社会だ。だからこそ援助する側からの「改革圧力」はきわめて強力で、財政危機で自立不可能になった「南」の政府にはほとんど選択の余地がない。このことは、政治家を排除し経済学者と実務家だけで構成されたモンティ政権がイタリアに成立し、緊縮財政と規制緩和を進めたことからも明らかだろう。

しかしこうした“北のネオリベ”からの外圧は、南のひとびとにとっては理不尽以外のなにものでもない。家族の絆こそが生きる意味だと考える彼らにとって、「自立」と「自律」の原則によって家族が解体し、“近代的個人”の集団になってしまったスウェーデンは奇妙奇天烈な社会でしかない。“北のヨーロッパ”のような社会になることは、彼らの生き方(実存)を全否定されることなのだ。

こうした背景を頭に入れておくと、この本でイタリアやギリシアの思想家・社会運動家たちが「グローバリズム」に激しく反発する言葉がリアリティを持ってくる。彼らにとっていま起きていることは、「北」と「南」のどちらの社会制度が経済的に効率的か、ということではなく、生きるということの価値観をめぐる対立なのだ。

もっとも藤原氏が困惑するように、彼らのなかに「ポスト・グローバリズム」の明確なイメージがあるわけではない。「南の思想」を説くイタリアの思想家フランコ・カッサーノにしても、「強欲経済ではなくバランスが必要だ」とか、「われわれだけが地球の主ではない」とか、言い古された言葉を並べるだけだ。それ以外にも、スローライフ、農業回帰、地産地消、コミュニティの復権などなど、今では中学生ですら口にする“グローバリズム批判”が次々と出てくるばかりだ。

この本を読むと、アンチグローバリズムもまたグローバル化していることがよくわかる。日本でもイタリアでも、あるいはアメリカで中南米でも、“グローバリズム”を価値観への脅威だと感じるひとたちはまったく同じ呪詛の言葉を叫んでいる。

しかしこれは、考えてみれば当たり前のことだ。グローバリゼーションが普遍的な現象であるならば、それに対する“アンチ”もまた普遍的なものにならざるを得ない。だからこそ、真っ先に“グローバリズム”の洗礼を受け、“ネオリベ”からの外圧に晒されている“南のヨーロッパ”の思想家たちの言葉が世界じゅうに伝播し、そして陳腐化していく――。「アンチ・グローバリズム」の実態を描いたことで、前作につづき、本書も優れたジャーナリズムの仕事になっている(著者の意図とはちがうかもしれないが)。

「扉」は永久に開かれることはないだろう。私たちはこれからも、「待合室」のなかでなんとか生きていくほかはない。だが、チェスをするかどうかはあなたの選択に任されている――。