書評:平川克美『俺に似たひと』

私が大学に入学した年に祖母が倒れた。それから10年、自宅(叔父の家)で寝たきりとなり、100歳を超えて世を去った。

幼い頃に世話になったこともあって、帰省するたびに見舞いにいった。

叔父の家の裏手には、道一本隔てて川が流れていた。下の世話を嫁に頼まなければならなくなった時、祖母は布団から這い出て、その川に身を投げようとした。

意識が曖昧になってくると、うわごとのように子どもの頃の話ばかりした。

弟妹の面倒を見るために、祖母は小学校に行くことを許されなかった。幼い妹を背負い、弟の手を引いて、校舎の窓から勉強をする同い年の子どもたちを眺めていた。それがどれほど悔しかったか、と声をあげて泣いた。老いは過去への旅路であり、記憶はいつまでもまとわりついてけっして離れない。

なぜこんなむかしの話をするかというと、平川克美さんの『俺に似たひと』を読んだからだ。この本には、近しいひとの死を思い出させる不思議なちからがある。

解説風にいうのなら、これは町工場の経営者だった父親を放蕩息子が介護する物語だ。『東京タワー』の親父版と感じるひともいるだろう。

あるいは、「高齢化社会のハードボイルド」でもある。母親が急死し、父親の介護が必要になったとき、「誰かに押しつけるわけにもいかないし、俺がやるしかしょうがない」と、一人実家に移り住み、食事をつくり、風呂に入れ、夜中に小便に連れていく。殺人や失踪の捜査を頼まれることはないとしても、私たちの人生には、“落とし前”をつけなくてはならないことは残っているのだ。

それでも、このようなありきたりの解説では、あの不思議な読後感は伝わってこない。それを知りたければ、ぜひ手にとってみてほしい。

私のようにまだ介護の経験がなくても、ちょっとぶっきらぼうな「俺」に誘われて、記憶の片隅に眠っていたなつかしいひとがよみがえってくるだろう。

PS じつは私は、25歳から1年ほど、フリーランスとして平川さんの会社の仕事をしたことがある。その時は、外国人にイラストで日本の文化や風習を紹介するシリーズ本を何冊かつくった。そんな縁がなければ、息子が父親を介護する話を読もうとは思わなかっただろう。

でもこれは、知人の本だから紹介した、ということではない。若い頃のちょっとした偶然が、この本と出会う機会を与えてくれたことを感謝したい。

ベーカムは「愚者の楽園」追記

前回のエントリーで、ベーシックインカム(ベーカム)と同様の試みとして、産業革命勃興期(1795~1834年)にイギリスで実施されたスピーナムランド法を紹介した。1200字のコラムでは細かなことまで説明できないので、すこし追記しておきたい。

市場の拡大とともにイギリス社会がはじめて体験した「貧困」という問題に対処するため、「貧困者一人ひとりの所得に関係なく最低所得を保障する」という制度が導入された。スピーナムランド法は、自由経済のもとで、現金給付によって貧困問題を“最終解決”しようとするとなにが起きるのかの壮大な社会実験だった。

この所得保障制度は厳密にはベーカムとは異なるが、ひとは同じような経済的インセンティヴ(働かなくても食べていける)に対して同じような反応をするとすれば、結果もおそらく似たようなものだろう。「スピーナムランド法は大失敗したが、ベーカムならうまくいく」という説得力のある説明は、(すくなくとも私は)聞いたことがない。

「生存権による貧困の解消」を目指すスピーナムランド法は、当初は緊急措置とされていたが、イギリス全土に広がるにつれて既得権化していった。それがどのような結果を招いたかを詳述したのが、異端の経済学者カール・ポラニーの大著『大転換』だ。ポラニーは、ファシズムやスターリニズムの台頭と第二次世界大戦の惨状を目にして、資本主義(自由経済)は原理的に破綻する運命にあることを証明すべくこの本を書いた。

ポラニーは、自由経済(商品経済)は、労働(人間)、土地(環境)、貨幣という、本来「商品」ではないものを商品として扱う自己矛盾から自壊すると論じた。長らく見捨てられていた彼の仕事がふたたび注目を集めるようになったのは、アジア経済危機(1997年)や世界金融危機(2007年)などのグローバル経済危機を予見していた、とされたからだ。ポラニーはいまや、「市場原理主義」に反対するひとたちの理論的な支柱となっている。

ポラニーの主張の当否は別として、ここで興味深いのは、自由経済の不可能性を論じたポラニーが、“元祖ベーカム”であるスピーナムランド法を全否定していることだ。以下、『大転換』からポラニー自身の論評を抜粋してみよう。

これ(スピーナムランド法)ほど人気のある措置は、これまで存在しなかった。親は子どもの養育から解放され、そして子どもはもはや親に頼らなくなった。雇用主は思うように賃金を減額することができたし、労働者は忙しかろうが暇だろうが飢餓の心配はなかった。人道主義者はこの措置を、公正ではないにしても慈悲深い立法だとして称賛し、利己主義者は、それを慈愛に満ちた措置ではあるが少なくともけっして気前のよいものではないと考えて、進んで自らを慰めていた。成年男子なら、生活を何とか維持できる程度の賃金をもらっていようといまいと一般的に「生存権」ありとするシステムのもとで、いったい税にどのような事態が生ずるのか、救貧税納税者でさえ容易に気づかなかった。

長期的には、結果は恐ろしいものとなった。一般の人々の自尊心が賃金より救貧を好むような低水準にまで落ち込むには、若干の時を要したものの、賃金が公共の基金から助成されることによって結局は底なしに低下することになり、人々は税に頼るよう駆り立てられることになった。しだいに、地方の人々は貧民化した。「乞食は三日やったらやめられない」という金言はまさしく真理であった。給付金制度の長期的影響を抜きにして初期資本主義の人間的・社会的退廃を説明することはできないだろう。

こうしてポラニーは、“貧困のないユートピア”を目指す社会的冒険の本質を「愚者の楽園」と呼ぶ。

みずからの労働によって生計を立てることができないとすれば、彼は労働者ではなく貧民である。労働者を人為的にそうした状態に陥れてしまったことが、スピーナムランド法のもっとも忌まわしい面であった。この法律のあいまいな人道主義は、労働者が一つの階級へと成長していくことを妨げ、それゆえに経済のひき臼の中で定められた破滅の運命から逃れうる唯一の手段を、労働者から奪ってしまったのである。

18世紀末のイギリスにこのような極端な貧困救済策が登場したのは、ひとびとが時代の変化を受け入れられなかったからだ。

産業革命によって工業の生産性は大幅に上昇し、貿易量の増加によって経済は拡大した。だがこうした好ましい変化には、多くの負の影響がともなっていた。

産業革命に先行する農業革命によって農村共同体は解体し、都市部への人口流出によって地方は貧困化した。貿易量の変動によって工場労働者はかんたんに解雇され、「今日の労働者が明日は乞食」というのが当たり前になった。当時、農村にも都市にも「不安」が満ちていた。

ポラニーの指摘するように、貧困問題を解決する最良の方法は、市場の変化に合わせて社会を改革し、連帯する労働者階級を育てていくことだった。だがすべての労働者に、働きの如何にかかわらず最低賃金を保証するスピーナムランド法は、労働者の連帯を逆に破壊し、一人ひとりをばらばらにしてしまったのだ。

当時の為政者も民衆も「変わる」ことに怯え、現状を維持する簡便な方法として救貧税を求めた。この“善意の法”がイギリス社会に与えた影響について、ある女流文学者は次のように書いている。

救貧税は民衆を駄目にしてしまった。……給付金を手に入れるために、乱暴な連中は監督官を脅しつけ、放蕩人は養わねばならない自分の私生児をこれ見よがしに見せつけ、怠け者は給付金をもらうまでじっと待ちつづけた。無知な少年や少女は給付金を当て込んで結婚した。密猟者、こそ泥、売春婦は脅迫して給付金をゆすり取った。地方判事は人気取りのために、救貧委員会はご都合主義から、給付金を惜しげもなくばらまいた。これが救貧資金の行きつく先であった……

農業経営者は、土地の耕作のために自分自身の資金を支払って適正な数の労働者を雇うという真っ当な方法ではなく、その二倍の人数の労働者を雇うよう強いられ、その賃金の一部が救貧税で支払われることになった。農業経営者がやむをえず雇ったこれらの労働者は、働こうが働くまいが好きなようにできたから、その管理は農業経営者の手に負えず、土地は荒れていった。そうした労働者がいるおかげで、農業経営者は自活のために一生懸命に働いたと思われる真面目な働き手を雇えなくなった。やがて真面目な働き手も、最低の人たちの中へと落ち込んでしまった。救貧税を支払っていた小屋住み農も、生活苦との闘いに敗れ、救済を求めて救貧税の支払い窓口に向かったのである……

そしてついに、「どんなものでもスピーナムランド法よりはましであるというのが、広く一般に抱かれた確信」となって、この壮大な社会実験は40年弱で終了したのだ。

ベーシックインカムは「愚者の楽園」 週刊プレイボーイ連載(41)

橋下徹大阪市長の「維新版・船中八策」で、ベーシックインカムの導入が検討されています。ベーシックインカムは「生存権」を基本的人権として、国家が国民全員に最低限の所得を保障する制度で、これによって貧困問題は解決できると主張するひともいます。

新自由主義の立場から市場の活用を掲げる維新の会がベーシックインカムを取り上げるのは、社会保障から国家の関与をなくし行政を簡素化できると考えているからでしょう。「20歳以上の国民に一律に月額7万円を支給する」と決めてしまえば、年金も失業保険も生活保護もすべて不要になります。

いいことだらけのようなベーシックインカムですが、現実にはこのような政策を採用している国はひとつもありません。しかし歴史をさかのぼれば、きわめてよく似た貧困救済策を実施した例が見つかります。それは、産業革命勃興期のイギリスです。

近代以前は、貧富の差は身分の差であり、農民は貧しいながらもなんとか生きていくことができました。ところが産業革命によって農村から都市に人口が流入すると各地にスラム街が生まれ、不景気になると都市で食い詰めた貧困層が農村に逆流してきます。こうして、「貧困」がはじめて社会問題になりました。

当時のイギリスでは、教会が中心となって、教区ごとに住民の生活を保障する仕組みになっていました。

1795年5月6日、スピーナムランドという小さな町に集まった判事たちは、貧困問題を解決する画期的な決定を下します。彼らは、「一人ひとりの所得に関係なく最低所得が保障されるべきである」として、パンの価格に応じた賃金扶助を命じたのです。

「生存権」を大胆に認めたスピーナムランド法は、イギリス全土に急速に広まっていきますが、1834年にあえなく廃止されてしまいます。この善意にあふれたアイデアの、いったいどこが上手くいかなかったのでしょうか。

最低所得保障はまず、労働の倫理を破壊しました。懸命に努力してもさぼっても受け取る所得が同じになるのなら、雇用主のために働くのはバカバカしいだけです。こうして、ひとびとは自尊心を捨てて貧乏を好むようになりました。

するとこんどは、雇用主が払う賃金が下がってきました。労働者をただ働きさせても、差額の賃金が税金から補填されるのですから、給料を払う理由があるはずはありません。そればかりか彼らは、貧困層に支払われる家賃扶助を目当てに、あばら家を貸し付けて儲けました。これは、昨今の「貧困ビジネス」と同じです。

スピーナムランド法の最大の被害者は、「物乞いとして生きていくのはご免だ」という自立心の強いひとたちでした。賃金が大幅に引き下げられたため、彼らのほとんどが破産してしまったのです。

このようにして、「すべてのひとに最低限の生活を保障する」19世紀はじめのユートピアの実験は、ものの見事に失敗してしまいました。

同じヒトである以上、200年前のイギリス人も現代の日本人もたいして変わりません。ベーシックインカムも、きっと同じような「愚者の楽園」を生み出すことになるでしょう。

参考文献:カール・ポラニー『大転換』

 『週刊プレイボーイ』2012年3月5日発売号
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