「社員の面倒を見る」義務から会社を解放しよう 週刊プレイボーイ連載(88)

ブラック企業は、日本経済が過去10年間で生み出した最大のイノベーションです。その“功績”は、最低賃金とサービス残業で正社員を徹底的に使い倒し、アルバイトを雇うよりも大幅に人件費を節約して驚くような低価格を実現したことです。

もちろん、サービス残業は労働基準法に照らせば完全に違法です。それではなぜ、こんな法律違反が「法治国家」であるはずの日本で“放置”されているのでしょうか?

ところで、法はあらゆる人間関係を平等に規制するわけではありません。

店先のお菓子を勝手に取って食べれば万引きですが、友だちのお菓子ならいたずらです。法は人間関係が疎遠なほど強い影響力を持ち、近しくなるにつれて効力を失い、家庭内では民法や刑法が問題になることは(ふつうは)ありません。ここに、日本の会社の遵法意識がきわめて低い理由があります。

日本では、会社は“イエ”と同じで、経営者と従業員(正社員)は運命共同体だと考えられてきました。社長と社員の関係が親子、上司と部下の関係が兄弟(姉妹)のようなものならば、家庭内には原則として法は介入できないのですから、どのような法律も守る必要はないことになります。違法体質は、日本の会社に特有のベタな人間関係から生まれるのです。

しかしそれでも疑問は残ります。中国は日本以上にベタな人間関係でできた社会ですが、従業員はみな定時になるとさっさと帰宅し、無報酬で働くなどということは考えられません。それは中国人にとって、経営者と従業員はあくまでも他人同士で、人間関係の外にあるからでしょう。生活の面倒を見てくれないなら、奉仕するのはばかばかしいだけです。

それに対して終身雇用を前提とした日本的雇用制度では、経営者は、いちど社員を採用すれば生涯(定年まで)面倒を見なければならないと強く意識します。子育てですら20年で終わるのに、新卒社員のこれから40年間の生活を考えるとき、とてつもなく重い負担感と同時に、それとは裏腹の支配意識が生じるのは当然です。会社という“イエ”の家長である経営者は、家族に対するよりはるかに強い服従を正社員に要求するのです。

ブラック企業を批判するひとたちは、経営者が社員を奴隷のように酷使するのではなく、ひととしてもっと大切に扱えといいます。これは正論ですが、日本では逆効果です。「経営者なんだからちゃんと社員の面倒を見ろ」ということは、その前提として、“イエ”の家長としての絶対的な権力を認めているからです。これでは、ほとぼりが冷めればすぐにまた独裁が始まるだけです。

会社と家族を同一視するひとは、いまでは日本でも少数派かもしれません。しかし過去の“イエ”意識は亡霊のようにまとわりついて、いまもひとびとの意識を支配しています。

ブラック企業をなくすには、“イエ“化した文化を変えるしかありません。

問題は、正社員が“イエ”にとりこまれ、無制限の献身と服従を要求されることです。だとしたらそのもっとも簡単な解決法は、会社(経営者)を「社員の面倒を見る」義務から解放することでしょう。

これなら“イエ”は解体し、日本にもはじめて近代的な労使関係が生まれるはずです。

参考文献:村上 泰亮、公文 俊平『文明としてのイエ社会』

 『週刊プレイボーイ』2013年2月25日発売号

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第26回 振り込め詐欺、はびこる理由 (橘玲の世界は損得勘定)

どういうアルゴリズムか知らないが、You Tubeを開くと「架空請求の詐欺師に電話してみた」というお勧め動画が表示されるようになった。

携帯メールなどに、「アダルトコンテンツの利用料が未払いになっている」「すぐに支払わないと訴訟を起こす」などの督促状を大量に送信し、不安になって電話してきたひとからお金を振り込ませる、というのが架空請求詐欺の典型的な手口だ。

メールには連絡用の電話番号が記載されているから、電話すれば詐欺師が出てくる。そこで被害者の振りをしたネットユーザーが、詐欺師との会話をYou Tubeにアップするようになったのだ(しかし、いろんな面白いことを考えますね)。

実は私も何度か架空請求のメールを受け取ったことがあり、「電話してみようかな」と思うものの、なんだか面倒臭くてそのままにしていた。いまではそんな好奇心ですら、ネットが満たしてくれるのだ。

さっそく何本か聴いてみたのだが、話の展開はほとんど同じで、アダルトコンテンツの運営会社から債権回収を依頼されたと名乗る業者(たいていは若い男性)が、立て板に水の勢いで請求金額や料金の内訳、支払方法(近くの銀行のATMから振り込ませる)を説明する。請求額は相手の様子で決めるのだろうが、20~50万円という感じだ。

被害者を装って話を聞き終えると、こんどは反撃する番だ。「会社の住所はどこなのか」「アダルトサイトにアクセスした履歴を教えろ」などあれこれ質問し、返答に窮した相手が電話を切っても、また電話をかけてさらに問い詰める。そんなことを4、5回繰り返すと、相手もようやく自分が弄ばれていることに気づいて、「これからぶっ殺しに行くから待ってろ」などと豹変する(ここがいちばんの聴きどころだ)。

もちろん詐欺師が自ら姿を現わすはずもなく、最後は着信拒否されて終わるのだが、どれもなかなかの臨場感だ。

しかしそのなかで、こんなやり取りを見つけた。

「あなたのやってること、詐欺でしょ」

「はい、詐欺です」

「そんなことやっていいと思ってるのかよ」

「思ってません」

「謝れよ」

「はい、すみません」

高校中退でパチスロでスカウトされた、という若い詐欺師はあっさりと犯罪を認め、謝罪した。そのうえで、「こんなことして儲かるの?」と訊かれて正直にこう答える。

「世の中、あなたみたいな意地の悪いひとばかりじゃないんですよ。なかには100万、200万払うひともいるんです」

警察庁によれば、振り込め詐欺の被害件数は変わらないものの、被害金額は前年度から大幅に増加したという。無邪気な詐欺師の話を聞いていると、振り込め詐欺の根絶が難しい理由がよくわかる。

詐欺師たちは、架空請求が、数を集めれば必ず“当たりくじ”を引く確率のゲームだということを知っているのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.26:『日経ヴェリタス』2013年2月17日号掲載
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けっきょく、みんな損得で生きている 週刊プレイボーイ連載(87)

経済学においては、ひとの行動はインセンティブによって決まると考えます。インセンティブは「誘引」や「利潤動機」などと訳されますが、かんたんにいえば「得したい」とか「損したくない」という感情のことです。

インセンティブは、「ほめられたい」とか、「カノジョ(カレシ)から注目されたい」とか、日常生活のさまざまな場面で重要な役割を果たしますが、そのなかでも経済的なインセンティブは数値化が容易で、議論を数式で表わすことが可能になります。壮大なマクロ経済学の体系も、もとをただせば、「同じアイスクリームなら150円より148円の方がよく売れる」とか、「同じ仕事なら時給900円より910円の方がたくさん応募があるはずだ」というような、誰もが知っている経験則からつくられているのです。

ところで、世の中には経済学が大嫌いなひとがたくさんいて、「みんな損得だけで行動している」という前提(合理的経済人)が根底から間違っている、と批判します。

商売では、損を覚悟で安く売る、という“非合理的”な行動がしばしば見られます。しかし経済学では、こうした親切は「相手と長期的な関係を築くための合理的戦略」として“損得の体系”に組み込まれてしまいます。そのことが、道徳や正義といったたいせつな価値をないがしろにするように思えるのです。

もちろん私たちは、日々の決断(選択)のすべてを損得で行なっているわけではありません。しかしその一方で、「得したい(損したくない)」という気持ちが決め手となった決断もたくさんあるでしょう。だったら私たちは、どの程度、経済的に合理的なのでしょうか。

官民格差の是正を目的に、国家公務員の退職金が段階的に約15%引き下げられることが決まったことで、各地の自治体が地方公務員の退職金を減らす条例を制定しはじめました。ところが、条例の施行日が自治体ごとに異なっていることから、一部の都道府県では3月の年度末まで在籍すると退職金が150万円程度減額されることになり、公立学校の教員や警察官の駆け込み退職が急増して社会問題になりました。

2月1日に条例を施行した埼玉県では、100人以上の教員が教え子の卒業を待たずに早期退職することが明らかになり、文科相が「自己都合で早期に辞めるのは決して許されない」と述べ、「(担任の教師が)子どもよりお金を選ぶとは。信じたくない」という小学生の母親の言葉が新聞に掲載されたりしました。また愛知県警では、3月に定年退職予定の289人のうち署長を含む142人が2月末で早期退職の意向を示していて、業務への影響が心配されています。

地方公務員の退職金減額問題は巧まざる“社会実験”です。

教師は“聖職”とされ、警察官は「公共への奉仕」の象徴です。彼らはこれまで、誇りをもって公務員として働いてきたはずです。

そんな彼らが、「隣の県の公務員は満額の退職金を受け取れるのに、自分たちだけが損をする」というインセンティブにどのように反応したのかを見れば、結論は明らかでしょう。

「ひとは経済的な損得に基づいて合理的に行動する」という経済学は、たんなる空理空論ではなく、この社会で起きていることを上手に説明できるのです。

 『週刊プレイボーイ』2013年2月18日発売号
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