「現代のベートーベン」は自分マーケティングの天才 週刊プレイボーイ連載(135)

「現代のベートーベン」と呼ばれた全聾の人気作曲家が、すべての曲をゴーストライターにつくらせていたという驚愕の事実が日本じゅうに衝撃を与えました。

ネット上に掲載されていたプロフィールによれば、4歳から母親の厳格な英才教育でピアノを学び、5歳でソナチネを作曲し、小学校4年生でベートーベンを弾きこなす神童だったといいます。その後の人生も凄絶で、17歳で原因不明の聴覚障害を発症し、上京して作曲家を目指したが失職して路上生活者となり、ロック歌手としてデビューしたもののバンドは解散、道路清掃のアルバイトで生計を立てていたところ、33歳の時に映画音楽の仕事が舞い込んできます。この映画は「HIVに感染した少女が周囲の差別と偏見と戦いながら強く生きていく姿を綴った青春ドラマ」ということなので、聴覚障害の“自称”作曲家を起用することになったのでしょう。

ゴーストライターの証言によれば、この最初の作品から“偽装”が始まり、絶対音感を持つとされる本人がつくった曲は1曲もなく、ピアノは初歩的なものが弾けるだけで譜面すら書けないとのことです。打ち合わせではごくふつうに会話し、録音されたモチーフを聞いて曲づくりを指示したというのですから、全聾というのもウソなのでしょう。

もっとも有名な『交響曲1番』は「全盲の少女から霊感を得てつくられた」もので、自身が被爆二世だとして、平和への祈りをこめて「HIROSHIMA」と名づけられました。この“美談”をNHKが大きく取り上げて一躍有名になり、マスコミが祭り上げた結果、広島で行なわれた「G8サミット記念コンサート」で演奏され、広島市民賞を受賞します(事件によって取消し)。すべてが明らかになってから振り返れば、荒唐無稽な人生も、都合のよすぎる偶然も、典型的な虚言癖ということなのでしょう。

人並み以上の野心だけはある若者が社会の最底辺から抜け出し、スポットライトを浴びるために思いついたのは差別を利用することでした。彼にとって幸運(もしくは不運)だったのは、都合のいいゴーストライターと出会ったことでしょう。無名の現代音楽の作曲家がアルバイト感覚でつくった大衆受けするクラシックは、“障害”と“被爆者”という魔法の言葉によって「奇跡の大シンフォニー」へと変貌したのです。

5万円の懐石料理、50万円のブランドバッグ、500万円の高級時計というのは、原価からはあり得ない値段です。たんなる革製品にロゴがつくだけで値段が10倍になるのは、その背後にある物語(というか幻想)に付加価値があるからです。その物語は広く知られているので、ブランドを持つと周囲の評価が高まります。ひとびとがブランドを好むのは、お金で社会的な評判を買えるからです。

凡庸な楽曲を美談で飾り立てると名曲に変わるのもこれと同じです。消費社会では、モノではなく物語が消費されます。ほとんどのひとはクラシック音楽に興味があるわけではなく、手っ取り早く感動を手に入れたいのです。

「現代のベートーベン」は、“障害”や“被爆者”でマスコミを躍らせれば、音楽的な才能がなくても大きな成功を手に入れられることを実証しました。その意味で彼は、“自分マーケティング”の天才だったのです。

『週刊プレイボーイ』2014年2月10日発売号
禁・無断転載 

都知事選“泡沫候補”の声に耳を傾けてみたら  週刊プレイボーイ連載(134)

この原稿が掲載される時には新しい東京都知事が決まっているでしょうが、今回も“泡沫候補”と呼ばれるひとたちがたくさん出馬していました。世の中に訴えたい主張と強い信念を持ちながらもマスメディアから相手にされず、選挙活動以外に自らの真実を伝える方途はないと思いつめたひとたちで、都知事選はとりわけこうした候補者が多く集まることで知られています。“泡沫”とはいえ知事選の供託金は300万円で、それをドブに捨てる覚悟なのですから、その思いが真剣なのは間違いありません。

選挙公報をちゃんと読んでみると、“泡沫候補”が売名目的でデタラメばかりいっているわけではないことがわかります。

たとえば“スマイル”を旗印にする候補のマニュフェストには、「うつ病革命」として、副作用のある抗うつ剤の全面禁止と、抗うつ剤を多剤大量投与している悪徳精神科医の医師免許剥奪が掲げられています。

欧米や日本で、大手製薬会社が開発した新型抗うつ剤SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)の導入とともに、うつ病患者が激増するという奇妙な現象が確認されています。「製薬会社が利益率の高いSSRIを販売するために“うつ病を投薬で治す”というキャンペーンを展開し、それに精神科医が協力したからだ」と批判する専門家もいますから、これはけっして奇異な主張ではありません。

ただしこの候補者は、抗うつ剤に代わる「スマイルセラピー」への保険適用強化を訴えていて、これがどんなものなのかもうひとつわかりません。またホテル、レストラン、受付などの接客スタッフに「スマイルトレーニング」をし、それでもスマイルができないと接客ロボットに代えるという公約もあり、このあたりが“泡沫”と扱われる理由と思われます。

それ以外にも、「原発をいますぐ廃止して、LNGを燃料とするガスコンバイントサイクル発電所を増設せよ」とか、「日本とマレーシアの虹の架け橋になる」という公約を掲げて立候補したひとがいました。いずれも立派な主張ですが、都政とどうかかわるかが見えないと得票にはつながらないでしょう。

「直参旗本の家系で東京四百年在住」という発明家(この方は有名です)の「科学で渋滞を解消する」という提言や、「東京を『天国の首都』に」「トップガン政治」などのキャッチフレーズも気になりますが、今回いちばん目を引いたのは「新憲法で未来へのチャレンジ」という立候補の趣旨でした。

この候補者は現憲法を、敗戦という極限状況のなかで日本がGHQを通して連合国世界に最大限の譲歩をさせた「奇跡的な憲法」と高く評価し、「押しつけ」との批判を一蹴します。そのうえで、自衛隊の位置づけが曖昧なままでは米軍に依存せざるを得ないことと、政教分離の規定がある以上靖国問題が解決できないことを理由に、憲法の建設的な改正を説くのです。

同じく「憲法改正」掲げる“泡沫”でない候補者より、こちらの方がずっと説得力があるような気がします。あっ、このような比較をするのは〝泡沫〟に失礼かもしれませんが。

  『週刊プレイボーイ』2014年2月10日発売号
禁・無断転載

若者言葉はなぜ体育会化するのか?  週刊プレイボーイ連載(133)

「近頃の若い者は……」と説教するオヤジにはなりたくないのですが、それでも気になるのは「ありがとうございます」の多用です。近頃の若者は職場やバイト先で、上司からなにかいわれるたびに「ありがとうございます」とこたえているようです。

「そこはEXCELの集計機能を使えばいいよ」

「ありがとうございます」

「明日は早いから今日はこれで終わりにしましょう」

「ありがとうございます」

いずれも間違いとはいえませんが、もっとシンプルな返答があります。私たちの世代は(という言い方をしてしまいますが)、最初の例では「わかりました」、2番目の例では「そうですね」とこたえて、「ありがとうございます」とはいわなかったでしょう。

言葉は時代とともに変化しますが、「ありがとうございます」が若者のあいだでインフレ化するのは何を意味しているのでしょうか。

私がこの用法に違和感を持つのは、それが明らかに体育会言葉だからです。私が学生の頃も、運動部では顧問や先輩の叱責に、バカのひとつ覚えのように「ありがとうございます」と叫んでいました。「わかりました」や「そうですね」などといおうものなら、「タメ口きいてんじゃねえ」と鉄拳が飛んできたでしょう。もともとこれは、指導者と部員、先輩と後輩という上下関係(権力関係)を徹底させるための言葉遣いだったのです。

当時の体育会は、〝前近代的で遅れた社会集団〟とされていました。偏見もあるでしょうが、多数派の軟派な学生が「ありがとうございます」のような言い方を嫌ったのは、「あんなのといっしょにされたらカッコ悪い」と思っていたからです。親切にされてお礼をいうのは当然ですが、会社での業務上の連絡にまで「ありがとうございます」を連発するのでは、自分が劣位にあると認めているようなものです。

近代的な人間関係の原則は“ひとはみな平等”です。会社において上司が部下に命令するのは職階が高いからで、人格的に優れているからではありません。だからこそ欧米では、会社を離れれば上司と部下は対等だし、お互いにニックネームでタメ口をきくのです(建前の要素は多分にありますが)。

アメリカの会社で上司が先のようなことをいったら、「なるほど。クールですね」「超ラッキー!」というような会話になるでしょう。良くも悪くも、職場はかぎりなくカジュアル化、フラット化しています。

それに対してなぜか日本では、若者たちの言葉遣いが「体育会化」する一方です。「よろしかったでしょうか」などの現代口語と同様に、丁寧語や謙譲語が過剰になるのは人間関係でリスクを避けるための用法なのでしょう。「ありがとうございます」といわれて、怒り出すひとはいないからです。

それでも私は古い人間なので、「べつに礼をいわれるようなことはしてないよ」と思ってしまうのです。

 『週刊プレイボーイ』2014年2月3日発売号
禁・無断転載