特定秘密保護法案と自分勝手なひとたち 週刊プレイボーイ連載(128)

国家機密の漏洩に罰則を課す特定秘密保護法案が与党の強行採決で成立しました。これに対して法案に反対するひとたちは、国会周辺でデモを繰り返し、「恥を知れ」と叫んでいます。自民党の石破茂幹事長が、「(デモの)絶叫戦術はテロ行為と変わらない」とブログに書いたことで、絶叫はさらにヒートアップしてしまったようです。

この問題については左右両極からさまざまな主張がありますが、議論が紛糾するのは典型的なトレードオフ(こちらを立てればあちらが立たない関係)だからです。

近代国家は軍隊や警察などの暴力を独占していますから、その権力行使は市民に公開され、監視されなければなりません。これがデモクラシーの大原則である以上、不都合な情報を隠蔽する権利を国家に与えるのが矛盾であることはいうまでもありません。

その一方で、北朝鮮の核開発やミサイル発射実験、中国の防空識別圏設定など、日本が隣国と軍事的・外交的緊張関係にあることも明らかです。日本の安全保障が日米安保条約と在日米軍(核の傘)に依存している現実から目を背けることはできません。

安倍政権が特定秘密保護法案の成立を急いだのは、アメリカから「公務員が国家機密を漏らしても処罰されないのでは重要な軍事機密を共有できない」といわれたからです。先進国のほとんどは同様の法律を持っており、「安全保障にきわめて重要」との説明にも説得力があります。

こうした問題意識は政治家にも広く共有されていて、衆院では野党のみんなの党が法案に賛成し、維新が棄権という消極的賛成を選びました。参院は強行採決で紛糾しましたが、両党は法案に反対することなく退席しています。民主党も政権党時代、尖閣諸島中国漁船映像流出事件で秘密保護の法制化を訴えていますから、「絶対反対」は共産党などごく一部で、国会議員の9割ちかくが法案の必要性に同意していることになります。本来ならこれほど揉める話ではなかったはずです。

トレードオフの問題に絶対の正解はなく、よりマシな選択をしたうえで時間をかけて修正していくしかありません。法案がないのは秘密がないことではなく、これまで政治家や官僚が恣意的に情報を隠してきたのですから、曲がりなりにもルールができたことは一歩前進でしょう。あとは責任ある野党が、特定秘密の指定と情報公開について実現可能な対案を提示していけばいいのです。

石破幹事長のブログで批判されているのは、実は国会周辺のデモ隊ではなく、法案の共同修正に同意しながら日程を理由に衆院の採決を棄権した維新の会です。法案成立に責任を負う立場からすれば、日ごろは立派なことをいっていながら、いざとなったら火の粉をかぶるのを恐れて逃げ出すのは許し難かったのでしょう。

維新の会の石原慎太郎共同代表は、党首討論でメディアの批判を「被害妄想」「流言蜚語」と断じ法案に賛成しましたが、採決のときに所属議員は退席してしまいました。「愛国」を振りかざしながら世論に怯え、汚れ仕事はすべて政権に押しつける。こんな自分勝手なポピュリズムを目の当たりにしたら、思わずデモ隊に八つ当たりする気持ちもわからなくはありません。

『週刊プレイボーイ』2013年12月16日発売号
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「人間力」はうさんくさい 週刊プレイボーイ連載(127)

政府の教育再生実行会議が、知識偏重の大学入試をやめて「人間力」で生徒を選ぶべきだと提言しています。面接や論文、高校の推薦書、部活動やボランティアの活動歴などから21世紀の日本を担う“グローバル人材”を選抜し、育てていくのだそうです。

ところで「人間力」とはいったい何でしょう? これは下村博文文部科学大臣が簡潔に説明しています。

ひとつは、多様な価値観や人をまとめていくリーダーシップ力。二つめは、企画力や創造力などクリエイティブ能力、そして人間的な感性や優しさ、思いやりだといいます(11月22日付『朝日新聞』)。

素晴らしい提言のようですが、こういう耳障りのいい話は疑ってかかった方が間違いありません。

そもそも、試験官が生徒の「人間力」を主観的に判断して合否を決めるのは最悪の選抜方法です。これでは不合格の烙印が、学力ではなく全人格を否定された証拠になってしまいます。学科試験の成績がよかったのに落とされた生徒は、深く傷つき社会を恨むようになるでしょう。

それに対して点数での判定は、試験に落ちても「ヤマが外れた」「体調が悪かった」などいくらでも逃げ道が用意されています。あれこれ文句をいいながらもみんなが受け入れてきたのは、これがいちばん公平な選抜方法で人格を傷つけることがないからです。

日本の大学のいちばんの問題は教師や学生の流動性がきわめて低いことで、これは日本社会の特徴でもあります。偏差値の高い大学に入っても授業についていけない学生もいれば、「三流」と呼ばれる大学にも優秀な学生はいるでしょう。だったら、できの悪い学生は転学・転部させ、優秀な学生を転入させる仕組みがあればいいだけです。

それに加えて「世界」を目指す大学は、優れた教師をスカウトして無能な教師をリストラし、留学生にも広く門戸を開放して授業はすべて英語で行なうようにすべきです。そうすれば一流の教師の下に優秀な学生が集まるようになり、グローバルな大学ランキングでも順位は大きく上がるでしょう。

しかしこの話には、もっと本質的な問題が隠されています。

教育についての議論には、つねに過剰なまでの思い入れが込められています。今回の提言も「教育を変えれば日本が変わる」ことが前提になっていますが、学校教育にそれほど大きなちからがあるのでしょうか。

もちろん、子どもの行動は置かれた環境に大きく左右されます。だから子育てや教育が大事だといわれるのですが、じつはこれは子どもの人格形成にはほとんど関係ありません。なぜなら子どもたちは、大人の介入を徹底的に排除しようとしているからです。

親や教師がどれほど説教しても馬耳東風な子どもたちは、友だち同士の評判にはものすごく敏感です。子ども集団のなかで目立つキャラをつくることが、彼らの関心のすべてだからです。

いまの大人も、子ども時代は「大人はウザい」と思ってきたはずです。しかし年をとってエラくなると、そんなことはすっかり忘れて、自分たちが好きなように子どもの人格を操れると考えるようになるようです。

 『週刊プレイボーイ』2013年12月16日発売号
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“芸術”という腐った楽園 週刊プレイボーイ連載(126)

スクープは大きくふたつに分けられます。ひとつは、これまで一般に知られていなかった秘密を暴くもの。もうひとつは、誰もが当たり前だと思っていたことに対して、「それはルール違反だ」と指摘するものです。公募美術展「日展」の書道部門で、入選数を有力会派に事前分配していたという朝日新聞のスクープは後者の典型でしょう。

日本の美術界は芸術院会員を頂点とするピラミッド組織で、弟子は階級が上がるほど上納金が増え、「日展に入選するには審査員に心づけを渡し、作品を購入しなければならない」というのが常識でした。これは茶道などの家元制度を持ち込んだものでしょうが、「公募」をうたっていながら、有力会派に属していなければ入選できないというのでは、不正審査といわれても仕方ありません。報道を受けて日展は、日本画や洋画を含む全部門で最高賞の選考を中止することを決めました。

こうした問題が起きるのは、日展だけでなく日本の美術界そのものが歪んでいるからです。その根本的な原因は、「芸術」の社会的な地位が大きく低下したことでしょう――かんたんにいうと、芸術では食べていけなくなったのです。

芸術院会員というのは、その世界では神様のように扱われるようですが、名前を知っているひとはほとんどいないでしょう(私も知りません)。日本画や洋画の“大家”は、たくさんの肩書きを持っていても社会的には無名なのです。

その一方で、「芸術」に憧れるひとたちはいつの時代も一定数います。退職後に趣味で書を始めたひとは、せめていちどくらい日展に入選したいと思うでしょう。そして有力な会派に入り、審査員をしている“先生”の指導を受け、さまざまな名目で謝礼を払います。日展というのは、芸術では食べられなくなった芸術家の集金システムなのです。

こうした商売の仕組みは、美術学校も同じです。美大やその受験予備校は、芸術に憧れる生徒から高い授業料をとって、そのお金を仲間内で分配します。生徒の学費は、芸術に夢を託した親が払います。美術学校の教員が売っているのは“芸術という幻想”で、日本国内では一流とされる美大の教授でも世界の美術界ではまったくの無名です。

日本の美術業界のこうした構造を歯に衣着せずに批判したのが現代美術の村上隆氏で、「エセ左翼的で現実離れしたファンタジックな芸術論を語りあうだけで死んでいける腐った楽園」と形容しました(『芸術起業論』)。「芸術家とは芸術によってカネを稼げる人間のことだ」とする村上氏が、日本の美術界で嫌われるのも当然です。

日展は、「内閣総理大臣賞」のような国家の権威を利用して大規模なビジネスを行なってきました。師弟関係で部外者を排除し、受賞暦によって階級が上がっていくムラ社会にあるのは、仲間内の自己満足(マスターベーション)だけです。

開かれた世界(市場)との回路を閉じてタコツボ化した組織は、必然的に腐っていきます。その気になって探してみれば、あなたのまわりにも同じように「腐った楽園」がいくらでも見つかるでしょう。

 『週刊プレイボーイ』2013年12月2日発売号
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