書評『終身旅行者 PT』

『終身旅行者 PT』は、木村昭二さんの13年ぶりの書き下ろしです。私はこの本の帯も書いているので、これは書評というよりも友人の本の紹介です。

木村さんは1999年刊の『税金を払わない終身旅行者』で、日本にはじめてPTを紹介しました。このBLOGの読者なら知っていると思いますが、PT(永遠の旅行者)は1990年代に、アメリカ生まれの国際投資家W.G.ヒルが提唱したまったく新しい人生のスタイルです。ヒルは(アメリカを除く)ほとんどの国の税制が属地主義で、非居住者は原則として海外所得に対して課税されないことを利用して、居住者と見なされない範囲で複数の国に滞在することで合法的無税化が実現できることを発見したのです。

たとえばアメリカの場合、原則として1年間に183日以上、国内に滞在した者が居住者になりますから、ビザ免除で滞在できる180日以内の滞在であれば、非居住者として米国内に源泉を持たない所得に課税されることはありません。同様の規定は世界の多くの国で採用されており、理屈のうえでは、少なくとも3つの国を順番に移動すれば、どの国の居住者にもならず、どの国にも合法的に税金を納めなくてもいい立場が手に入ることになります。これが「終身旅行者Permanent Traveler」「永遠の旅行者Perpetual Traveler」と呼ばれるライフスタイルで、その頭文字をとってPTと呼ばれます(日本の税法は居住者か非居住者かを実態基準で判断するので、この例には当てはまりません)

もっともPTはあくまでも理念的なもので、現実的な人生設計よりも小説の方が似合います。世界にはタックスヘイヴンと呼ばれる国や地域があって、そこでは居住者であっても海外所得に課税されることはないので、4カ月ごとにせわしなく移動するよりも香港やシンガポール(あるいはモナコやチャンネル諸島)に住んだ方がずっと簡単だからです(日本の税法では、住所を持たないPTは非居住者と見なされない恐れもあります)。

それでも、木村さんの『税金を払わない終身旅行者』が与えたインパクトは大きなものがありました。それまで、ほとんどの日本人は生涯をこの島国で暮らし、そうでなければ「国を捨てて」移民することしか思いつきませんでした。そこに世界を旅しつつ、課税負担を最適化しながら人生を楽しむ軽やかな生き方の可能性を示したからです(最近ではこうしたライフスタイルは“ノマド”と呼ばれています)。

それから13年後に書かれた本書のテーマは「リスク」です。東日本大震災と福島第一原発の事故を経て、私たちは「日本というリスク」から目を逸らすことができなくなりました(このことについては、ここで書いています)。

誤解のないように述べておくと、これは日本が世界のなかでとりわけリスクの高い国だということではありません。私たち日本人は、(人的資本を含む)ほとんどの資産(資本)を日本国に預けているので、ひとたび国家のリスクが顕在化すると人生設計が土台から崩壊してしまうのです。

半世紀前なら(20年前でも)、こうした国家のリスクは天変地異のような「しかたのないもの」と観念されていたでしょう。だがいまでは金融資産は国境を越えて瞬時に移動し、法人登記を海外に移すことも自由です。留学や海外での就職も当たり前になり、新興国を中心に退職者が安価に居住権を所得できるプログラム(リタイアメントビザ)も増えました。そうした新しい「人生設計のテクノロジー」を使いこなせれば、日本というリスクにヘッジ(保険)をかけることが可能になったのです。

本書には、日本人が日本というリスクに備えてなにをすべきかが詳細に書かれています。もちろんいますぐにPTを実現できるひとは多くはないでしょう。しかし“その時”が来たら、生き延びるためのどのような選択肢が残されているのかを考えておくことは重要です。

日本というリスクを「分散」させて自分や家族を守る方法は、すでに欧米のプライベートバンク(PB)が盛んに日本の超富裕層に売り込んでいます。オフショア法人やオフショア信託などの“タックススキーム”の営業を受けている方たちも、本書を一読しておけば、オフショアを活用するメリットとリスクについてPBの営業担当者よりも詳しくなれるでしょう。

なお、本書を購入するか、Amazonにレビュー書いたひとには、新興国(フロンティア国)やモナコについての著者特製のプレミアムレポートがプレゼントされるということです。

私たちのエゴが原発を止める 週刊プレイボーイ連載(66)

コップのなかに水が半分入っています。これを、「水が半分も入っている」と書くか、「まだ半分しか入っていない」と表現するかで印象は大きく異なります。

将来の原子力発電の比率をめぐる世論調査でも、同じことがいえます。原発に批判的なメディアは「原発ゼロの支持最多」と書き、電力供給の安定を求める経済界の立場を反映するメディアは「原発を容認する意見が半数」と報じます。

世論調査の結果を評価する際には、サンプルの偏りも問題になります。政府の行なった討論型世論調査では、日本の平均と比べて男性の比率が多く、30代以下の若者層が少ないことがわかっています。意見聴取会やパブリックコメントでは「原発ゼロ」が圧倒的多数を占めますが、これはそもそも「反原発」の意思表示をしたいひとが集まるのですから、それを「世論」とするのは間違いです。

2030年時点の原発比率についてメディアが行なった世論調査では、「ゼロ」がおよそ4割、「15%」が3割、「20~25%」が2割となっています。脱原発派が国民の最多数であることは間違いありませんが、原発を容認するひとも半数おり、まさに国論を二分していることがわかります。

ところで、こうした意見の分かれる問題を投票による多数決で決めようとすると、中庸(真ん中)が選ばれることが知られています。原発なしでは日本経済は成り立たないと主張するひとにとっては、「ゼロ」よりは「15%」の方がまだマシでしょう。脱原発を理想としつつも、20年後に全廃するのは非現実的だから、徐々に減らしていくほかはないと考えるひともいるはずです。こうして先進国の民主政治では、原発だけでなくほとんどの社会問題で、どっちつかずの平凡な政策が採用されるのです。

もっともこれは、一概に否定すべきことではありません。政治も人生と同じで、極端な選択よりも中庸の方がよい結果をもたらすことが多いからです。しかしその一方で、「日本を原発立国にすべきだ」(さすがにもういないでしょう)とか、「原発即時全廃」(こちらはたくさんいます)とかの“正論”を信じるひとたちは、凡庸な政府に激しく反発し、社会は不安定化していきます。

原発を止めるためには、世論調査で9割を超えるような圧倒的多数が必要です。現状のような半々のままなら、「中位投票者定理」によって、原発漸減(遠い将来に原発ゼロにする)が落としどころになるでしょう。

それでは、脱原発は不可能なのでしょうか。

世論調査は日本国の原発政策を問うもので、自分の町に原発が来ることを容認するかどうか聞いているわけではありません。原発施設は老朽化していきますから、発電量を維持するには新設や増設が不可避です。しかしいまでは、福井の原発ひとつを再稼動させるために、大阪や滋賀など隣接地域の同意まで必要となりました。その混乱を目の当たりにして、近い将来、原発建設を再開できると考える政治家はいないでしょう。

世論調査の結果がどうであれ、「ポストフクシマ」の日本は脱原発の道を歩むしかありません。毎週金曜日に首相官邸を取り囲む反原発デモの市民団体ではなく、自分の近くに迷惑施設がつくられるのは絶対に嫌だという私たちのエゴが、原発を止めるのです。

PS:政府は9月14日、2030年代に原発稼動ゼロを目指す方針を決めましたが、原発の再稼動や使用済み核燃料の再処理事業の継続も明記されているため、けっきょくはここで述べたどっちつかずの中庸でしかありません。

 『週刊プレイボーイ』2012年9月10日発売号
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