貧乏くじを引くのはいつもまっとうに生きている多数派  週刊プレイボーイ連載(147)

オバマ大統領との首脳会談を受け、安倍総理はTPP(環太平洋経済連携協定)の早期妥結を指示しましたが日米協議は合意に至りませんでした。貿易自由化で既得権を奪われるひとたちが自民党の支持基盤になっているためでしょう。

その一方で、日本とオーストラリアのEPA(経済連携協定)では牛肉の関税を38.5%から23.5%に引き下げることが決まりました。これによってオーストラリア産牛肉も安くなるでしょうから、消費者にとっては朗報です。
ところが不思議なことに、「得する」ネタが大好きなはずの新聞やテレビは、「関税引き下げで家計が楽になる」とか、「TPPで米国産牛肉も安くしよう」などとはいっさいいわず、「畜産農家の経営への影響」を懸念しています。TPP問題では、多数派(消費者)のメリットはできるだけ小さく報じ、少数派(農家)の被害を強調するのが“正しい報道”とされているようです。

もっともこれは特別なことではなく、同じような現象はあちこちで見られます。

日本では、賃貸住宅を借りるときに保証人を要求されるという悪弊がいつまでたっても改まりません。家賃を保証できるのは収入のある親かきょうだいで、年をとると保証人が見つけられなくなり、この不安が無理をしてマイホームを購入する理由のひとつになっています。

ところが、“リベラル”と呼ばれるひとたちはこの問題を取り上げるのに消極的です。なぜかというと、保証人制度を廃止すると彼らにとって都合の悪いことが起きるからです。

不動産を貸して生計を立てている家主たちは、家賃滞納者のブラックリスト化をずっと求めていますが、リベラルなメディアや団体の猛反対にあって頓挫しています。家賃を払えないのは止むに止まれぬ事情があるからで、ブラックリストに載せれば家を借りられなくなってしまう。貧乏人をホームレスにするような制度は許されない、というわけです。

貸金業では常習的な滞納者をブラックリストで排除できますが、不動産業ではそれができません。いったん悪質な借家人に居座られると大損害ですから、責任を負ってくれる保証人を求めざるを得ない、というのが家主の主張です。

こうしてリベラル派は二律背反を突きつけられます。

保証人制度を批判すると、家賃滞納者のブラックリストを受け入れなくてはなりません。ブラックリストを阻止しようと思えば、保証人制度を容認するしかなくなります。

リベラルとは、常に少数者の側に立って社会問題を解決しようとする政治的態度です。家賃を滞納するのはごく一部で、彼らが「社会的弱者」だとすると、その権利を守るためには、ちゃんと家賃を払っている大多数の借家人が不利益を被っても仕方がない、ということになります。

関税をかければ小売価格が上がりますから、“税金”を払うのは一般の消費者です。家賃滞納者を保護すれば、困るのは家主ではなく健全な借家人です。どちらもちょっと考えればわかることですが、リベラル派も(TPPに反対する)保守派もこうした議論をぜったいに受け入れません。自分たちが“正義の側”に立てなくなってしまうからでしょう。

こうして日本では、まっとうに生きている多数派がいつも貧乏くじを引くことになるのです。

『週刊プレイボーイ』2014年5月19日発売号
禁・無断転載

金融業界の不都合な真実をすべてのひとに

『臆病者のための億万長者入門』から、「はじめに 金融業界の不都合な真実をすべてのひとに」をアップします。

********************************************************************

「将棋のプロはいるけど宝くじのプロがいないのはなぜか?」前著『臆病者のための株入門』では、最初にこの問題を考えてみた。

プロとは、才能と努力によって素人には到達できない高みにまで達したひとのことだ。1カ月前に将棋を習い始めた素人が羽生善治三冠に勝つことはぜったいににあり得ない。なぜこういい切れるかというと、プロと素人のちからの差はとてつもなく大きいからだ。

それに対して宝くじにプロがいないのは、それが確率のゲームだからだ。過去に何度も当たりくじの出た売り場で買うひとは多いが、これはたんにたくさんのくじを売っているだけで統計学的にはなんの根拠もない。純粋な確率のゲームに必勝法はなく、そこにプロの居場所はない。

それでは、“金融のプロ”とはいったい何だろう?

ここで誰もが思い浮かべるのが、160万円を元手に株式投資を始め、5年間で100億円を超える資産を築いた20代の個人投資家だ。報道によればこの男性は、大学時代に株式トレードに興味を持つようになったものの、株価収益率(PER)とか株価純資産倍率(PBR)などの株式投資に必須とされる知識にはなんの興味もなく、売買している会社がなにをしているのかもよく知らないという。

金融の世界で「投資のプロ」と呼ばれるのはファンドマネージャーで、彼らは投資家から資金を預かり、最先端の金融知識を駆使して運用している(ことになっている)。その成績はインデックス(株式市場の平均)をどれだけ上回ったかで評価され、5年にわたって年率10%で運用できれば“辣腕”などと呼ばれてあちこちのマネー雑誌に登場する。

それに対して、株式投資の基礎知識がまったくないこの若者の運用利回りは年率900%(!)だ。個人投資家とファンドマネージャーでは条件が異なるとはいうものの、運用成績がこれほど桁ちがいだとどんな言い訳も通用しない。金融の世界では、ど素人が名人や三冠を完膚なきまでに叩きのめすことができるのだ。

この単純な事実は、株式投資が将棋よりも宝くじにずっと近いことを教えてくれる。それは必勝法のない確率のゲーム、すなわちギャンブルなのだ。

私はこれをきわめて単純明快な話だと思うのだが、不思議なことに同じようなことを述べるひとはほとんどいない。

どんな業界にも、「それをいったらおしまいだよ」ということがある。ある程度の年齢になれば誰でも学ぶことだろうが、「不都合な真実」を言い立てるひとはいつのまにか排除されて消えていく。これは陰謀とかそういう話ではなく、たんにやっかいだったり、つき合いたくなかったりするからだ。

本書でこれから述べるのは、金融業界では誰もが当たり前だと思っていながら、暗黙のうちに「それはいわないことにしておこう」と決めていることだ。「株式投資はギャンブルだ」というのもそのひとつで、私は一介の文筆家で業界とはなんのかかわりもないから好き勝手なことが書けるのだ。

私が金融市場に興味を持ったのは30代半ばで、タックスヘイヴン(租税回避地)と呼ばれる国や地域を中心に銀行口座や証券口座を開設し、株式や債券投資だけでなく、シカゴの先物市場でデリバティブ(先物やオプション)取引もやってみた。本書ではそんな体験をもとに、「資産運用の常識」をシンプルな論理で解説してみたい。それはあなたが漠然と思っている(あるいは「金融のプロ」から聞いている)“常識”とはまったく違うかも知れないが、ちゃんと読んでもらえば、「論理的に考えればそうなるほかはない」と納得していただけるはずだ。

リタイアしたあとに資産のすべてを失ってしまったら、もはや生きていく術はない。金融市場のなかで、個人はもっともリスク耐性の低い投資家だ。そう考えれば、個人の資産運用は保守的であるべきだ。

資産運用は金儲けの手段ではなく、人生における経済的なリスクを管理するためにある。そんな「臆病者の投資家」にとって、資産運用でもっとも大切なのは目先の利益ではなく、将来の予期せぬ経済的な変動から自分や家族の生活を守ることにあるはずだ。

あなたがそんなことを考えているのなら、必要なことはここにすべて書いてある。

埼玉スタジアムではなぜ人種差別の権利がないのか?週刊プレイボーイ連載(146)

サッカーJ1の人気クラブ浦和レッズは、一部のサポーターが「ジャパニーズ・オンリー」という横断幕をスタジアム内に掲げたことでJリーグから無観客試合の制裁を受け、クラブ側は当該サポーターを無期限入場禁止にすると同時に、ホーム、アウエーを問わず、すべての横断幕やゲートフラッグの掲出を禁止しました。

サッカーの本場であるヨーロッパではアフリカ出身の選手に対する人種差別的行為があとを絶たず、FIFA(国際サッカー連盟)は傘下のクラブに人種差別撲滅のための断固たる行動を求めています。今回の処分はクラブにとってきわめて厳しいものですが、浦和レッズのサポーターグループ11団体が「当事者としての責任を認識」して自主的に解散するなど、批判や反発の声はほとんど聞こえてきません。Jリーグには家族連れの観客も多く、子どもに不快な横断幕を見せたいひとはいないでしょうから、これはファンやサポーターの良識でしょう。

その一方で、東京・新大久保や大阪・鶴橋のコリアンタウンでは「死ね」「殺せ」などと連呼するヘイトスピーチが止まず、「支那・朝鮮抜きの大東亜共栄圏」を目指す団体はナチスドイツのハーケンクロイツ(カギ十字)を掲げたデモを行なっています。ゲルマン民族の人種的優越を理由に、ナチスドイツは600万人ものユダヤ人を強制収容所などで殺戮しましたから、その旗を公然と掲げるのは人種差別行為そのものです。

埼玉スタジアムでは「ジャパニーズ・オンリー」という横断幕だけでクラブもサポーターも厳しい制裁を受けました。それに対して新大久保や鶴橋でははるかに露骨な人種差別行為が容認されているばかりか、彼らはメディアに対しても堂々と自分たちの正当性を主張しています。

なぜこのようなダブルスタンダードが起きるのでしょうか。

それは、浦和レッズが興行主となる埼玉スタジアムは私的空間で、新大久保や鶴橋は公共空間だからです。私的空間には所有者(管理者)がおり、利用者は一定の規則に従わなければなりません。一方、公共空間は日本国憲法によって結社と言論・表現の自由が保障されているので、どのような政治的主張も認められるのです。

私的空間では、その所有者は自分(たち)の利益を最大化しようとしています。ほとんどのひとは、こうした利己的な場所よりも「公共」のほうが素晴らしいと問答無用に決めつけますが、これは本当でしょうか。

もちろんここで、言論・表現の自由を制限すべきだ、といいたいわけではありません。

自由を原理主義的に擁護するリバタリアニズムでは、「公共」の名の下に国家が私的空間に介入するからこそ、こうした問題が起こるのだと考えます。その解決方法は簡単で、すべての公共空間を民営化してしまえばいいのです。

株式会社新大久保や鶴橋株式会社であれば、浦和レッズが埼玉スタジアムを管理するのと同様に、ヘイトスピーチや人種差別を合法的に排除できます。これは言論の抑圧ではなく私的所有権の行使で、政治的主張をしたいひとはそれ以外の場所で自由に活動することが許されています。

たったこれだけで、憲法を遵守しつつ不愉快なヘイトスピーチをなくすことができます――残念なことに実現可能性はないでしょうが。

『週刊プレイボーイ』2014年5月12日発売号
禁・無断転載