【書評】ウェブとはすなわち現実世界の未来図である

『ウェブとはすなわち現実世界の未来図である』の著者・小林弘人さんとは、小林さんが『 ワイアード日本版』の編集長だった頃からのつき合いだ。本書の制作にかかわった深沢英次さんは『 ワイアード日本版』のテクニカル・ディレクターで、WEBサイトの責任者も兼務していた。深沢さんとはたまたま家が近所だということもあり、このブログのデザインと管理をお願いしている。そのことを最初に断わったうえで、小林さんの新刊を紹介したい。

著者はこれまで『フリー』『シェア』でインターネット時代の新しいビジネスモデルを紹介してきたが、本書のテーマは「社会はウェブをコピーする」というものだ。なぜそうなるかというと、ウェブとはテクノロジーやシステムのことではなく、人間と人間とをつなぐネットワークだからだ。著者はこれをヒューマン・ファースト(人間中心主義)と呼ぶ。

私の理解では、このことは次のように説明できる。

社会というのはヒトとヒトとのネットワークの集合体で、マルクスのいうように、人間の本質は、その現実性においては「社会的諸関係の総体」のことだ。このように考えると、社会がウェブをコピーする理由がよくわかる。

ウェブは社会から隔離されたものではなく、ウェブのネットワークをつくるのは社会の構成員と同じ人間だ。だが仮想空間であるウェブは、現実社会よりもネットワークに対する規制がゆるい(敷居が低い)。このことによってウェブでは、ネットワークの持つ可能性が拡張されると同時に、人間の欲望がより直接的に現われる。近代的な個人の人生の目的は誰かとつながること(ネットワークの拡張)と欲望の実現なのだから、ウェブで可能なことを現実社会でも再現しようとするのは当然だ。このことによって、ウェブは現実世界の未来図になる。

こうした魅力的なパースペクティヴのもとに、本書ではいま現在、ウェブの世界で起きている膨大なイノベーション(の萌芽)が紹介されていく。私はそのすべてを理解できるわけではないし、適任でもないから、具体的なことは本を読んでいただくしかないが、ここではいくつか感じたことをまとめておきたい(あくまでも個人的な感想で、著者の意図とは異なるかもしれない)。

(1)イノベーションはけっきょくシリコンバレーでしか起こらない

本書で紹介されるイノベーションの事例は、GoogleやFacebookを中心に、シリコンバレーのベンチャー企業によるものがほとんどだ。それに対して日本での成功事例は、「くまモン」のような地域活性化や、ネットの口コミからブームを起こした「あまちゃん」などにとどまっている。

これは、「日本はダメでアメリカはスゴい」という話ではない。ヨーロッパはもちろん、中国やロシアなど多くの国でシリコンバレーに対抗するベンチャービジネスの拠点をつくろうとしたが、ひとつとして成功したところはない。これは、シリコンバレー(アメリカ西海岸)という場所が特別だからだ。

「集合知」のパフォーマンスを最大限に発揮するには、質の高い多様な意見が自由に交換されなければならない。移民社会のアメリカには、異なる文化や宗教、価値観を持つ人々がが世界じゅうからやってくる。彼らのなかできわめて知的能力の高いひとたちがシリコンバレーに集まり、収益の最大化という共通の目標の下に、法外な自由と最先端の環境を与えられて共同作業を行なう。そこから、世界を変えるようなイノベーションが次々と生まれるのだ。

こうした環境を日本でつくるのは不可能だから、今後も日本企業から真のイノベーションが生まれることはないだろう。経済産業省は「国産検索」の名目で日本企業に補助金を出し、Googleに対抗しようとしたが、この悪い冗談が象徴するように彼我の差はあまりにも大きい。日本企業が生き残る道はシリコンバレーの企業の裏方に徹するか、彼らのイノベーションを応用して日本市場に適合させることしかないのではなかろうか。

(2)日本企業のマネジメントはこの20年間、まったく変わらなかった

ITコンサルタントとして多くの日本企業と接してきた著者は、本書で「上司説得型マーケティング」の弊害を説く。日本の会社では、社員は市場や消費者に対してマーケティングするのではなく、上司が納得するビジネスプランを出すことに汲々としているのだ。

もちろんこのことは1990年代からいわれ続けてきたから、新味がないと感じるかもしれない。しかし真に驚くべきことは、20年前の現状分析がいまもそのまま通用することだ。「このままではダメだ」といいつつ、この20年間、日本企業のマネジメントはなにも変わらなかった。

いまでもほとんどの会社で、取締役会は「日本人」「男性」「高齢者」という属性で構成されている。社員の多くは「日系日本人」で、同じような大学を卒業し、入社年次によってグループ化されている。多様性とはまったく逆の日本企業のこうした体質が「上司説得型マーケティング」を生み出す元凶で、改革をはばんでいるのはそんな会社をアイデンティティとする社員自身(とりわけ高学歴の男性)だ。

90年代末のITバブルのとき、なにかの会合で話をした大手電機メーカーの若手社員から「社内ベンチャー」の名刺を出されて驚いたことがある。社員をシリコンバレーの大学に留学させ、会社の一部門としてベンチャービジネスを興すのだという。彼はそのことになんの疑問も持っておらず、「アメリカではベンチャーは個人がやりますが、日本では会社が主体になるんですよ」と得々と説明した。ちなみにその電機メーカは10年後には経営危機に陥り、主力部門を中国企業に売却して消滅した。

(3)会社を変えるよりも、個人が変わる方が効率がいい

本書には日本の会社を「ウェブの未来」に適応させるための提案がまとめられている。「新しい「希少」を探せ」「違うもの同士をくっつけろ」「検索できないものを見つけよう」などどれも魅力的なものだが、いざ自分の会社で実行しようとすると途方に暮れるのではないだろうか。

大きな会社に勤めているひとはみんな知っていると思うが、組織を変えるのはほんとうに大変だ。それはこれまでのやり方で成功してきたひとが社内の中心にいて、既得権を形成しているからだ。

日本の会社ではサラリーマンの代表が社長になるから、社員の既得権を奪うことができない。日本の会社で成功しているのは創業社長のワンマン企業ばかりで、サラリーマン社長に代わるとたちまち失速する。日本的なガバナンスでは、「創造的破壊」は独裁からしか生まれないのだ。

著者の提案は会社だけでなく、個人の事業にもそのまま使えるものばかりだ。そう考えると、会社を「ウェブの未来」に適応させるよりも、個人が変わった方がよほど効率がいい。

インターネットではGoogleやAmazonのような先端企業がインフラを提供し、多様な市場参加者がそこに商品やサービスなどのコンテンツを流通させる。このような市場が成熟すれば、国籍の違いはもちろん、会社と個人の差もなくなっていくだろう。

こうした未来では、会社にしばられたサラリーマンが「幸福」や「成功」を実感できる機会はますます減っていく。それに対して、新しいトレンドを上手に活用できた個人が「成功者」と呼ばれるようになっていくのだろう。

(4)ウェブが現実世界の未来図なら、よりよい社会をデザインすることも可能なのではないか

ウェブの世界では、「正しいデザインによって参加者を合理的に(あるいは道徳的に)振る舞わせることができる」と考えられている。これが著者のいう「評価経済」「評判社会」で、参加者は利己的な動機から、高い評判を獲得しようと利他的に行動する。

ウェブが現実世界の未来図であれば、ウェブで成功したデザインを実社会に転用することで、よりよい社会をつくることができる。これが“サイバー・リバタリアニズム”や“パターナリスティック(おせっかいな)リバタリアン”と呼ばれる新たなエリート主義(知的貴族制)だ。

著者はもちろんその可能性(と問題点)に気づいているだろうが、本書での提言はビジネスにとどまっている。著者の該博な知識をもって、次はウェブが政治や社会をどのように変えていくのかも論じてほしい。

第40回 「国に頼らぬ通貨」壁厚く(橘玲の世界は損得勘定)

仮想通貨ビットコインの取引所マウントゴックスの経営破綻が大きな社会問題になっている。“世界を変える画期的なイノベーション”と期待していたひとがたくさんいたからだ。

ビットコインの前身にあたるのが、90年代半ばに登場したイーゴールドだ。ここではふたつの仮想通貨を比較して、今回のトラブルを考えてみたい。

通貨は信用を担保に発行される。商品と引き換えに見知らぬひとからお金を受け取るのは、そのお金と引き換えに見知らぬ誰かが商品を売ってくれると信じているからだ。

かつては金貨や銀貨が通貨として使われ、安全上の理由から金との交換券である紙幣が流通するようになり、現在では国家の信用力が通貨の担保になっている。私たちが1万円札という紙切れに価値があると思うのは、日本国がその価値を保証しているからだ。

「国家に頼らない通貨」を構想するなら、その信用をなんらかの方法で利用者に納得させなければならない。

イーゴールドはこの問題を、発行額と同等の金塊を保有することで解決しようとした。いわば現代の兌換紙幣で、利用者はインターネット上でバーチャルな金貨を購入するが、最終的には、それはイーゴールド社が保有している(はずの)金と交換できるのだ。

だがこの場合は、通貨を発行するイーゴールド社の信用が問題になる。会社が倒産してしまえば、仮想通貨は煙のように消えうせてしまうのだ。

ビットコインは、テツシ・ナカモトなる人物の論文に基づき、通貨の発行や決済を不特定多数のユーザーが行なうことで、民間会社が中央銀行のように振る舞う問題を解決した。決済は銀行を介さず当事者同士で完結し、マイナー(採掘者)と呼ばれるユーザーが高度な演算問題を解き、公開帳簿(ブロックチェーン)にその取引を追加すると報酬が支払われる。報酬目当てのマイナーが帳簿に履歴を積み上げるごとに新たな通貨が供給され、同時に複製に必要な計算量が大きくなって偽造が不可能になる。

金のような裏づけのないビットコインの信用は、通貨の発行を厳しく制限し希少性を担保する仕組みにある。特定の組織に頼らずオープンソースで通貨を発行するという独創が、この仮想通貨の新しさなのだろう。

今回の事件の真相はまだ明らかになっていないが、マウントゴックスの社長は、不正アクセスにより85万ビットコイン(470億円相当)と現金28億円が失われたと説明した。内部犯行説も根強いようだが、取引所に銀行業務や信託業務などすべての機能が集中しながらも、いかなる法律や規制にもしばられていないことを考えれば、こうしたトラブルもじゅうぶん予想できた。

これが深刻な事態なのはいうまでもないが、ビットコインの仕組みそのものが破綻したわけではないから、通貨としての信用はまだ守られている。

イーゴールドは9.11同時多発テロでテロ資金に関与した換金業者が摘発され、廃れていった。今後、ビットコインが信用を回復しようとすれば国家と法による管理を受け入れるほかないだろう。それによって「自由な通貨」の魅力は損なわれてしまうかもしれないが。

 橘玲の世界は損得勘定 Vol.40:『日経ヴェリタス』2014年3月9日号掲載
禁・無断転載 

集団的自衛権より大事な問題 週刊プレイボーイ連載(138)

集団的自衛権の行使容認をめぐって、安倍首相が憲法解釈の変更を示唆したことが議論を呼んでいます。これは憲法9条改正につながるきわめてやっかいな問題ですが、できるだけシンプルに考えてみましょう。

現憲法の条文やその成立過程を見れば、「戦争放棄」「戦力不保持」「交戦権否認」を定めた9条が、戦勝国であるアメリカが敗戦国である日本に科した懲罰規定であることは明白です。ナチスドイツを生んだ反省から、第二次世界大戦では戦後処理の方針が大きく変わり、敗戦国を植民地化したり、苛酷な賠償を取り立てることが抑制されました。その代わり「平和主義」の美名の下に、二度と戦争を起こせないよう戦力を剥奪する罰が加えられたのです。これはいわば、不平等条約のようなものです。

ところがその後、中国の共産化と朝鮮戦争によって日本を取り巻く国際情勢が大きく変わります。アメリカにとって、ソ連・中国という共産勢力を抑止するため日本に再軍備を促すことが国益になったのです。

国の自衛権まで憲法で放棄してしまえば、敵が攻めてきてもなんの抵抗もできず降伏するしかありませんから、これが非常識な規定であることはいうまでもありません。本来であればこのとき〝不平等条約〟を改正し、憲法で自衛軍を定める「ふつうの国」になっていればなんの問題もなかったのでしょう。

しかし当時の日本は国民の大多数が平和憲法を支持しており、9条改正や再軍備を言い出せる状況ではありませんでした。そこで自衛隊という、軍隊でありながら軍法を持たない奇妙な組織がつくられたのです。

戦前の歴史を振り返ってみれば、破滅へと至る最大の原因が、軍の統帥権(最高指揮権)を内閣から切り離し、天皇の下に置いたことにあるのは明らかです。だからこそ軍は「統帥権の独立」を建前に内閣の決定を無視し、各自の権益を追求して泥沼の戦争に突き進んでいったのです。

そのような歴史の反省を踏まえれば、戦後日本の最大の課題は、軍という巨大な暴力装置を厳重なシビリアンコントロールの下の置くこと以外にありません。それは軍を、国土と市民を守るための組織として憲法に規定し、その権限と活動の範囲を法によって定め、内閣の決定に服従させることです。ここまでは文民統制のごく当たり前の定義で、右派、左派を問わず異論はないでしょう。

ところが日本の「リベラル」と呼ばれるひとたちは、憲法9条を教条的に解釈し、自衛隊の存在そのものを違憲とすることで、軍の民主的な統制という重大な課題からずっと目を背けてきました。いまだに日本には、有事の際に自衛隊の行動を規定する法律すら整備されていないのです。

問題の本質は集団的自衛権の行使以前に、軍を統制する民主的な手続きの欠落にあります。これはきわめて危険な状態で、本来であれば保守派に先んじて、リベラル派こそが軍を法の支配の下に置くことを主張しなければなりませんでした。

安倍政権の登場は、戦後70年間、彼らが空理空論を弄んできたことの当然の報いなのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2014年3月10日発売号
禁・無断転載