テレビはバカに娯楽を提供するメディア

最新刊、『バカが多いのには理由がある』から「はじめに」を掲載します。

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ずいぶん昔の話ですが、仕事の企画で民放テレビのディレクターに会いにいったことがあります。彼は30代後半で、視聴率の高いワイドショーを担当し、業界ではやり手として知られていました。

「僕の話なんか聞いたって仕方ないですよ」

開口一番、彼はそういいました。

「昼間っからテレビを見ている視聴者って、どういうひとかわかりますか? まともな人間は仕事をしているからテレビの前になんかいません。暇な主婦とか、やることのない老人とか、失業者とか、要するに真っ当じゃないひとたちが僕らのお客さんなんです。彼らをひとことでいうと、バカです。僕らはバカを喜ばせるためにくだらない番組を毎日つくっているんですよ。あなたの役に立つ話ができるわけないでしょ」

彼はテレビ局のエリート社員ですから、この偽悪ぶった言い方がどこまで本音かはわかりません。私が驚いたのは、その言葉の背後にある底知れぬニヒリズムです。

彼によれば世の中の人間の大半はバカで、1000万人単位の視聴者を相手にするテレビ(マスコミ)の役割はバカに娯楽を提供することです。その一方で、テレビは影響力が大きすぎるので失敗が許されません。そこでテレビ局はジャーナリズムを放棄し、新聞や週刊誌のゴシップ記事をネタ元にして、お笑い芸人やアイドルなどを使って面白おかしく仕立てることに専念します。これだと後で批判されても自分たちに直接の責任はないわけですから、番組内でアナウンサーに謝らせればすむのです。

「バカだって暇つぶしをする権利はあるでしょ」彼はいいました。「それに、スポンサーはバカからお金を巻き上げないとビジネスになりませんしね」

いまではこうしたニヒリズムがメディア全体を覆ってしまったようです。嫌韓・反中の記事ばかりが溢れるのは、それが正しいと思っているのではなく、売れるからです。ライバルが過激な見出しをつければ、それに対抗してより過激な記事をつくらなければなりません。

近代の啓蒙主義者は、「バカは教育によって治るはずだ」と考えました。しかし問題は、どれほど教育してもバカは減らない、ということにあります。

だとしたらそこには、なにか根源的な理由があるはずです。

『バカが多いのには理由がある』(集英社)

『バカが多いのには理由がある』発売のお知らせ

こんにちは。

集英社から単行本『バカが多いのには理由がある』が発売されます。Amazonではすでに予約が始まっています。発売日は26日ですが、都内の大手書店では明日には店頭に並ぶところもあるようです。

『週刊プレイボーイ』の連載をまとめた単行本の2冊目で、前作『不愉快なことには理由がある』と同様、長いプロローグとエピローグを加えています(プロローグの「私たちはみんなバカである」は書き下ろしです)。

このブログを訪れていただいている方には既読の記事も多いと思いますが、本書のプロローグをお読みいただければ、私がなぜこのような奇妙な主張をするのか、その背景がご理解いただけると思います。

書店で見かけたら手にとっていただければ幸いです。

「新しい統治」ではなく「正しい統治」があるだけ 週刊プレイボーイ連載(151)

日本維新の会が国政選挙に乗り出した2012年10月、「地方の支店長が社長に命令する組織」というコラムを書きました。維新の会は「日本の統治を立て直す」と主張しますが、党首である橋下徹氏が首相を目指さないのでは国政政党として体をなさないのでは、と疑問に思ったのです。

当時、橋下大阪市長はまだTwitterをやっていて、「自分の政党の統治すらできない人物に国家の統治などできるはずはない」という拙文に対し、「(これからやろうとしている)新しい統治がわかっていない」というツイートをもらいました。それからどんな改革があるのかずっと楽しみにしていたのですが、1年半の迷走の末に共同代表だった石原慎太郎氏と袂を分かち、維新の会は元の姿に戻ってしまいました。今後は結いの党と合流するのでしょうが、このままでは誰が代表になるのかという問題がまた出てきそうです。

橋下市長のいちばんの魅力は、ネオリベを前面に押し立てて暴力的に地方政府に改革を迫ったことです。

ネオリベラルの思想は、リベラルな福祉国家への批判として1960年代のアメリカで生まれました。経済学者のミルトン・フリードマンは、ケインズ型の福祉国家は有権者への歯止めのないばらまきを招き、いずれ破綻すると批判しました。橋下市長は2008年1月に大阪府知事に当選しますが、その当時の大阪は非効率な行政、破綻寸前の財政、既得権にしがみつく公務員など、まさにネオリベが描いた「腐敗し、肥大化した(地方)政府」そのものでした。

ネオリベの思想は一朝一夕につくられたのではなく、半世紀に及ぶリベラル派との熾烈な論争のなかで経済学者(その多くがノーベル賞受賞者)を中心に鍛え上げられてきたものです。このグローバル思想で武装した橋下市長は、当時、140文字のTwitterであらゆる批判を叩きのめす無敵の政治家でした。右往左往する公務員相手の勧善懲悪の見世物に観衆が熱狂したのも当然です。

ところが橋下市長はその後、ネオリベの思想とはまったく関係のない領域に踏み込みます。それが13年5月の従軍慰安婦発言で、沖縄米軍司令官に「もっと風俗を活用してほしい」と進言したことでアメリカを巻き込んだ国際問題になりました。ネオリベは功利主義と経済合理性によって制度改革を目指す政治思想で、外交や軍事、歴史問題は対象外ですから、これは橋下市長独自の考えが表に出たものでしょう。

太陽の党との合流や石原代表との共同統治も、ネオリベ的な統治理論からはあり得ない話です。橋下市長が大阪を離れるわけにはいかないという事情からの窮余の策でしょうが、その結果、誰が統治しているのかわからない組織ができあがってしまいました。

「これまでにない」というのは、ほとんどの場合、試したひとが誰ひとり成功しなかったということです。この教訓からわかるのは、「考えるべきことはすでに誰かが考えている」という単純な事実です。橋下市長であれ誰であれ、「まったく新しい」ものを生み出すことなどもはや不可能で、自分だけの特別な考えを実行しようとすれば失敗するのが当然なのです。

今後、橋下市長は大阪の改革に専念するようですが、それならなぜ国政に進出したのかと思うのは私だけではないでしょう。

「新しい統治」などどこにもなく、「正しい統治」があるだけなのです。

『週刊プレイボーイ』2014年6月16日発売号
禁・無断転載