日銀の金融緩和がデフレ不況を生み出した【書評】

自民党の大勝と安倍政権へのリフレ+円安期待で株価が大きく上昇している。このまま景気が回復すれば素晴らしいことだが、「そんなウマい話がほんとうにあるのか?」と疑問に思うひともいるだろう。デフレ脱却がそんなにかんたんなら、民主党政権はもちろん、小泉政権や第一次安倍政権のときにさっさとやっておけばよかったからだ。

もちろん、「金融緩和どころか金融引き締めをした日銀がぜんぶ悪い」という意見があることは知っている。これに対しては、「日銀がいくら金融緩和してもデフレからは脱却できない」とういう有力な反論があって、すでに10年以上にわたって激しい論争が続いている。

そこで、経済学者・吉本佳生氏の『日本経済の奇妙な常識』を紹介したい。吉本氏はここで、「日銀が金融緩和(ゼロ金利政策)をしたから日本経済はデフレ不況に陥った」と述べている。

吉本氏は、日本経済(と世界経済)のターニングポイントは1998年にあるという。その論旨の骨格部分を、同書に掲載されている図版をもとに説明してみよう。

上図は、資源の国際価格と日本の消費者物価を時系列で比較したものだ。これを見るとわかるように、98年までは資源価格は安定し、日本の物価はわずかずつであるが一貫して上昇していた。ところが98年を基点に(とりわけ02年以降)、資源価格が急速に上がったにもかかわらず、消費者物価は逆に下落している。

この関係は通常、「資源価格の上昇にもかかわらず日本ではデフレが続いた」と説明される。しかし吉本氏は、「資源価格が上昇したからこそ日本経済はデフレになった」のだという。この資源価格を高騰させた元凶(のひとつ)が、日銀の金融緩和(ゼロ金利)政策だ。

ところで98年には、アメリカ経済にも大きな変化が起こった。好調な景気を受けて、財政収支が黒字に転じたのだ。

バブル崩壊後、日本政府は大規模な公共投資と低金利政策によって景気を刺激しようと苦闘してきた。しかし開放経済では、低金利の日本円は国内の投資に向かわず、外貨に両替されて海外資産の購入に使われた。いわゆる円キャリートレードだ。

とはいえ、日本の銀行から引き出された円資金は、海外の株式市場や債券市場、不動産市場に満遍なく投資されたわけではない。投資家の大半は、円とドルの金利差から、低利の円を借りて高利の米国債を購入した。

ところがアメリカが財政赤字から黒字に転じたことで、市場にはじゅうぶんな米国債が供給されなくなってしまった(財政黒字なら、新規国債を発行してファイナンスする必要がない)。そのため投機マネーは行き場を失い、米国の株式市場に流れ込んでインターネットバブルを起こし、その後は商品(コモディティ)市場で資源・エネルギーや農産物などの価格を高騰させた。

ところで、資源価格が上昇すれば、その分だけ消費者物価は上昇するはずだ。

日本は「貿易立国」といわれるが、輸入依存度はきわめて低く、09年までの20年間の平均で10%程度しかない。国内経済の10%を占める輸入品の物価が平均して50%上昇しても、国内物価への影響は5%だ(50%×10%)。このように資源価格の上昇がそのまま消費者物価に反映されるわけではないが、それでも国内物価にインフレ圧力が加わっているにもかかわらず、経済全体としてデフレになるのはなにか特別な理由があるはずだ。

この関係を数値で表わしたのが下表だ。

1990~98年までは、国際商品指数が26.7%下落し(①)、それにともなって輸入物価も7.1%下がった(②)。輸入依存度(③)は8.2%だから、国内物価へはマイナス0.6%のデフレ圧力が加わったことになる(④)。しかしそれにもかかわらず、国内物価はこの9年間で6.2%上昇した(⑤)。すなわち、輸入物価が下落したにもかかわらず、国内経済の自律的な要因で6.8%の物価上昇が起きたことになる(⑥)。

ところが98~08年は、輸入物価が26.9%上昇し(②)、国内物価に3.3%のインフレ圧力を加えたにもかかわらず(④)、実際には国内物価は14.5%も下落した(⑤)。このことから、なんからの国内経済の要因が17.7%も物価を押し下げたことがわかる(⑥)。

吉本氏は、その謎の「要因」とは、中小の製造業やサービス業が資源価格の高騰を価格に転嫁できず、賃金を削ったことだという。その結果、90年代後半から、消費者物価の下落以上に賃金が下落し、実質的に生活が貧しくなってしまった。

企業が輸入物価の上昇分を価格に転嫁できなかったのは、バブル崩壊(と生産年齢人口の減少)で国内市場が収縮していたからだろううが、そのことによって実質的な生活水準を押し下げ、さらに市場が縮小してデフレを加速させてしまったのだ。

これにともなって、経済格差が拡大していく。

上図は日本人男性の経済格差の推移を「見える化」したもので、25歳から5歳刻みで年収の分布を示している。山が鋭角であれば格差は小さく、平坦になればなるほど格差が大きくなっていく。

右のA図は、1958~62年生まれのひとの年収分布だ。現在50歳から54歳のひとたちの人生を振り返ると、25歳から39歳まではほとんど格差は拡大していないが、40歳の時に大幅に中間層が減り、低所得者と高所得者が増え、年収格差が急激に拡大した。

B図は1963~67年生まれのひとたち(現在45~49歳)で、同じような格差拡大の衝撃が30代半ばで起きている。

ところで、1958年生まれのひとが40歳になるのは1998年、1963年生まれが35歳になるのも1998年だ。この図は、1998年が日本経済のターニングポイントで、実質賃金が下落したことで中間層が大打撃を受け、デフレ不況の負のスパイラルに落ち込んでいったことを明瞭に示している。

このようなロジックで吉本氏は、「日銀が膨張させたマネーがめぐりめぐって日本経済をデフレ不況に突き落とした」と結論する。

それでは、この不況を終わらせるためにはどうすればいいのだろうか?

吉本氏は、不況の本質が「賃金デフレ」である以上、金融緩和は無意味で、サービス業を中心に賃金を上げるしかないという。これはもちろん、政策的に最低賃金を引き上げるというようなことではなく、市場経済のなかで企業が値上げによって利潤を拡大できる環境をつくることだ。

この困難な課題についても吉本氏は「復興連動債」という独創的な提言をしているが、私にはそれをうまく解説する自信がない。興味のある方は、『日本経済の奇妙な常識』『禁欲と強欲』(阪本俊生氏との共著)をお読みください。

日本はいつまで“アジアの先進国”でいられるのだろう? 週刊プレイボーイ連載(79)

インドネシアは赤道をまたいで1万8000もの島々に2億3000万人以上のひとびとが暮らす海洋国家で、公用語はインドネシア語ですが、およそ300もの民族が600ちかい言語を使っています。15世紀までは中国とインドの中継貿易で栄え、無数の王国が興亡を繰り返してきましたが、16世紀にオランダに征服され、それ以来300年間の植民地支配に苦しむことになります。

インドネシア独立は第二次世界大戦後の1949年で、歴史も文化も異なるひとたちが、オランダとの独立戦争をたたかったという経験だけでヴァーチャルな国民(想像の共同体)を生み出しました。とはいえ、多民族社会が近代国家としてのまとまりを維持するためには軍政に頼るしかなく、1968年から30年間、元陸軍司令官のスハルトによる独裁が続きます。

1997年のアジア通貨危機はインドネシアを直撃し、通貨ルピアは暴落し、翌年には激しいインフレが全国で大規模な暴動を引き起こしてスハルト政権は崩壊します。このときは専門家すらも、インドネシアは収拾のつかない混乱のなかでばらばらに解体してしまうだろうと予想しました。

ところがその後、インドネシアの政治は大きく生まれ変わります。危機から6年後の2004年、史上初の大統領直接選挙でユドヨノが当選し、市民によって選ばれた指導者が国を率いる民主国家として再出発することになったのです。

ユドヨノは陸軍士官学校を主席で卒業した秀才で、アメリカの大学に留学してMBA(経営学修士)を取得した後、軍内の改革派として頭角を現わし、スハルトの退陣に尽力したことで入閣を果たします。大統領に就任してからは、北スマトラ島アチェの独立闘争を和平に導いて、国民の大きな支持を獲得しました。

ユドヨノの統治期間中(2009年に再選されたため、その統治は2014年まで続く)に、インドネシアは市場主義的改革によって年率6%を超える安定した経済成長を達成しました。このとき側近としてユドヨノを支えたのが、欧米の大学で経済学博士号を取得した経済テクノクラートたちです。とりわけスリ・ムルヤニは、スマトラ島沖大地震・津波の救援活動に陣頭指揮をとり、燃料費大幅値上げに伴う貧困世帯への補償金支給の混乱を収拾するなど、卓越した行政手腕で4年半にわたって大蔵大臣を務め、イギリスの経済誌によって「アジア新興国最高の財務大臣」に選ばれました。

ムルヤニは1962年生まれで、ユドヨノ政権に入閣した時は42歳でした。米イリノイ大学で財政学を専攻し、博士号を取得した女性です。日本では、財務省や経産省の大臣はもちろん、経済官僚ですら経済学の博士号などほとんど持っていません。

私たちはこれまでずっと、アメリカやイギリスのデモクラシーを仰ぎ見ながら、日本の政治を批判したり絶望したりしてきました。アジアの、それもインドネシアの政治など、前近代的な独裁制の変種として一顧だにしてきませんでした。

しかし、日本などよりはるかに困難な条件から、内乱や紛争を起こさずに短期間で民主化と経済成長を成し遂げたインドネシアのエリートたちを見ていると、日本はいつまで“アジアの先進国”でいられるのか、一抹の不安を覚えずにはいられないのです。

 参考文献:佐藤百合『経済大国インドネシア』

『週刊プレイボーイ』2012年12月10日発売号
禁・無断転載

総選挙雑感

すでにあちこちで書かれているだろうが、今回の選挙結果について感じたことをまとめておきたい。

民主党の大敗は、政権交代さえすればすべてが変わるという信念(というか妄想)のもとにパンとサーカスのマニュフェストをばらまいたツケだから仕方ないだろう。約束したパンもサーカスも与えられなければ、観客が怒り出すのは当然だ。

いまから振り返れば、最初の2人があまりにもヒドすぎた。パンとサーカスのひとたちが党を出て行ってからはすこしマシになったが、野田氏がなにをしても手遅れなのは明らかだった。

自民党の一方的な勝利は、小泉郵政選挙や前回の「政権交代」選挙と同じで、小選挙区制の制度的特徴だ。注目すべきは、今回の選挙で議会の構成が圧倒的な与党と複数の少数野党に変わったことだ。小選挙区制は制度上、二大政党制に誘導するよう設計されているから、これはきわめて不安定だ。

次の衆院選はおそらくは4年後で、自民党には党を割る理由はないから、二大政党制をつくるにはそれ以外の野党がひとつにまとまるほかはないが、これはきわめて難しいだろう。対抗政党が生まれなければ、小選挙区制の下でも自民党を中心とした一党支配が継続することになる。あるいは、今回の結果は有権者がそのような消去法での安定を望んだということなのかもしれない。

民主党に期待したいのは、数を目的とした中途半端な連携や共闘に走ることなく、逆風下の選挙に勝ち残ったメンバーを中心に、明確な理念を掲げつつもリアリズムに基づく、政権担当能力のある政党を育てていくことだ。それができれば、いずれまた機会はめぐってくるだろう。

私は、日本の抱える問題は構造的なもので、その多くは先進国に共通しており、政治のちからで劇的な成果を実現するのは不可能だと考えている(小さな改善を積み重ねて社会をよりよくしていくことなら政治にもできるだろう)。経済(デフレ対策)にしても、社会保障(年金と医療)にしても、安全保障(領土問題)にしても、政権が変わっても政策の選択肢はほとんどない。

自民党は、民主党の大失敗を見ているから、今回の選挙で「改革」を強調するようなことはなかったが、だからといって現状維持ができるわけもなく、早晩、既得権の配分をめぐる混乱が始まることになる。もっとも、今回の低投票率でわかるように、ひとびとはそのことを理解したうえで過剰な期待を抱くことをあきらめたのかもしれないが。

それでも安倍氏は、選挙戦でいくつかの“約束”をしている。そのひとつが「デフレ脱却」だ。

民主党が壊滅的な敗北を喫したのは、国民にあまりにも多くの“約束”をして、なにひとつ実現できなかったからだ。安倍氏はそれを目の当たりにしているから、どんなことをしてでも自らの数少ない“約束”を実現しようとするだろう。

もしそれができなければ、こんどは自分が「ウソつき」と批判されることになる。プライドの高い安倍氏にとって、これはとうてい耐えられないにちがいない。

私は、日銀が金融緩和すれば人工的にインフレにできるとは思わないが、周知のように、これについては経済学者のなかにも激しい議論の応酬がある。この不毛な罵り合いも、おそらくは安倍政権が終わらせることになるだろう。

もちろん、安倍氏のいうように、2%程度のマイルドなインフレと円安によって「強い経済」が戻ってくるのならこれほど素晴らしいことはない。だが私は生来懐疑的なので、その“約束”が失敗したときのことも考えおこうと思う。