第47回 40年ぶり超円安の行く先 (橘玲の世界は損得勘定)

日銀の追加金融緩和や原油価格の下落を材料に円が売られ、7年4カ月ぶりに1ドル=120円台の円安になった。この為替の変動を「アベノミスクの成果」と誇る声もあれば、「輸入品の価格が上がって生活が苦しくなった」との批判もある。

こんなときいつも不満に思うのは、「円安(円高)とはなにか」という基本的な説明が欠けていることだ。そう思っていたら、12月7日付の日経新聞朝刊に「円の『実力』40年で最低」という記事が掲載された。実質実効レート(円の「実力」)でみれば、いまの円安水準は1973年当時の1ドル=300円台に相当するのだという。

本来であれば、「7年4カ月」よりもこちらの「40年」の方が強調されなくてはならない。通貨の価値はインフレ率によって変わるから、名目レートを比較してもたいした意味はない。

世界市場が統合された現在、本来なら通貨もひとつ(「グローブ」とか)で充分なのだが、近代世界では通貨発行権は国家の主権(神から与えられた権利)とされているので、(ユーロのような共通通貨を除けば)国の数だけ通貨があるというやっかいなことになっている。これでは貿易などの国際取引に支障が出るので、為替市場で通貨ごとの交換比率を日々決めている。

このように考えると、「通貨の価値は物価で決まる」ことがわかる。同じiPhoneが日本で3万円、アメリカで4万円相当で売られていたら、日本で買ってアメリカで売ることで無リスクで儲けようとする投機家が殺到する。こうした裁定取引によって、不合理な交換比率が調整されるのだ。

この調整には原理的にふたつの方法しかない――通貨が高くなるか(円高)、商品自体の価格が上がるか(インフレ)だ。ここから、「デフレで物価が下落すると円高になる」という単純な法則が導き出せる。これを「購買力平価説」というが、実証研究でも長期的には成立することがわかっている。

インフレになれば金利は上がるから、為替と金利の関係も同様に考えることができる。

「低金利の通貨が売られ、高金利の通貨が買われる」のは当たり前のようだが、よく考えるとおかしい。通貨を売買するには反対取引の相手が必要だ。彼らはなぜ、「高金利の通貨を売って低金利の通貨を買う」というバカなことをするのだろうか。

市場参加者が非合理的でないとするなら、説明はひとつしかない。それは購買力平価説によって、金利の低い通貨は長期的には上昇すると予想しているからだ。これは、「デフレ(低金利)で通貨が上昇する」のと同じ理屈で、日本が超低金利になってから円高基調が続いたことも説明できる。

だとしたら、「40年ぶりの」超円安は何を意味しているのだろうか。その答えはもうおわかりだろう。
市場の歪みは、円高かインフレ(金利上昇)のいずれかによって解消されるしかない。「市場原理」がどちらの側に振れるかを知るには、それほど長い時間は必要ないはずだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.47:『日経ヴェリタス』2014年12月28日号掲載
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”進歩的”似非リベラルからまっとうなリベラルへ 週刊プレイボーイ連載(177)

安倍政権の特徴は好き嫌いがはっきり分かれることでしょう。「保守」「愛国」というイデオロギーを前面に押し出しているからで、自民党の福田政権や麻生政権、民主党の野田政権のような“無味無臭”とはかなり異なります。

欧米諸国もそうですが、イデオロギー対立が激しくなるのは、政党が政策で差をつけるのが難しくなったからです。消費税増税も、TPPへの参加も、原発再稼働も、安倍政権の進める政策の多くは民主党政権が決めたことです。日本は1000兆円を超える巨額な借金(これは歴代の自民党政権がつくったものです)によって政策の選択肢がほとんどなくなっているので、誰がやっても同じようなことにしかできないのです。

今回の衆院選で野党は「アベノミクスの失敗」を攻撃しましたが、「2年で2%のインフレにして強い日本経済を“取り戻す”」のが公約だとすると、その結果が明らかになるのは来年で、「失敗する前に選挙をやってしまう」自民党の作戦勝ちになるのは当然です。あとは集団的自衛権や憲法改正で安倍政権の「本性」と暴くしかありませんが、これは有権者の関心が高くなくほとんど効果がありませんでした。

日本はアメリカやイギリスのような二大政党制を目指して小選挙区制を導入しましたが、このままでは当分、政権交代は起こりそうもありません。いちばんの原因は民主党の失敗ですが、それに変わる野党が出てこないことも事実です。なぜ日本では「健全な二大政党」にならないのでしょうか。

共産主義の実験が壮大な失敗に終わったいま、社会の構成原理は自己決定権を持つ市民による「民主政」「法治」「自由な市場」しかなくなりました(中国ですら理念的にはこれに反対していません)。これを「歴史の終わり」と呼ぶかどうかは別として、政治の世界から大きな対立はなくなり、残っているのは「(ささやかな)伝統」を大事にするか、「(ささやかな)理想」を目指すかの違いです。これが「保守」と「リベラル」の対立ですが、日本の場合、自民党のなかにこの両派が混在し、野党においては、いまだに「革命」を綱領に掲げる政党がリベラル勢力の代表のように振る舞っている、という異常な状況が続いています。

その責任は、保守的な自由主義者を「オールドリベラル」と骨董品のように扱い、揶揄中傷してきた「進歩的」なメディアや知識人にあります。彼らは「マルクス」「革命」「共産主義」という言葉に過剰な憧れを持ち、ソ連や中国、北朝鮮の評価を一貫して間違え、北朝鮮の拉致問題を無視し、従軍慰安婦をめぐる誤報を放置してきました。こうした知的退廃の結果、いまでは「保守派は正しくリベラルは間違っている」という話になってしまったのです。

いま日本に必要とされているのは、進歩的なリベラルではなく、まっとうなリベラルです。保守派の正論に対抗するには、集団的自衛権を認め、自衛隊を軍(国家の暴力装置)として憲法に明記したうえで、法による徹底した管理(シビリアンコントロール)を行なうことや、「日本的雇用」という差別制度を改め、同一労働同一賃金や定年制廃止を法定化するなど、「世界標準」の政策を掲げるリベラル政党が出てこなくてはなりません。

「一強多弱」になるのは、弱い側に問題があるからです。選挙結果が気に入らないからといって、駄々っ子のような大人気ない態度はいい加減にやめた方がいいでしょう。

『週刊プレイボーイ』2014年12月24日発売号
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