『橘玲の中国私論』が発売されました

こんにちは。

ダイヤモンド社より『橘玲の中国私論』が発売されました。都内や地方の主要書店には今週末から並び始めると思います。Amazonでも予約が始まりました。

橘玲の中国私論

ここ数年、中国を旅するたびにとてつもない建築ラッシュにびっくりさせられました。いまではその多くが、“鬼城”と呼ばれるゴーストタウン(廃墟)と化しています。

なぜこんなことになってしまうのか? という疑問から始めて、中国と中国人について考えてみたのがこの本です。

「日本」という国が誕生した7世紀から、中国という巨大な隣人は日本人にとって、つねに脅威であると同時に驚きでした。そしてこれからも、さまざまな意味で中国は私たちを驚かすことになるでしょう。

「中国という大問題」の本質はなにか? 本書ではこの問いに、(おそらく)世界で最高水準にある現代日本の中国研究の成果をもとに、きわめてシンプルな結論を導き出しています。それは、「政治や経済、社会問題など中国で起きている大半の出来事は、“ひとが多すぎる”ということから説明できる」というものです。

もちろん私は中国の専門家ではありませんから、これは一旅行者の私的見解(私論)に過ぎません。それでも、歴史認識の齟齬などで日中関係が戦後最悪といわれるなか、本書が「中国に驚く」きっかけになれば幸いです。

日本から飛行機でわずか数時間のところにこんな面白い世界があるのに、旅行者が減っているのはほんとうにもったいないことです。どれほど拒絶しても、地政学的にも、地経学的にも、日本は中国の影響から逃れることはできません。

日本でも中国でも、「正義」の名のもとに相手を一方的に批判するひとがたくさんいます。ひとはみな、自分の見たいものしか見ないし、自分の理解したいものしか理解しないのだから、どちらの歴史認識が正しいのかを議論することに意味はありません(歴史家に任せておけばいいことです)。

いま必要とされているのは、お互いに相手を知り、驚き、楽しむことではないでしょうか。

橘 玲

国家に母性愛を求めるのは気持ち悪い 週刊プレイボーイ連載(184)

以前のコラムで「自己責任は自由の原理」だと書きました。自己責任論を否定するあまり、「国家には国民の生命を守る義務がある」といいたてると、国家は国民の自由を制限するにちがいない、と述べたのですが、案の定、シリアへの渡航を計画していたフリーカメラマンに対し外務省がパスポートの返納命令を出す事態になりました。

この問題で不思議なのは、日ごろは「報道の自由」という錦の御旗を振りかざすマスメディアが妙に腰が引けていて、「国家権力の弾圧」を半ば容認していることです。

その理由のひとつは、マスメディアの“フリー”に対する蔑視でしょう。大企業の正社員である新聞やテレビの“ジャーナリスト”は、自分たちの権利が侵されるときには大騒ぎしますが、有象無象のフリーランスの「報道の自由」などどうなっても構わないと思っているのかもしれません。「報道」を独占するには、ヘンな人間が横からしゃしゃり出てくるのは邪魔なだけなのです。

もうひとつの理由は、憲法に定められた「言論・出版の自由」の侵害だと外務省を批判すると、「カメラマンがテロリストに拘束されたらどうするのか」という疑問にこたえなければならないからでしょう。いくら本人が「自己責任」だといったとしても、国家はどんなことをしても国民の生命を守らなければならないのですから、日本政府はまたテロリストとのあいだで右往左往しなければなりません。

17世紀の啓蒙思想家ジョン・ロックは、市民社会の基礎は国家と市民とのあいだの社会契約であるとしました。契約である以上、そこに「無条件」はあり得ません。国家というリヴァイアサンに無限の責任を求めれば、国民は国家に対して無限の義務を負うことになるとロックは気づいていました。

戦前の日本人は国家(天皇)に生命を捧げることを求められましたが、敗戦から70年たっても日本人はいまだにその失敗を理解できず、国家に対してマターナル(母性愛的)な庇護と愛情を求めているようです。首相もそれにこたえて、「日本人にはこれから先、指一本触れさせない」と大見得を切ってしまいます。これでは、「国家という母親」の愛情を受け入れない人間が非国民として断罪され、自由に対する配慮が放棄されるのも当然です。

この不毛な議論から抜け出すには、「国家の市民に対する義務は契約の範囲でしか履行されない」と認めることが必要です。シリアで取材することはいかなる国内法にも抵触しないのですから、本人の自由です。万が一テロリストに拘束されても、政府にできることはほとんどないと国民が了解していれば、国家も過剰な期待に振り回されることはなく「報道の自由」も守られるでしょう。

外務省の強硬な措置に対し、「アメリカでは旅券返納の議論はない」との指摘もありましたが、米国政府はテロリストと交渉せず、ジャーナリストは人質になれば見捨てられる(武力による救出以外の選択肢はない)ことを知ったうえで取材に行くのですから、これは当たり前です。

それとも日本のジャーナリズムは、国家の母性愛によって自分たちが守られるのが当然だと思っているのでしょうか――そんな気がしないでもないところが不気味です。

『週刊プレイボーイ』2015年2月23日発売号
禁・無断転載

第48回 「スイスの魔法」が消えた必然性 (橘玲の世界は損得勘定)

外国為替市場では1月15日、スイスフランが1日で前日比30%も高騰する“大事件”が起きた。円に例えれば1ドル=120円が翌日には1ドル=84円になるのだから、そのインパクトは想像を絶する。

スイス国立銀行は2011年、スイスフラン高に対抗して、外為市場で無制限にスイスフランを売りユーロを買う「上限制」を導入した。14年12月にはさらに、政策金利をマイナスにする“異次元”の金融政策にまで踏み込んだ。一連の措置は、理不尽な通貨高から自国経済を守るためだと説明された。

為替レートを固定したまま金利をマイナスまで引き下げると、いったい何が起きるのだろう。

前回は、「為替水準は各国の購買力(インフレ率)を同じにするように決まる」という話をした。この購買力平価説ではデフレの通貨は高くなり、インフレの通貨は安くなるが、これは為替が国境を越えたモノやサービスの交換比率であることを考えれば当たり前の話だ。

これと同じ理屈で、異なる通貨で金利に大きな開きがあると、低金利の通貨は値上がりし、高金利の通貨は値下がりする――この説明を聞いて、逆じゃないかと思ったひともいるだろう。金利を上げると「高金利預金」を求める投資家が殺到し、為替は上昇するとされているからだ。

もちろん、短期的には為替がこのような動きをすることはよくある。しかしこの状態がいつまでも続くと、ものすごくヘンなことが起こる。ここではその理由をマイナス金利で説明してみよう。

銀行がスイスフランをマイナス1%で調達できるなら、住宅ローン金利を0%にしてもじゅうぶん儲かる。このときユーロ建てのローン金利が3%なら、誰もそんな割の悪い条件でローンを組もうとは思わないだろう。

「外貨建てローンには為替リスクがある」との指摘もあるだろうが、スイスフランは中央銀行が為替レートの堅持を約束していた。経済学ではフリーランチ(ただ飯)はあり得ないが、ここでは「為替リスクなしに、ゼロ金利でマイホームが買える」“魔法”が成立している。

スイス中銀が今後もずっと為替介入を続けたなら、いずれはユーロ建てのすべての資金調達がスイスフランに置き換わることになる。こう考えれば、マイナス金利のまま為替レートを固定する、などという金融政策が維持できるはずはなかったのだ。

「長期的には、為替水準は異なる通貨の実質金利を同じにするように決まる」という考え方を「金利平衡説」と呼ぶ。スイスフランの高騰は、はからずも理論の正しさを証明した。

ギリシアや東欧の銀行は、マイナス金利のスイスフラン建て住宅ローンを大量に販売してきた。だが“ゼロ金利”でローンを組んだひとたちは、いまやユーロ安(スイスフラン高)で返済額が3割も増えてしまった。

彼らの家計が破綻すれば、金融機関は巨額の不良債権を抱え込むことになる。「ウマい話」はやはりどこにもなく、欧州はまたひとつ金融危機の火種を抱え込んだようだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.48:『日経ヴェリタス』2015年2月15日号掲載
禁・無断転載