「英雄」たちの時代が終わって、歴史はどんどんつまらくなった 週刊プレイボーイ連載(190)

リー・クアンユー元シンガポール首相が91歳で生涯を終えました。これで、アジアの「英雄の時代」が完全に幕を下ろしました。

明治維新によって近代国家への道を踏み出した日本に対して、アジアの国々は(タイを除けば)ずっと植民地か半植民地でした。第二次世界大戦が終わってようやく民族自決の権利が認められ、独立が可能になったのです。

毛沢東、蒋介石、ガンジー、スカルノ、金日成、ホー・チ・ミンなど、毀誉褒貶はあるでしょうが、この時期に「建国の英雄」たちが続々と現われました。中国や韓国・朝鮮は日本より長い歴史を持っていますが、近代国家になってからは70年しか経っていない“若い”国なのです――これが、日本と近隣諸国との「ナショナリズム」が食いちがう理由のひとつでしょう。

そのなかでも東南アジアは、政治的な理由から建国が遅れました。インドネシアがオランダから独立を果たしたのが1949年、シンガポールがマレーシアから分離したのが1965年、米軍がベトナムから撤退して南北が統一されたのが1976年です。こうした建国神話の主役のなかでもリー・クアンユーは際立って若く、シンガポール独立のときはまだ41歳でした。

31歳で人民行動党を創設したリーは、35歳でイギリス統治下の自治政府の初代首相となり、独立とともにマレーシアと合併します。しかし多数派のマレー人とゆたかな華人との対立が激しくなり、大規模な民族暴動が起きたことから、シンガポールはマレーシアから追放されてしまいます。「建国」は、リーが望んだものではありませんでした。

シンガポールはマレー半島の先端にある小さな島で、水やエネルギー、食糧などすべてをマレーシアに依存していました。これから国民が耐えなくてはならない多くの苦難を思って、「独立宣言」のときにリーが涙を流したことはよく知られています。

豆粒のような国が生き延びるために、リーは国民を厳しく叱咤しました。なにひとつ資源がないのですから、頼るべきは国民の創意工夫しかありません。こうして英語を公用語とし、教育を重視し、汚職や犯罪に厳罰を科す独特の国づくりが始まったのです。

シンガポール経済は軽工業と観光業からスタートし、その後、タックスヘイヴン政策によって香港と並ぶアジアの金融センターとして発展したことで、一人あたりGDPでは日本(3万8468ドル)を大きく上回る5万5182ドルと、アジアでもっともゆたかな国になりました(世界8位/2013年)。

リーの政治哲学は、賢人が大衆を率いる中国の伝統的な士大夫主義で、その成功が中国の改革開放政策のモデルとなりました。表現の自由が制限されているなどの批判もありますが、国連の「世界幸福度報告」でもアジア最高の30位で、日本(43位)よりずっと「幸福」な国です。

植民地主義は過去のものとなり、アジアの建国の時代も終わりました。私たちはもう二度とリーのような「英雄」を見ることはなく、歴史はどんどんつまらなくなっていきます――それはおそらく、よいことなのでしょうが。

『週刊プレイボーイ』2015年4月6日発売号
禁・無断転載

「理想」を実現しても、なにもかもうまくいくとはかぎらない 週刊プレイボーイ連載(189)

チュニジアの首都チュニスの博物館をイスラーム過激派の武装集団が襲撃し、日本人3名を含む20人以上が殺害されました。被害者の多くは地中海クルーズでチュニスに立ち寄り、現地ツアーで博物館を訪れていたといいます。

豪華客船で地中海の旅を楽しむのは安全で快適な旅をしたい旅行者で、彼らには危険な地域に行くという意識はなかったでしょう。富裕な外国人観光客がテロの標的になったのは衝撃的で、この事件でチュニジアの観光業が大打撃を被るのは避けられません。

エジプトでも今年2月、自爆テロで韓国人観光客3人と観光バスの運転手が死亡しています。イスラーム原理主義者のテロ組織はシナイ半島の「イスラム国」化を目指しているとされ、エジプト在住の外国人に対し、国外に退去しなければ攻撃対象になると警告していました。

外国人観光客に対するテロが卑劣なのは、きわめて“効果的”だからす。外交官やビジネスマンとちがい、楽しむために旅行するひとたちは生命を危険に晒そうなどとは思いません。この事件を受けて自民党の政治家が「行ったらいかんと言われる所は行かんことだ」と発言しましたが、これこそがまさにテロリストの狙いです。

観光業が壊滅し、それで生計を立てていたひとたちが貧困化すれば、社会はより不安定になります。観光客を呼び寄せるには軍や警察が観光地を警備し、ホテルやレストランにも警備員を配置しなければなりませんから、大きなコストがかかります。それによって政府の財政が苦しくなれば、貧困層の不満はさらに高まり、テロ集団はそれを利用して組織を拡大していくのです。

チュニジアでは2010年末、一人の青年の焼身自殺を機に国内全土に反政府デモが広がり、長期独裁政権が転覆して大統領が国外に逃亡しました。このジャスミン革命がエジプトの民主革命、リビアのカダフィ政権崩壊、シリアでの内戦勃発などの大きな政治的動乱を引き起こしました。これが「アラブの春」ですが、それから5年も経たないうちに熱狂は幻滅へと変わります。ほとんどの国で「民主化」が実現しないばかりか、独裁時代よりも状況ははるかに悪化しているからです。

そのなかでも、国内に複雑な民族・宗教対立を抱えていないチュニジアは「民主化の優等生」と見なされてきました。野党指導者の暗殺による政治の混迷を乗り越え、憲法を制定し民主選挙を実施するところまで漕ぎ着けましたが、今回の事件はこうした努力を台なしにしかねません。

リベラルデモクラシーが、人類の歴史上もっとも自由で平等な、ゆたかな社会をつくったことは間違いありません。しかしそれと同時に、「理想の政治制度」が劇薬にもなるという苦い現実も認めざるを得ません。アメリカが大規模な兵力と財力を投じたイラクとアフガニスタンで「民主化」の実験が無残な失敗に終わったように、民族的一体感がないところでは、民主選挙が国内の権力闘争を泥沼化させてしまうのです。

欧米の政治家や知識人は、リベラルも保守派も、独裁こそが諸悪の根源だと批判してきました。そしていま、自らの崇高な理念が惨憺たる結果を招いたのを目の当たりにして、過去の失敗を取り繕い、「面倒な国々」から手を引こうと四苦八苦しているようです。

参考:ポール・コリアー『民主主義がアフリカ経済を殺す』

『週刊プレイボーイ』2015年3月30日発売号
禁・無断転載

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チュニスの観光地スーク(市場)の入口にあるフランス門

ギリシアがドイツの「戦争責任」を問題にするのはなぜ? 週刊プレイボーイ連載(188)

ギリシアのチプラス政権がドイツに対し、第二次世界大戦の占領で被った損害1620億ユーロ(約22兆円)の賠償を要求しています。それに対してドイツは、「賠償問題はすべて解決済み」と拒否しました。

この報道に、なんかヘンだと思ったひとも多いでしょう。日本はいつも、戦争責任をめぐってドイツと比較され、批判されていますが、ギリシアとドイツのやり取りはアジアのどこかの国とそっくりです。

戦後の日本とドイツが置かれた立場のちがいは、人類の“負の遺産”となったヒロシマとアウシュヴィッツを比べればわかります。どちらも人類史に画期をなす大事件ですが、強制収容所がユダヤ人絶滅計画という「加害」の記録だとすれば、広島・長崎への原爆投下では多数の市民が死亡し、重い原爆症で苦しんだのですから、こちらは「被害」の歴史遺産です。映画『ゴジラ』に象徴されるように、戦後の日本人は原爆を天災とみなすことで「罪の相殺」をしてきました。

日本は沖縄が戦場になりましたが、北方四島などを除き「固有の領土」を失うことはありませんでした。それに対してドイツは、敗戦によって多大の犠牲を払うことになります。

首都ベルリンが陥落すると、ドイツ東部ではロシア兵によって数十万人(200万人ともいう)の女性が強姦されました。冷戦で国土が東西に分割されたばかりか、スターリンはポーランド東部の領土をソ連に編入する代わりに、ドイツとの国境を大きく西に動かし、ドイツの領土のおよそ4分の1をポーランドに割譲させました。これによって1000万人以上のドイツ人が追放され、リンチや強姦などの報復行為で210万人が死亡または行方不明になったといいます。

ドイツの「戦争責任」を取材したジャーナリストの木佐芳男氏によれば、こうした“被害体験”によって、「第二次世界大戦におけるドイツ軍の加害行為を謝罪すべきだ」と考えるドイツ人は、一般市民や政治家はもちろんリベラル派の知識人のなかにもほとんどいないといいます。

戦争で多大な被害を受けた英仏がドイツに寛容だったのは、第一次大戦で過酷な賠償を取り立てたことがナチスの台頭につながった歴史の教訓があったためです。ソ連の核兵器保有は、西ドイツの戦争責任を追及するよりも、西側陣営にとどめておくことを死活問題にしました。そのうえヨーロッパの国はどこも「植民地」や「侵略」で大なり小なり手を汚しているので、それを持ち出すと収拾がつかなくなるのです。

それでは、ドイツはなにを謝罪しているのでしょうか。それは、一方的な「加害」であることが明白で言い逃れのしようのない罪、ホロコーストについてです。

しかしその罪は、ドイツでは「ナチス」によるものとされています。ドイツ国民の「責任」とは、ヒトラーという“オーストリア生まれの外国人”を指導者に選んだことです。このような都合のいい責任の分離は、天皇の名のもとに戦争を行なった日本では使えません。

冷戦下の国際政治が、ドイツの謝罪と隣国の寛容を可能にしました。これはもちろん戦後ドイツ外交の大きな成果ですが、その条件がないところでは日本と同様の戦争責任問題が起きるのもまた事実なのです。

参考:木佐芳男『〈戦争責任〉とは何か』(中公新書)

『週刊プレイボーイ』2015年3月23日発売号
禁・無断転載