第51回 サラリーマン大家の悲哀(橘玲の世界は損得勘定)

日本では借地・借家人の権利が手厚く保護されている。これは戦時中、出征した兵士が帰国して住む家がなくなることを防ぐ目的で、借家契約の更新を「正当な事由」がなければ拒絶できないとしたためだ。

この正当事由は賃料不払いなどに限定されているため、賃料を払いつづけていれば、物件は実質的に借地・借家人の所有物になってしまう。賃貸住宅で暮らしているのは経済的に苦しいひとが多いから、これは弱者を保護するよい制度のように思えるが、現実には、過度の優遇が日本の不動産賃貸市場を大きく歪めてきた。

このことは、家主の立場になってみればすぐにわかる。

お金を貸せば、一定期間後に、契約に従って元本が返済される。ところが家や土地を他人に貸すと、利息のみが支払われ、いつまでたっても元本は戻ってこない。これが、資産運用にとって大きな制約であることはいうまでもない。

そのため大家は、不動産を“所有”されないようわざと賃貸物件を安普請にし、2年にいちどの更新料で退去を促し、入居の際に礼金を設定して物件の回転率を上げようとしてきた。さらには、賃料を踏み倒されないよう、契約にあたって連帯保証人を要求した。

この保証人は親族に限定されているが、高齢化で親の保証が難しくなり、連帯保証のトラブルが頻出したことで、最近では家賃賃貸保証会社の利用を条件にするところが多くなった。

賃料の半月~1カ月分(および更新時に家賃の3~5割)を支払えば保証人が不要になる制度は、一見、便利なようだが、借主からすれば負担増でしかない。信用力に問題のない優良な入居者ほど、保証会社の利用を条件とする物件を避けようとするだろう。これは、経済学でいう「逆選択」の問題だ。

大家にとっても、家賃賃貸保証がいちがいに有利とはいえない。入居費用が割高になることで、保証会社不要の賃貸住宅との競合で不利になるからだ。

従来の保証人方式は、賃料不払いの解決が大家の自己責任になるため、入居審査がきわめて厳しい。最近では、連帯保証人の印鑑証明だけでなく、収入証明まで要求するところもある。有利な物件は、本人が正社員で、保証人である親族も現役という一部のひとしか借りられないのだ。

ネットには、「契約社員や非正規社員にはぜったい貸さない」「家族に連帯保証を頼めないような人間は信用できない」などの大家の書き込みが大量にある。彼らは当然、外国人などはなから相手にしないだろう。

一時期流行った「サラリーマン大家」は、資産の大半を数戸の賃貸住宅に投資しているのだから、賃料不払いの被害は甚大だ。彼らが入居者のリスクを避けようとすることを、道徳論で非難しても仕方がない。

大家になることを夢見たのは、ごくふつうのひとたちだ。だが残念なことに、現在の借地・借家制度の下では、不動産で資産運用しようとすると差別と偏見にとらわれてしまうのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.51:『日経ヴェリタス』2015年7月5日号掲載
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40代になると、サラリーマンは「置かれた場所で咲く」しかない 週刊プレイボーイ連載(202)

テストステロンは代表的な男性ホルモンで、性行動だけでなく、健康や気分に大きな影響を与えます。

男性ホルモンは競争や闘争にかかわり、ヒトでもチンパンジーでも集団のなかで地位が高いオスは濃度が高く、抑うつ状態だと低くなります。ただしこれは、男性ホルモン値が高いと成功するのではなく、地位の上昇でホルモン値が高くなっていく(地位がひとをつくる)のかもしれません。その証拠に、リーダーの地位から転落すると男性ホルモン値は急激に下がってしまいます。

テストステロンは性ホルモンなので、思春期から20代にかけてもっとも多く、30歳くらいから減少しはじめ、年をとるにしたがって少なくなっていきます。現在では唾液から簡便に測定する方法が開発され、高齢では男性ホルモンが多いほど長生きするなど、研究が進んでいます。

大手企業に勤務している健康な男性を対象に、2時間おきに男性ホルモン量を測った研究があります。それによると、20~30代の男性ホルモン値は朝にもっとも高く、夜になるにつれて徐々に減少していきますが、40~50代、および60代以上では昼食後の午後3時が最低になっています。午後の会議がつらいのは、じつはホルモン値が下がっているからかもしれません。

しかしより衝撃的なのは、40~50代の男性ホルモン値が、60代以上よりも明らかに低いことです。テストステロンの量が年齢で決まるなら、こんなことはあり得ないはずなのに、いったいなにが起きているのでしょう。

研究者は、日本の企業では40~50代のサラリーマンのストレスがもっとも大きく、それが男性ホルモン値を引き下げているのではないかと考えています。

年功序列の人事制度では、年齢が上がるにつれて責任が重くなっていきます。それと同時に、会社組織はピラミッド型なので、出世街道から脱落するリスクも大きくなります。家庭でも、住宅ローンの支払いや子どもの教育費が重くのしかかる年代です。

それに対して60歳を過ぎるとサラリーマン人生も終わりが見えてきて、挫折もあきらめと開き直りに変わってきます。子どもも手が離れ、家計にも余裕ができてくるでしょう。それにともなって、どん底だった男性ホルモン値が回復してくるのです。

日本の労働市場では、転職が可能なのは35歳までといわれています。40歳を過ぎると会社にしがみつくしか生計を立てる方途がなくなり、「サラリーマンという罠」にとらえられてしまいます。男性ホルモン値をみるかぎり、ここから20年がもっともつらい時期で、それを耐え抜いて60代になるとようやく薄日が差してくる、というのが多くの日本人の人生のようです。

40歳の男性ホルモン値が60歳より低いのは、かなり異常な状態です。日本企業では中高年の自殺が深刻な問題になっていますが、うつ病と男性ホルモンの低下に強い相関関係があることもわかっています。

こうした現状を改善するには、年齢にかかわりなく能力を活かして転職できる流動性の高い労働市場が必要ですが、「日本的雇用を守れ」と頑強に抵抗するひとたちがたくさんいるので、いまだにそれは絵に描いた餅です。40代や50代は、これからも「置かれた場所で咲く」しかないようです。

参考文献:堀江重郎『ホルモン力が人生を変える』(小学館101新書)

『週刊プレイボーイ』2015年7月6日発売号
禁・無断転載

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堀江重郎『ホルモン力が人生を変える』P103

「同一労働同一賃金」が都合が悪いほんとうの理由 週刊プレイボーイ連載(201)

「相手の身になって考えてみよう」というのは、小学生でも知っている道徳の基本です。これをちょっと難しくいうと、「自分の主張が正しいのは、自分が相手の立場になっても、その主張が正しいと納得できる場合だけだ」ということになります。

人種差別をするひとは、自分が外国に行ったときに、「お前は黄色人種だからあっちの汚いトイレを使え」といわれて、「わかりました! ひとを人種で差別するなんて、なんて素晴らしい社会なんでしょう」と素直に納得できなければなりません。こんな奇特なひとはめったにいないでしょうから、人種差別が正義に反することが普遍的なルールとして要請されるのです。

「同一労働・同一賃金」は日本では労働制度の問題とされ、派遣法改正といっしょくたに議論されていますが、その本質は「正義」にあります。

正社員と同じ仕事をしている派遣社員の給料が半分、というのはよく聞く話です。これを当然と思っているひとは、自分が派遣社員になったときに、「いやあ、正社員を優遇する日本的雇用って素晴らしいですねえ」とこころから喜べなくてはなりません。

保守派のひとたちが礼賛する日本的な雇用慣行は、新卒一括採用・定年制という年齢差別、残業できない女性を管理職に登用しない性差別、日本人と外国人(現地採用)で人事制度が異なる国籍差別、正社員と派遣社員で待遇を変える身分差別で成り立っています。ここまで差別的な組織が社会の根幹にあれば、「日本は差別社会だ」といわれても反論できません。同一労働・同一賃金は、日本を「世界に誇れる国」にするための最低条件なのです。

ところが不思議なことに、常日頃から「あらゆる差別に反対する」と公言しているリベラルなメディアは、こんなに大事な「同一労働同一賃金推進法案」についてほとんど触れず、年収1075万円以上の限られた雇用者にだけ適用される高度プロフェッショナル制度に「残業代ゼロ」のレッテルを貼り、ファストフード店の店員まで残業代をもらえなくなるかのような偏向した報道をつづけています。なぜかというと、同一労働・同一賃金は彼らにとってものすごく都合が悪いからです。

日本的雇用制度で、派遣社員問題よりさらに深刻なのは、親会社から出向してきた社員と子会社の社員(プロパー)の身分格差です。会社組織はピラミッド型で、年功序列の正社員を解雇できないとなると、給料の高い中高年がどうやっても過剰になります。そこで彼らを子会社に出向させるのですが、その際、給与などの労働条件を改定できないため、同じ仕事をしていても、子会社の水準よりはるかに高い給与を受け取ることになります。

日本の会社制度の根幹は、実はこの出向にあります。親会社の正社員は、これまでと同じ待遇が保証されるから、子会社での勤務をいやいや受け入れています。これを同一労働・同一賃金にしてしまうと、人事制度が根底から崩壊してしまうのです。

日本の新聞社やテレビ局で子会社への出向を行なっていないところはありません。そんなメディアが、同一労働・同一賃金の推進を主張できるわけはないのです。

差別的な身分制度に安住しながら口先だけで「差別」に反対する、そんな“似非リベラル”とバカにされないためには、まずは自らの組織で範を示すべきでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年6月29日発売号
禁・無断転載