「教育と格差」をいい立てるうさんくさいひとたち 週刊プレイボーイ連載(186)

トマ・ピケティの『21世紀の資本』が経済書としては異例のベストセラーになったことで、また「格差」をめぐる議論がにぎやかになってきました。

ある大学では、4万人を対象に、親の年収や学歴を合成した指標(家庭の社会経済的背景=SES)と子どもの学力の関係を調べました。それによれば、SESが最低で毎日3時間勉強する子どもよりも、SESが最高で学習時間ゼロの子どもの方が、小中学校ともに学力が上だったといいます。

これを報じた記事では、この結果を「衝撃的」として、「親の経済力などが高い子どもほど高学力と高学歴を獲得しやすく、それが次の世代への連鎖を生む」としています。

しかし、この話は明らかにヘンです。SESは親の年収と学歴を合成したといいますが、なぜこんなことをしなければならないのでしょう。子どもの学力の決定要因を知りたければ、年収と学歴を別々にしてその影響を推計すればいいだけです。

記事では「親の経済力の差が教育格差を生む」としていますが、この指標からは「親が高学歴なら子どもの成績もいい」という説明も可能です。しかしなぜか、こちらの因果関係についてはひと言も触れられていません。

一卵性双生児のデータなどから行動や性格、知能における遺伝と環境の影響を調べる学問が行動遺伝学で、1960年代から膨大な研究が積み重ねられていますが、それによれば知能における遺伝の影響がきわめて高いことがわかっています。一例を挙げれば、論理的推論能力の遺伝率は68%、一般知能(IQ)の遺伝率は77%です(他の研究もこれとほぼ同じです)。

これがどのような値かは、身長66%、体重74%という遺伝率と比較すればわかるでしょう。背の高い親から背の高い子どもが生まれるように、親が高学歴だと子どもも高学力になるのです。「知能の高い親は社会的に成功してゆたかになり、遺伝によって子どもの成績もいい」と考えれば、経済格差と教育格差の謎はすっきり解決します。

私が問題だと思うのは、SESを開発した研究者(教育学者)たちは、当然、知能と遺伝の関係を知っているはずだからです。親の学歴と経済力を混ぜたのは、意図的に遺伝の影響を見えにくくするためでしょう。

なぜこんなことをするとかというと、教育格差の原因を親の経済力のちがいにしなければ、「教育」に税金を使わせるのに都合が悪いからです。問題が経済的なものであれば、教育費を無料にするなどして、教育格差を解消できるはずです。これは教育産業に莫大な補助金を交付するのと同じですから、研究者(大学教員)にとってこんなおいしい話はありません。

これは私のたんなる邪推でしょうか。

パン屋が「パンを食べれば長生きできる」と主張するのであれば、その科学的根拠を証明する責任はパン屋にあります。同様に教育者が「自分たちにカネを払えば社会はよくなる」というのであれば、行動遺伝学の知見を科学のレベルで反証しなければなりません。

もっとも、既得権を守り、拡張するために確信犯でやっているのなら、そんなことをする気は毛頭ないでしょうが。

参考文献:安藤寿康『遺伝マインド』

『週刊プレイボーイ』2015年3月9日発売号
禁・無断転載

中国にはなぜ「親日派」がいないのか(『橘玲の中国私論』あとがき)

新刊『橘玲の中国私論』より「あとがき」を掲載します。

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中国には「知日派」はいても「親日派」はいない。中国で「親日」のレッテルを貼られると、「漢奸」「売国奴」として社会的に抹殺されてしまうからだ。

これには歴史的な経緯がある。

日中戦争が泥沼化し、首都南京を攻略しても終戦のきっかけがつかめないなか、軍部は謀略によって傀儡政権を樹立することを計画する。白羽の矢が立てられたのは国民党の創設メンバーでありながら蒋介石と対立していた汪兆銘で、参謀本部第八(俗称「謀略」)課長影佐禎昭(かげささだあき)らが工作の中心となった。

1938年7月、汪兆銘の密使として極秘裏に日本を訪れた国民党政府の外交官、高宗武に対し、陸軍大臣、板垣征四郎は「日本は従来の因縁によって、どうしても蒋介石とは両立せぬ、もし蒋に代わって汪兆銘が出るならば、条件を寛大にし,、十分面子を立てるようにして、決して漢奸に終らしめることをしない」と約束した。

日本の敗戦によって、南京の傀儡政府も崩壊した。汪兆銘は終戦直前に病死していたが、その後を継いだ陳公博ら政権要人の亡命を日本政府は受け入れた。だが「戦勝国」である中国国民党政府から彼らの逮捕・送還を要求されると、政府と外務省はパニックに陥った。

外務省の決めた対応策は、「日本政府が信義をおろそかにするものではないことを力説する」としながらも、「結論的に日本政府の公式的な意見は、これを述べることなく、逆に陳主席の意向を引き出し、その次第によってあらためて処置を考える」というものだった。陳公博らの亡命工作を指導した小川哲雄(南京政府軍事顧問兼経済顧問補佐)はこれについて、「要約すれば、日本側から、中国に帰ってくださいとは、とうてい言えないが、帰ってもらえば助かる。何とか主席の面子を傷つけることなく、帰国の雰囲気に話をもってゆきたいということである。誠に虫のよい話。もはや正面きった信義論などどこかに吹き飛んで、厳しい現実に立った妥協が全面に出てきた」と述べている(劉傑『漢奸裁判』中公新書)。

日本に居場所のなくなった陳公博は中国に帰国し、ただちに処刑された。南京政府首相・汪兆銘は、敵国・金と和解するために愛国の英雄、岳飛を処刑した南宋の宰相、秦檜(しんかい)と並び、中国の歴史上最悪の漢奸となり果てた。日本の政治家や官僚は保身のために平然と「信義」を捨て、彼らを見殺しにしたのだ――こうして「親日」と「売国奴」は等号で結ばれることになった。

日本の保守派には中国の歴史認識や反日教育を批判するひとが多いが、元をただせばそこにはすべて理由がある。彼らがときに異常なまでに激高するのは、日本が侵略者であるかぎり、中国側の主張に理があることがわかっているからだろう。理屈で説得できなければ、あとは相手を恫喝するほかはない。

もちろんこれは、中国が「善」で日本が「悪」だということではない。問題は、歴史を善悪二元論でしか理解できない(あるいは理解しようとしない)人間が日本にも中国に多すぎることにある。こういうひとたちはそもそも理解を拒絶しているのだから、相手にしても仕方がない。

私はずっと、資産運用において個人のリスクと国家のリスクを切り離すことを提言してきた。日本が財政破綻し、円が紙切れになることを心配するひとがたくさんいるが、この不安は一定の資産を外貨建てにするだけで解消する。通貨の価値は相対的なものなので、円が紙切れになればその分だけ外貨の価値は大きくなり、トータルでの資産は何が起きても変わらない。

中国や韓国とのやっかいな歴史問題についても、考え方はこれと同じだ。

現代史についての基礎的な知識を持つことは大事だが、どちらの歴史認識が正しいかを議論することには意味がない。ひとは誰も、自分の見たいものしか見ないし、自分の理解したいものしか理解しないからだ。

だったら、国家の歴史認識と個人の人間関係を切り離せばいい。国家同士のくだらない諍いを離れてつき合える友ができたなら、これほど素晴らしいことはないだろう。

この「旅行記」が、中国を旅し、驚きたいひとの役に立てば幸いです。

2015年2月 橘 玲

『橘玲の中国私論』(ダイヤモンド社)より

「表現の自由」を定めた憲法21条は削除したらどうだろう 週刊プレイボーイ連載(185)

フランスの週刊誌『シャルリー・エブド』などに掲載された風刺画をまとめた本が出版されたというので近所の書店を回ってみたら、どこも「うちには入荷していません」とのことでした。報道によれば、大手書店でも販売を自粛するところが大半のようです。

こうした対応について、「ひとが嫌がるようなことをする表現の自由はない」と支持する意見が多いようですが、もしそうなら、同じ書店に、特定の民族や国家を揶揄・中傷する本が並んでいるのはなぜでしょう?

その理由は、わざわざ説明するまでもありません。相手がどれほど嫌がっていようと、気に食わない奴らをバッシングする自由はあるわけです。書店もムスリムの気持ちに配慮しているわけではなく、抗議されたら困ると思っているのでしょう。

もっとも、こうした風潮をいちがいに批判することはできません。欧米諸国とイスラームの複雑な歴史に日本は無関係で、「アタマのおかしい奴らを刺激して火の粉が飛んでくるのは真っ平だ」と一般のひとが思うのは無理もありません。書店は無防備ですから、抗議行動で混乱が起きれば対処できないと考えるのも当然です。

この件でどうにも理解できないのは、マスメディアや“識者”の反応です。

700万部が売れたという事件後の『シャルリー・エブド』特売号の表紙を日本のメディアはほとんど掲載しませんでしたが、これを「ムスリムに対するヘイトなのだから当然だ」と擁護する“リベラル”なひとたちがいます。しかしそうなると、この“ヘイト本”を買った700万人や、「私はシャルリー」の言葉を掲げて街頭に立った350万人のフランス人はイスラームを差別する「極右」ということになってしまいます。

これはどう考えても荒唐無稽な話ですが、そう思ったひとが自分で判断しようとしても、肝心の風刺画を見ることができません。「私はヘイト表現だと感じた。だから掲載するな」というのは、個人的な判断を一方的に読者に押しつける知識人の横暴以外のなにものでもありません。

もちろんここで、「風刺画を見たければネットにいくらでもある」との反論もあるでしょう。しかしそれを認めるのはメディアの自己否定で、「真実はすべてネットにあり、新聞やテレビはウソばかりだ」ということになってしまいます。そしてこれは、ネットを使ってISIS(イスラム国)が信じ込ませようとしていることなのです。

書籍は、自らの意思で手に取ったひとしか内容がわかりません。表紙に風刺画を使っておらず、ムハンモドの顔をモザイクで隠した本ですら販売させないというのは、明らかに行きすぎです。日本の市民社会を律しているのは日本国憲法であり、シャリーア(イスラーム法)ではありません。誰の気持ちも傷つけない「表現の自由」しか認めないのなら、(言論・出版の自由を定めた)憲法21条など不要ですから、さっさと削除してしまえばいいでしょう。

もちろん日本に住むムスリムには、風刺画を掲載した新聞社や出版社に抗議する自由があります。しかしそれと同時に、自由な市民社会のルールを尊重しなければなりません――こんな当たり前のことをいちいちいわなければならないのは、ほんとうに残念です。

『週刊プレイボーイ』2015年3月2日発売号
禁・無断転載

【後記】

『新文化』2015年2月10日号に『イスラム・ヘイトか、風刺か』を出版した第三書館の北川明社長のインタビューが掲載されていたので、その一部を引用します。なお北川氏は、本書の企画意図について、「(シャルリー・エブドは)風刺漫画なのだから、漫画を出さずに議論することはありえない」と述べています。

――イスラム教関係者が本を置かないように要請した書店もあったと聞くが。

北川 いつも常備を入れている書店にはイスラム教徒が押しかけ、注文がキャンセルになってしまった。本の内容を見てからならまだわかるが、この度の一連の書店の反応には愕然とした。中国・韓国を貶める『ヘイト本』はかなり悪質だが、書店は売れるから売る。それはいいが、本書を読んでもいないイスラム教徒が来ただけで、この本を売らないという。

 では、韓国人、中国人が(ヘイト本を)置かないでほしいと言ったらどうするのか。在日の人が『売らないで』といっても書店は売るだろう。それは書店人の“差別”だと思う。

――本に対する反応は。

北川 本を読まずして非難している。抗議しているイスラム教徒にも「読んでみてほしい」といったが、「いらない、読みたくない」との答えだった。彼らはこの本が『シャルリー・エブド』を礼賛していると勘違いしている。イスラム教徒としては預言者ムハンマドが否定されている本は一切知りたくないという心情はわかるが、取り上げること自体がけしからんという立場だ。