大惨事が生み出す“見えない”二次災害 週刊プレイボーイ連載(97)

 

アメリカ3大市民マラソンのひとつボストンマラソンで爆発事件が起き、沿道で父親を応援していた8歳の男の子を含む3人が死亡し、140人以上がケガをしました。中国では上海を中心に鳥インフルエンザの拡大が止まらず、すでに16人が死亡し、ヒトからヒトへの感染も疑われています。

私たちは無意識のうちに、今日と同じ平穏な日々がこれからも続くと思っています。だからこそ、その“常識”を覆すような特別な出来事にとても敏感です。

これは、ヒトが長い進化の過程で生き延びるための必須の能力でした。しかしその結果、私たちはある特定のリスクだけを過大に評価するようになりました。

もちろん、爆弾テロや鳥インフルを些細な出来事だといっているわけではありません。しかし、マスメディアがテロや感染症の恐怖をあまりにも言い立てると、深刻な二次災害を引き起こすことが知られています。

2001年の9.11同時多発テロは、イスラム過激派のテロリストが4機の旅客機をハイジャックし、ニューヨークの世界貿易センタービルとワシントンDCの国防総省(ペンタゴン)に激突させ、およそ3000人の死者を出した大惨事でした。

旅客機の衝突で高層ビルが崩壊するという衝撃的な映像を繰り返し見せられたアメリカ人は、「飛行機は危険だ」と不安に感じ、長距離の移動にも“より安全な”車を使うようになりました。しかし現実には、車は飛行機よりもはるかに危険だったのです。

アメリカでは、交通事故の死者は年間で6000人に1人です。それに比べて飛行機はきわめて安全な乗り物で、事故による死者は全世界で年間500~1000人です。これを確率に直すと、毎日飛行機に乗ったとして、事故に遭うのはおよそ500年に1回になります。

あるリスク管理の専門家は、仮にテロリストが1週間に1機の割合で旅客機をハイジャックし地表に激突させたとしても、毎月1回飛行機を利用するひとがテロに遭遇して死亡する確率は13万5000人に1人だと試算しました。ハイジャックが頻発する恐ろしい世界でも、車での移動は飛行機より20倍以上も危険なのです。

同時多発テロが起きた直後から、アメリカでは路上での事故死が急増するようになりました。この数字はおよそ1年後に元に戻りますが、その間、移動手段を飛行機から車に替えたことで増えた死者の数は1595人と推定されています。同時多発テロは、ひとびとのリスク感覚を狂わせることによって、1年間でテロ被害者の半分にも達する“見えない犠牲者”を生み出していたのです。

日本は2011年に、東日本大震災と福島原発事故という大きな悲劇に見舞われました。地震や原子力災害についての大量の報道は、やはりひとびとのリスクに対する認識を誤らせ、非合理的な行動を選択させる可能性があります。

危険を避けようとするのは、生き物としての本能です。しかし、そこには別の危険が待っているかもしれないのです。

 参考文献:ダン・ガードナー『リスクにあなたは騙される』

『週刊プレイボーイ』2013年5月7日発売号
禁・無断転載

海外旅行のコストパフォーマンス

帰国したばかりでちょっとばたばたしているので、記事の更新は後回しにして、最近見つけた面白いデータを紹介します。

これは『ブレイクアウトネーションズ』の著者ルチル・シャルマがつくった「フォーシーズンズ指数」で、高級ホテルグループ、フォーシーズンズのドル建て料金(スタンダードルーム1泊)を国別に調べたものです。海外出張に行くエリートビシネスマンのCP(コストパフォーマンス)感覚を表わしている、といってもいいでしょう。

これを見ると、ロシアとブラジルという、BRICsのうちの2カ国の宿泊費が明らかに高いことがわかります。ロシアは社会主義の時代が長く、海外からの旅行者向けのホテルが少ないという事情もありますが、著者はこの現象を、石油や天然ガス、金属などのコモディティ価格が上昇したからだと指摘しています。

因果関係は諸説あると思いますが、この奇妙な現象はおおよそ次のように説明できます。

  1. コモディティ価格が上がると資源国に外貨が流入して経済が過熱する
  2. 経済が過熱すると消費者物価が上昇してインフレなり、国民の不満が高まる
  3. 値上げ反対のデモが起こるようになると、政府はインフレを抑えるべく金利を引き上げる
  4. 高金利に引き寄せられてさらに外貨が流入し、通貨が高くなる
  5. 通貨が高騰した結果、ドル建てではすべての価格が割高になる
  6. こうして、モスクワやサンパウロの高級ホテルの料金は先進国の主要都市よりもずっと高くなる

著者は、「高すぎると感じたら、おそらくそれは正しい」といいます。サンパウロで1泊7万円、モスクワでは1泊9万円という宿泊料金はどう考えても異常で、いずれは為替の変動によって調整されることになるはずです。

これに対して同じBRICsでも、中国やインドのような資源輸入国の通貨はそれほど高くなりません(中国の場合、為替管理をしているというのもありますが)。それよりもさらに割安感が強いのが、タイ、インドネシア、マレーシアといった東南アジアの国々です。これらの国なら5つ星ホテルでも1泊1万円台で、最高級のホテルでも1泊2万円台から泊まれます。こうした“割安国”が日本から近い東アジア、東南アジアに集中しているのはうれしいことです。

ちなみに、東京のフォーシーズンズは正規料金が1泊10万円を超えますが、Expediaなどを見ると1泊400~500ドルなので、先進国の平均よりかなり割安です。アジアで明らかにホテル料金が高いのは香港とシンガポールで、日本はいつのまにか「安く旅行できる国」になりました。

ゴールデンウイークが終わったばかりですが、夏のバカンスをどこで過ごそうか計画を立てるときに、「フォーシーズンズ指数」で海外旅行のCPを考えてみるのもいいかもしれません。

第29回 キプロス、預金保護の危うさ(橘玲の世界は損得勘定)

 

地中海の島国キプロスをめぐる春の椿事は一段落したようだが、いったいなにが問題だったのだろうか。

最大の衝撃は、「国家が預金封鎖で国民の資産を没収する」という現実をひとびとが目の当たりにしたことだ。

個人にとって預金とは、納税という市民の義務を果たした後に手元に残ったお金を積立てたものだ。国家は国民の財産を保護する義務を負っているのだから、預金の利子ではなく元本に課税することが財産権の侵害にあたることはいうまでもない。

だが今回の問題は、もうすこし複雑だ。

ギリシア国債に多額の投資をしていたキプロスの銀行は、ギリシアの財政破綻で債権放棄を迫られて債務超過に陥ってしまう。しかし“金融立国”キプロスでは、金融機関の総資産がGDPの7倍もあって、国家に銀行を救済する財政余力がない。ない袖は振れないのだから、「財産権」など絵に描いたモチで、このままでは国家も金融機関もろとも破綻するほかなかったのだ。

国家と金融機関の全面的なデフォルトが起これば、預金は半分以下になってしまう。これに対してEUは当初、支援の条件として、すべての銀行預金に10%程度課税することを求めていた。放っておけば半分になるお金が9割も戻ってくるのだから、預金者も喜んで受け入れるだろうと考えたのだ。

ところがキプロス政府は、これまで国民に都合の悪い話をいっさいしてこなかった。正直にいおうものなら取り付け騒ぎが起きるのは目に見えていたからだろうが、それによって事情を知らないキプロス国民が「全額保護されるはずの預金をカットするな」と怒り出し、事態は迷走を始める。

キプロス問題の本質は、すでに報じられているように、ロシアからグレイな資金が大量に流れ込んでいることと、資金の出し手であるドイツが今秋に総選挙を控えていることだ。ロシアマフィアの資金を保護するような銀行救済は、最初から認められるはずはなかった。

けっきょく、10万ユーロ(約1300万円)以下の預金を全額保護する代わりに、銀行の株式と交換するかたちで、高額預金に最大で6~8割課税することに落ち着いた。一般の預金者(有権者)を保護するとともに、高額預金のかなりの割合を占めるロシアマネーに“懲罰”を加えることでドイツの顔も立てようとしたのだ。

だが、この案をそのまま実行するのは不可能だ。キプロス経済は観光業で支えられているが、大型ホテルの運転資金(これも銀行に“高額預金”されている)を差し押さえてしまえば、従業員に給与すら払えなくなってしまう。

おそらくいま水面下でさまざまな交渉が行なわれているのだろうが、混乱が再燃するようなら、一律10%カットを受け入れた方がずっとマシだった、ということになりかねない。政府が国民にいい顔をしようとすると、たいていの場合事態はよりヒドい方に転落していくのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.29:『日経ヴェリタス』2013年4月21日号掲載
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